前の投稿では、橋下擁護のように受け取られたかも知れませんが、私自身は、橋下市長率いる【維新の会】の政策、行動、発言には明確に反対です。というより、維新の会は、ファッシズムそのものだと認識しています。
橋下市長誕生以前より、彼に対する厳しい批判を繰り返している広原盛明氏(都市計画・まちづくり研究者)は、市長選で橋下氏を支持した中間層を「毒をもって毒を制す」という視点で分析しています。
・・・
「中高年ミドルクラスの橋下投票行動の直接的契機になったのは、解同の利権漁りや市職員の不祥事をいっこうに是正できない(しようとしない)「大阪市役所一家=市役所ムラ」への激しい怒りだった。大阪府立高校ОBである私は、かねてより数多くの同窓生からこの種の不満や憤慨を嫌というほど聞かされてきた。彼らの多くは大阪経済の中核を担う中小企業の経営者であり、大阪の政治動向を左右する自営層だ。また、その大半が自民党支持者でもある。
解同批判の急先鋒が共産党(および支持者)であることは誰でも知っているが、「自営層=真面目な自民党支持者」がそれに次ぐ批判グループであることは案外知られていない。市役所との「コネ」(癒着)だけで系企業に仕事を取られて自分たちのところへは回ってこない、仕事を取ろうとすれば系企業とジョイントを組まなければ仕事をやらないと市役所から強要される、ジョイントを組めばろくに仕事もしないで法外な下請代金を請求される(ぼられる)、こんな愚痴(ぼやき)が飲み会では山ほど出てくるのである。
橋下氏が大阪市長選挙に立候補したとき、私の友人たちのほとんどは「毒(橋下)を以て毒(解同)を制す」だとして橋下候補を応援した。また、「比叡山(市役所ムラ)を焼き討ちするには信長(橋下)しかない」とも冗談めかして言っていた。松谷氏が分析した中高年ミドルクラスの橋下支持は、このようなローカルの“大阪事情”に裏打ちされていたのではないかと私は推察している。
同じ「ミドルクラス」(中間層)と言っても、大阪では東京のように新中間層のホワイトカラー(専門・管理職)の比重がそれほど高くない。むしろその主流は、旧中間層に属する中小企業経営者(自営層)である。この人たちが橋下投票行動に走ったのは、新自由主義的イデオロギーからでもなければ、新保守主義的志向からでもない。「額に汗して働かなければまともな人間にはなれない」という真面目な職業観・人生観を持った正真正銘の保守層だったからこそ、市政を食い物にする解同が許せなかっただけのことなのだ。」
・・・・
リベラル21 http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2153.html
実は、この種の批判は、解放同盟に対する批判の大変大きな部分を占めているのです。大阪ほどではないにせよ、多かれ少なかれ同様の思いを抱いている人は少なくないはずです。それでも、同和対策措置法が存続している間は、批判の声は大きくなりませんでしたが、法が切れてからは、かなり顕在化してきました。
わたしの経験から語りますと、全国同和教育研究会などに出席している時、同和教育の先進地区として大阪などの学校から報告される取り組み・研究などにある種の違和感を禁じえませんでした。これは【解放教育】ではなくて、一種の【解放区】教育ではないのか、という疑問でした。
わたしたち教師は公教育を担う一員です。という事は、地区の子供たちにもそうでない地区の子供たちにも平等に責任を持たなければなりません。平たく言うと、どの子どもたちの目からも、「先生はわたしたちに差別なく平等に接してくれている」と感じてもらわなくてはなりません。どの子どもの希望・夢にも、その実現のために平等に助力をしなければなりません。たとえそれが人を蹴落としても自分だけが偉くなりたいがために良い学校に進学したいというエゴ丸出しの希望であってもです。
大阪などの先進校の発表は、そのエゴを否定する事から出発しているように思えてならなかったのです。理論的に突き詰めれば、正しいのかも知れませんが、それは余りに現実無視ではないかと思えてならなかったのです。なぜなら、日本社会は、就職・会社での昇進・給料・結婚など全ての事柄で、学歴優先の現実が牢固として存在しています。現在でもそれは存在しています。それを間違いだと否定して生きる、というのは、他者が強制する事ではなく、自分自身が決断し、自分自身の覚悟でなされるべきだと考えていたからです。
