デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



またしても、内田樹 著『映画の構造分析』 (文春文庫) 内で紹介されている映画「大脱走」についての記述に影響されて、再鑑賞したものの「はて?」と疑問符がついたことの覚書である。作品を再鑑賞すると、なんだかシリアスとコミカルさが無駄なく散りばめられたほのぼのとした映画だなぁという印象を強く持った。

作品で描かれる時代は、ラストの更迭された収容所所長のセリフ「ベルリンに先に行けるのはどうやら君の方だ」からすると、もう第二次大戦末期であることが分かる。私が予備知識なしに鑑賞した時には作品内ではおそらくノルマンディー上陸作戦の直後かそれ以降に脱走が行なわれたと思った。(ちなみに原作ではノルマンディー上陸作戦の前の冬に脱走が行なわれたことになっている)
映画の序盤では新設された捕虜収容所に「脱走の常習犯たち」が集められ、さらに脱走の指揮を執るビッグXが入所したことで、捕虜を200名以上脱走させる計画が動き出す。
鑑賞していて抱いた違和感の一つに、何度も脱走を繰り返している連中を一まとめにし完全管理を目指したはずの捕虜収容所なのに、あまりにも笊過ぎる収容所ではないか?というものがあった。収容所所長はゲシュタポを嫌っていて敵ながら捕虜たちに敬意を抱いていており連合軍捕虜たちに甘いとはいえ、責任重大である意識が希薄ではないだろう。それでも、捕虜を管理する側として、集められた捕虜が何度も脱走を試みた、それこそ「選りすぐりの捕虜」であることは重々承知しているのに、ずいぶん杜撰な管理すぎではないか。もう第二次大戦末期に至っていて、ナチスドイツ軍としても捕虜収容所を管理する人材不足が深刻化していて、監視するに当たって脱走の常習犯たちのやり口を見抜けない程度の素人ばかり集められたのかもしれないが、あまりに節穴だらけである。それとも、それを分かりきった上で脱走されても逃げ切られたという失態さえ表面化さえしなかったらそれでよし状態だったのか。
あと、200名以上脱走させる計画が三分の一ぐらいの人数しか実現できなかったのは仕方がないものの、脱走してからのビッグXの振る舞いがおよそナチスドイツ軍の後方かく乱のためらしくない、むしろ挙動がおかしくて、あまりにもおどおどし過ぎてわざわざかく乱に失敗するのを早めている感がある。どんな困難に遭っても連合軍の後方部隊やレジスタンスと連携するといった信念や具体的かつ重要な計画のようなものは見られないし、脱走のプロなら最後まで収容所に残って何が何でも全員を脱走させる役割を徹底して担うほうが向いているし、その方が充分後方かく乱になるのでは? 捕虜を脱走させる事でナチス軍をかく乱する使命については収容所に入れられた時点のセリフで語られるものの、脱走後のプランが場当たりすぎ無策すぎることを分かりきってやったのか? それにしては違和感がある。最期の言葉のようにトンネルを掘る事だけが生きがいだったのか? 捨石になったようなナチスドイツ軍の後方かく乱の事実上の失敗を「見方による」ことで脱走のプランの総括を先延ばしし続けるのか?
違和感を違和感たらしめているのは、映画の冒頭に実話であると断ってあることもある。しかし実話のそれは、トンネルを造るにあたってのカモフラージュやトンネルを造ったテクニックの要素だけであって、それ以外は命がけの脱走であるのにどこか暢気なほのぼの感が漂っていてもかまわないつくりになっているところが違和感の原因かもしれない。
とどのつまり、ナチスドイツ軍に一発くらわせるため協力し合う連合軍捕虜に感情移入し肩に力を入れて戦争のリアルを凝視する映画ではないと今更そんなような気がしてきた。私は初鑑賞時で得たスリリングなおもしろさとともにこの映画に戦時下のとある一場面のリアリズムを求めすぎていた期待感を抱いていたことをようやく冷静に考えることができたのかもしれない。
なんか本の内容と関係のない記事になってしまった。


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