デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



昨日、ようやく『ジャン=クリストフ』を読了した。
毎度思うのだが、長編は面倒くさいけども最後が近づくと、まだ終わらないでくれ、という気持ちになる。
今はこの作品の全体的な感想を書くには時間が無さ過ぎるが、一つ思ったのはこの物語は思いのほか平凡な内容だったかもしれないということだ。裏を返せば、たとえ作曲家が主人公の物語とはいえ、描かれていることは一般の人の人生となんら変らない、ということができると思うのだ。もちろん、クリストフの個性が一般の人と合致しているという意味ではない。人が(年齢はともあれ)ある一定の段階に差し掛かると体験するようなことが、一つの作品に凝縮されているという意味である。
人は誰でも歳を取るが、過去の自分と現在の自分は、たとえ同じ名前を名乗っていたとしても、その名前が現在の自分を的確に表しているかどうかは疑問の余地があるように思う。クリストフの幼年期・少年期・青年期・中年期・熟年期・最晩年の描写をくらべるだけでも、それぞれに別の個人名をつけられるのではないか、というくらい「別の人間」なのだ。
このあたりのテーマは時々メディアで取り上げられることがあるように、日本では昔の人は元服で名を変えたり、現在でも相撲界で存在している。その点で言えば、『ジャン=クリストフ』で描かれていることは、いみじくも作者の冒頭の記であったように、クリストフは世界のどこにでもある物語(といったようなことを書いていたように思う)というのも頷けよう。
私にとってはまだ早いのかもしれないが、何はともあれ、この長編が「人生の書」と呼ばれる意味を少しでも理解できたなら、それでよしと思っている。

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