教師ができる事は、子供たちに自らの「差別心」をのぞきこませ、その差別心のもたらす様々な行為(いじめなどが代表)の影響(自殺などの現実的なものや歴史的なもの)を徹底的に考えさせる事だけだと考えていました。そこから、子供たちが自分自身の生き方、行動、などを考える契機になれば、もって瞑すべきだと考えていたからです。
だから、わたしは、受験教育も熱心に行いました。受験教育の功罪は、大人社会が決定すべき事で、子供自身に賛成・反対を含めた大人の価値観を押し付けるべきではないと考えたからです。受験競争は現実であり、受験教育が良いとか悪いとかを決めるのは子供自身であり、教師や学校が決める事ではない。これが公教育の役割だと考えていました。私立学校の場合は別です。それぞれの学校が、それぞれの教育理念に基づいて、教育すれば良いのです。それが厭なら、その学校を選ばなければ良いのですから。
わたしの教育理念から見れば、大阪などの先進地区とされた実践・研究は、あまりにも過激ではないかと思えてならなかったのです。これでは、同和対策措置法が終わった時の反動が怖いな、というのが正直な感想でした。この問題に関しては、地区の解放同盟の幹部とも何度か論争しました。
わたしの意見は、同盟の運動は、あくまで差別はなくさなければならないという【理念闘争】に重点をおくべきであり、間違っても【物とり闘争】に傾斜しすぎては駄目だというものでした。たしかに【物とり闘争】は、多くのの人たちに生きる希望を与えました。の人たちには、物が決定的に欠落していたからです。その意味では解放同盟の活動は、高く評価されなければならないと思いますが、その活動は、本当の意味での崇高な理念に支えられていなければ、いつの日かただの【物とり闘争】に堕してしまう危険性があります。日本の労働運動の現状を見れば、この事は理解されると思います。同時に、【物とり競争】に傾斜しすぎると、その運動に便乗し、利用する人間が現れます。これが、目に余ると、当然ながら、【物とり】の恩恵に預かれなかった人間の恨みを買います。これが新たな差別を生みだす契機になります。冒頭で紹介した大阪の事例がその典型です。
橋下市長は、自分自身の出自を恨んでいるというより「憎んでいる」と思えてなりません。今回の問題に対する彼の過剰とも思える反発は、彼の骨がらみの出自に対する【憎悪】だと思います。それだけ、彼の受けた差別の現実が苛酷だったという事なのでしょう。優秀であればあるほど、ナイーブであればあるほど、彼の受けた心の傷は深かった、と思います。だからこそ彼はのし上がったのでしょう。この道程は生半可のものではなかったはずです。この過程で、橋下市長の特異な人格が形成されたのだと思います。
ここまでの個人としての橋下市長の思いは、よく理解できます。しかし、現在の彼は大阪市長であり、【日本維新の会】の指導者という【公人】です。彼の言動は、大阪市民という視点と有権者としての国民という視点で判断されなければなりません。
【同和対策審議会答申】の言葉を借りれば、「経済的・社会的・文化的低位の状態におかれ、現代社会においても、なお著しく基本的人権を阻害され、とくに近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保証されていない」とされた集団から、彼は自分自身の能力と才覚と覚悟でそれを克服した人間です。その意味では、橋下徹という人間は高く評価されるべきだと思います。
しかし、彼がその過程で身に付けた人間観、人生観、それに基づいて提示された政治理念・政策・政治手法などには多くの疑問符が付きます。特に、教育に対する介入は、目に余るものがあります。先に紹介した広原氏の言を借りれば以下のようになります。
・・・
「当選後の橋下市長の行動は、見ての通り“やりたい放題”である。しかし「毒を以て毒を制する」ことを期待したこれらに人たちには、解同や(解同と癒着関係にある)市労連と真面目な公務員組合との区別がつかない。だから、教員・職員に対する強権的な思想統制も政治行動の規制も「いい気味だ」ということになる。橋下人気がなかなか衰えない理由がここにあるといわなければならない。」
・・・
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2153.html
