デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



マルクス・ガブリエル著(清水一浩訳)『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)、読了。

新しい考え方が頭の中に入って来たと思うと同時に、著者のいうことは至極まっとうすぎて当たり前の事じゃないかと思ったりしたのが読了直後の感想だった。これは当たり前のことに今さら気づいた自分に対して残念な気持ちを覚えるといえるだろうし、おそらく本の内容は理解できていないことになるのだろう。が、非常に有意義な読書だったように思う。
著者の唱える新実在論の始まりのきっかけは、ひょっとするとグローバリズムが地球を席巻しようとする流れの根底にあるのが、著者のいうところのフェティシズムだとするなら、まさに、およそ崇拝される対象が存在していることそれ自体に批判を向けたところからも、あったのかもしれない、などと勝手な事を考えてしまった。
新実在論が当たり前のようで新しいのは、ある意味、自分の精神と精神自身、人と人、人と集団、集団と集団、国と国との間にはフェティシズムの共有と強要が当然の如くまかりとおっている現実にあって、フェティシズム的自己完結な「統一性のある世界」を、とりわけ西欧は自分たちの考え方を伝道という名に変えて世界中に強要し推し進めてきた歴史をもつがゆえに、著者の新実在論はヨーロッパにおいて脚光を浴びたのではないかと思ったりする。
こんなことを書くとまるで西欧の人々が物ごとにたいしてさまざまな見方をしてこなかったみたいな言い方になってしまうが、それはそっくりそのままアジアの歴史や哲学にも同じことがいえるだろう。
おそらく誤用だろうが、日本に国民性として掬うおよそ崇拝される対象が存在していることそれ自体の一例として「(不当な状況下にもかかわらず)空気読め」と互いに強要しあう同調圧力的なものが挙げられるように思う。漠然としたかつ矮小化したようないいかたでなんだが、この不必要な統一性を促す同調圧力的なものに従属し、結果的に自らの首を絞めることのないようにするには、同調圧力的なものの本質を見極めることが大事で、その見極めにはこの著書で挙げられている、間違いもひとつの意味の場であることを認識することから、見極めの一歩が始まるのだろうと私は考える。思考することは大事なことだと改めて気付かされる本だった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )