デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



前回から、さほど読み進んではいないが、この作品はおそらく第一次大戦やロシア革命期に対する関心や、歴史の趨勢に対する経験則みたいなものに考えを及ぼそうとしないと、読み通すのはきびしいかもしれないと思い始めた。
というのは、そもそもドン・コサック軍が帝政ロシアの前や、帝政ロシアにあってどういった存在であったのか、また現代であってもときに嫌われ者扱いされることがあるという事実等、そういったことを押さえてないと白軍側について戦う彼らの中にあって、ひとり思想的煩悶をくりかえす主人公グリゴーリイの悲劇を理解できないと思うからである。
時代によって必要とされた思想と行動を後世が裁くことはできず、できるのは教訓として活かすことぐらいだが、その後世の人間であるショーロホフは臆面無くコサックでありながらボリシェヴィキになり成り上がり者となる赤軍隊長ポドチョールコフの傲慢さをよく描いており、「世直し」にあっては即決虐殺も平気の平蔵で断行してしまうさまは印象に残る。当時のソビエト政府がこの描写に困惑したのも想像に難くない。

 ポドチョールコフは力いっぱい鞭をふった。低く伏せていたひとみを一そう落とし、満面に朱を注ぎながら、どなった。
「ゴルーボフの野郎に唾をひっかけてやらんけりゃ!なに言い出すかわかったもんじゃねえ! あの強盗野郎の、反革命のチェルネツォフの身柄を保証するって?……だめだ、そんなこと!……ひとり残らず銃殺だ――それで勝負は終わりさ!」
「ゴルーボフは、やつの身柄は引き受けるっていってたぜ!」
「だめだったら、そんなこと! だめだって言ったろ! それだけの話さ! 革命裁判にかけて、ただちに処刑だ。ほかのやつらの見せしめのためにもそうするんだ!……君だって知ってるだろ」もういくらか冷静になり、近づいて来る捕虜団を鋭く見つめながら、彼はつづけた。「知ってるはずじゃないか、やつらがどれだけこの世に血を流させたか? 海ほどだぜ! どれほど坑夫たちを殺したか?」ここまで言うと、ふたたび、煮え返るような憤りにとらえられ、残忍に目を見開いた。「させるもんか、そんなこと!」
「どなることはなにもないだろ!」グリゴーリイも声を高めた。身内のすべてが震えていた。まるでポドチョールコフの激怒が彼にもうつったかのようだった。
「裁判をする者はここにはいくらでもいるんだ! 君はあっちへ行ってろよ!」彼は鼻孔をふるわせながら、うしろを指さした。「捕虜を処理する者はいくらでもいるんだから!」
 ポドチョーフコフは両手で鞭をもみくたにしながら立ち去った。遠くのほうで彼はまたどなった。
「俺だって戦場にいたんだ! 荷馬車の上でいのちの洗濯してたなんて思うなよ。メレホフ、おまえは黙って引っ込んでろ! 分ったか?……大体、だれと口をきいてるんだ? そうだろう!……あんまり将校づらするなよ! 裁判するのは革命委員会だ、だれにでもできるってわけじゃないんだぞ……」


憎悪があることは分かるし、戦場にいたこともわかるのだが、自分が坑夫になった体験はおろか坑夫たちが殺された現場をおそらくポドチョールコフは見たことないのではないかと思う。なんというか、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキャラが時代の趨勢を読んで威張りだしたのが、ポドチョールコフではないか。『悪霊』の目的のために手段をエスカレートさせてしまうあの浮ついた興奮状態に加えて、党内での出世欲がからんでくると、周囲より抜け出ようとする気持ちからなんだってやってしまう人間の残酷な面が容赦なく描かれているのが、『静かなドン』の一つの特徴だと思う。

つづく

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