わたしは、橋下市長が、本当の意味で【差別】を解消しようという王道を歩まなかった事が、上記のような危険な道程を歩み始めたといって過言ではないと考えています。真の意味での「差別」の解消は、一人一人が自らの心の中の【差別心】を克服しなければ、なしえません。これは、人間という生き物を理性で統御しなければなしえない事で、言葉の真の意味での【見果てぬ夢】だと思います。
この不可能とも思える命題に挑戦したのが、【解放運動】であり、【人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】と高らかに謳いあげたの宣言であります。
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/siryou/kiso/suiheisya_sengen.html
戦前の厳しい差別の現状に耐え、差別の克服に人生を賭けた解放運動の先人たちは、最後まで人間というものの崇高さを信じていたのです。だからこそ、【人間に光あれ】という言葉が人々の心を打ったのです。
橋下市長の大向こう受けを狙った政策は、広原氏が指摘するように、人間の劣情(いい気味だなど)に訴えたものが多い、という事は、彼は標的にされた人々を切り捨てる事を是認しているのです。これは事情が変われば、今度は、橋下氏を支持した連中が、標的にされるという事を意味します。この恨みの連鎖(劣情による報復の連鎖)の政治は、市民や国民にとって決して良い結果を招きません。それどころか、その修復には、十年以上の歳月と膨大なコストがかかります。小泉改革の後遺症がますます深刻になっている日本の現状が、その事の危険性を物語っています。
わたしから言わせれば、橋下市長は解放運動の原点に立ち返り、自らの出自に対する【憎悪】から脱却し、【人間に光あれ】と謳いあげた先人たちの深い人間に対する信頼を思い起こすべきだと考えます。そこから考えれば、現在の自らの理念・政策・言動全ての欠点が見えてくるはずです。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
橋下市長誕生以前より、彼に対する厳しい批判を繰り返している広原盛明氏(都市計画・まちづくり研究者)は、市長選で橋下氏を支持した中間層を「毒をもって毒を制す」という視点で分析しています。
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「中高年ミドルクラスの橋下投票行動の直接的契機になったのは、解同の利権漁りや市職員の不祥事をいっこうに是正できない(しようとしない)「大阪市役所一家=市役所ムラ」への激しい怒りだった。大阪府立高校ОBである私は、かねてより数多くの同窓生からこの種の不満や憤慨を嫌というほど聞かされてきた。彼らの多くは大阪経済の中核を担う中小企業の経営者であり、大阪の政治動向を左右する自営層だ。また、その大半が自民党支持者でもある。
解同批判の急先鋒が共産党(および支持者)であることは誰でも知っているが、「自営層=真面目な自民党支持者」がそれに次ぐ批判グループであることは案外知られていない。市役所との「コネ」(癒着)だけで系企業に仕事を取られて自分たちのところへは回ってこない、仕事を取ろうとすれば系企業とジョイントを組まなければ仕事をやらないと市役所から強要される、ジョイントを組めばろくに仕事もしないで法外な下請代金を請求される(ぼられる)、こんな愚痴(ぼやき)が飲み会では山ほど出てくるのである。
橋下氏が大阪市長選挙に立候補したとき、私の友人たちのほとんどは「毒(橋下)を以て毒(解同)を制す」だとして橋下候補を応援した。また、「比叡山(市役所ムラ)を焼き討ちするには信長(橋下)しかない」とも冗談めかして言っていた。松谷氏が分析した中高年ミドルクラスの橋下支持は、このようなローカルの“大阪事情”に裏打ちされていたのではないかと私は推察している。
同じ「ミドルクラス」(中間層)と言っても、大阪では東京のように新中間層のホワイトカラー(専門・管理職)の比重がそれほど高くない。むしろその主流は、旧中間層に属する中小企業経営者(自営層)である。この人たちが橋下投票行動に走ったのは、新自由主義的イデオロギーからでもなければ、新保守主義的志向からでもない。「額に汗して働かなければまともな人間にはなれない」という真面目な職業観・人生観を持った正真正銘の保守層だったからこそ、市政を食い物にする解同が許せなかっただけのことなのだ。」
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リベラル21 http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2153.html
実は、この種の批判は、解放同盟に対する批判の大変大きな部分を占めているのです。大阪ほどではないにせよ、多かれ少なかれ同様の思いを抱いている人は少なくないはずです。それでも、同和対策措置法が存続している間は、批判の声は大きくなりませんでしたが、法が切れてからは、かなり顕在化してきました。
わたしの経験から語りますと、全国同和教育研究会などに出席している時、同和教育の先進地区として大阪などの学校から報告される取り組み・研究などにある種の違和感を禁じえませんでした。これは【解放教育】ではなくて、一種の【解放区】教育ではないのか、という疑問でした。
わたしたち教師は公教育を担う一員です。という事は、地区の子供たちにもそうでない地区の子供たちにも平等に責任を持たなければなりません。平たく言うと、どの子どもたちの目からも、「先生はわたしたちに差別なく平等に接してくれている」と感じてもらわなくてはなりません。どの子どもの希望・夢にも、その実現のために平等に助力をしなければなりません。たとえそれが人を蹴落としても自分だけが偉くなりたいがために良い学校に進学したいというエゴ丸出しの希望であってもです。
大阪などの先進校の発表は、そのエゴを否定する事から出発しているように思えてならなかったのです。理論的に突き詰めれば、正しいのかも知れませんが、それは余りに現実無視ではないかと思えてならなかったのです。なぜなら、日本社会は、就職・会社での昇進・給料・結婚など全ての事柄で、学歴優先の現実が牢固として存在しています。現在でもそれは存在しています。それを間違いだと否定して生きる、というのは、他者が強制する事ではなく、自分自身が決断し、自分自身の覚悟でなされるべきだと考えていたからです。
教師ができる事は、子供たちに自らの「差別心」をのぞきこませ、その差別心のもたらす様々な行為(いじめなどが代表)の影響(自殺などの現実的なものや歴史的なもの)を徹底的に考えさせる事だけだと考えていました。そこから、子供たちが自分自身の生き方、行動、などを考える契機になれば、もって瞑すべきだと考えていたからです。
だから、わたしは、受験教育も熱心に行いました。受験教育の功罪は、大人社会が決定すべき事で、子供自身に賛成・反対を含めた大人の価値観を押し付けるべきではないと考えたからです。受験競争は現実であり、受験教育が良いとか悪いとかを決めるのは子供自身であり、教師や学校が決める事ではない。これが公教育の役割だと考えていました。私立学校の場合は別です。それぞれの学校が、それぞれの教育理念に基づいて、教育すれば良いのです。それが厭なら、その学校を選ばなければ良いのですから。
わたしの教育理念から見れば、大阪などの先進地区とされた実践・研究は、あまりにも過激ではないかと思えてならなかったのです。これでは、同和対策措置法が終わった時の反動が怖いな、というのが正直な感想でした。この問題に関しては、地区の解放同盟の幹部とも何度か論争しました。
わたしの意見は、同盟の運動は、あくまで差別はなくさなければならないという【理念闘争】に重点をおくべきであり、間違っても【物とり闘争】に傾斜しすぎては駄目だというものでした。たしかに【物とり闘争】は、多くのの人たちに生きる希望を与えました。の人たちには、物が決定的に欠落していたからです。その意味では解放同盟の活動は、高く評価されなければならないと思いますが、その活動は、本当の意味での崇高な理念に支えられていなければ、いつの日かただの【物とり闘争】に堕してしまう危険性があります。日本の労働運動の現状を見れば、この事は理解されると思います。同時に、【物とり競争】に傾斜しすぎると、その運動に便乗し、利用する人間が現れます。これが、目に余ると、当然ながら、【物とり】の恩恵に預かれなかった人間の恨みを買います。これが新たな差別を生みだす契機になります。冒頭で紹介した大阪の事例がその典型です。
橋下市長は、自分自身の出自を恨んでいるというより「憎んでいる」と思えてなりません。今回の問題に対する彼の過剰とも思える反発は、彼の骨がらみの出自に対する【憎悪】だと思います。それだけ、彼の受けた差別の現実が苛酷だったという事なのでしょう。優秀であればあるほど、ナイーブであればあるほど、彼の受けた心の傷は深かった、と思います。だからこそ彼はのし上がったのでしょう。この道程は生半可のものではなかったはずです。この過程で、橋下市長の特異な人格が形成されたのだと思います。
ここまでの個人としての橋下市長の思いは、よく理解できます。しかし、現在の彼は大阪市長であり、【日本維新の会】の指導者という【公人】です。彼の言動は、大阪市民という視点と有権者としての国民という視点で判断されなければなりません。
【同和対策審議会答申】の言葉を借りれば、「経済的・社会的・文化的低位の状態におかれ、現代社会においても、なお著しく基本的人権を阻害され、とくに近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保証されていない」とされた集団から、彼は自分自身の能力と才覚と覚悟でそれを克服した人間です。その意味では、橋下徹という人間は高く評価されるべきだと思います。
しかし、彼がその過程で身に付けた人間観、人生観、それに基づいて提示された政治理念・政策・政治手法などには多くの疑問符が付きます。特に、教育に対する介入は、目に余るものがあります。先に紹介した広原氏の言を借りれば以下のようになります。
・・・
「当選後の橋下市長の行動は、見ての通り“やりたい放題”である。しかし「毒を以て毒を制する」ことを期待したこれらに人たちには、解同や(解同と癒着関係にある)市労連と真面目な公務員組合との区別がつかない。だから、教員・職員に対する強権的な思想統制も政治行動の規制も「いい気味だ」ということになる。橋下人気がなかなか衰えない理由がここにあるといわなければならない。」
・・・
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2153.html
わたしは、橋下市長が、本当の意味で【差別】を解消しようという王道を歩まなかった事が、上記のような危険な道程を歩み始めたといって過言ではないと考えています。真の意味での「差別」の解消は、一人一人が自らの心の中の【差別心】を克服しなければ、なしえません。これは、人間という生き物を理性で統御しなければなしえない事で、言葉の真の意味での【見果てぬ夢】だと思います。
この不可能とも思える命題に挑戦したのが、【解放運動】であり、【人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】と高らかに謳いあげたの宣言であります。
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/siryou/kiso/suiheisya_sengen.html
戦前の厳しい差別の現状に耐え、差別の克服に人生を賭けた解放運動の先人たちは、最後まで人間というものの崇高さを信じていたのです。だからこそ、【人間に光あれ】という言葉が人々の心を打ったのです。
橋下市長の大向こう受けを狙った政策は、広原氏が指摘するように、人間の劣情(いい気味だなど)に訴えたものが多い、という事は、彼は標的にされた人々を切り捨てる事を是認しているのです。これは事情が変われば、今度は、橋下氏を支持した連中が、標的にされるという事を意味します。この恨みの連鎖(劣情による報復の連鎖)の政治は、市民や国民にとって決して良い結果を招きません。それどころか、その修復には、十年以上の歳月と膨大なコストがかかります。小泉改革の後遺症がますます深刻になっている日本の現状が、その事の危険性を物語っています。
わたしから言わせれば、橋下市長は解放運動の原点に立ち返り、自らの出自に対する【憎悪】から脱却し、【人間に光あれ】と謳いあげた先人たちの深い人間に対する信頼を思い起こすべきだと考えます。そこから考えれば、現在の自らの理念・政策・言動全ての欠点が見えてくるはずです。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水