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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

本物のモンタージュの味

2007-04-15 | 生活
ブデンブロック家と言うトーマス・マンの処女作の映画化されたものをTVで観た。原作は、1901年に出版されていて、作者は実生活で1904年にプリングスハイム家の令嬢カティアと結婚している。

細かな事情には興味がないが、ご大家の令嬢を貰うためにも、一度自らの家庭の栄光の歴史も扱ってみたかったのであろうか? とは言うものの、既にモンタージュ手法を駆使しているのは、その映像化されたものでも理解できる。後年、審査委員の「魔の山」への抵抗もあって、この作品をもってノーベル文学賞を授与としている。

この1959年に作家の長女エリカ・マンの監修で作られた白黒映画を観ていて気がつくのは、プロテスタントとしたハンザ同盟の町の商屋の歴史を通して、描かれている19世紀のドイツであり、それを作家が暮らした20世紀初頭への生活感から覗かれている事である。

各々の登場人物は、まさに作者自体の環境を映していて、一見そのように見えるつまらない家庭の歴史ドラマとは一線を画している。その手法から登場人物が様々な典型を示しているのみならず、社会の縮図となって尚且つ、自らの近親を描いているのに感心させられる。プロテスタントの商人やその社会、金髪の医学生、南北ドイツの方言に現れる気質、彼らの道徳観や真相、子供の目を通したその社会は、戯曲的な人物像を創作するにあらず、現実のあるドイツ社会を作品に抱合する。

特に次男役のクリスツィアンは、作家の実の叔父さんがモデルであり、刊行12年後の地元リューベックの新聞に告知を出している。ハンブルクのフ-リードリッヒ・マンは、「甥のこの馬鹿げた作品のお蔭で大変迷惑を被り続けている。だから読者にこの期に及んで、この本は好い加減な話だと思って頂くようにお願いしたい。このブデンブロックの作者は、身内を茶化して愚弄してその人生をもの笑いにしている。これは非難されるべきと正当な判断をする者は思うだろう。なんとみすぼらしい面汚し者よ」と、書いているのは良いが、そのタイトルの綴りが誤っている。

先日オープンしたミュンヘンのユダヤ博物館の展示に、プリングスハイム家の事例が扱われている。そこでは、ミュンヘンの最も賑やかなサロンであったアルツィスシュトラーセのブルジュワ館の音楽室が再現されて、その絵画のコレクションが並べられている。

数学者アルフレッドは、プリングスハイム家の当主として多くのものを家督相続しており、マンが令嬢に近づいた時分は華やかだったことは良く知られていて、指揮者ブルーノ・ヴァルターは、「ミュンヘン中の偉大な夜会」と称している。アルフレッドは、ドイツ愛国者として、ドイツ文化のパトロンであって、バイロイト劇場のパトロンとして作曲家に個人的に招かれていた。

そうした顔をナチが放って置くことはなく、兄弟一族が日本やスイスや米国へと逃れる中、ミュンヘンの文化を護るべくこの老数学者を囲い、甚振り、蔑み、最後には身包みを剥いでしまう。最期の財産を亡命税として剥ぎとられてもスイスへと逃げれたのは、ヒットラーに顔の効いたヴィンフリート・ヴァーグナーの口添えと言う。

そのような柵を思ってか奥さんのヘドヴィッヒの手によって、亡命後、直に訪れた死の後、反ヴァーグナー者をビール瓶で殴り、「魔の山」の決闘のようにピストルを持ち出すほど片身離さずにいたこの数学者の楽匠との往復手紙が焼かれた。

こうしてみてくると、処女作には多くの事象が暗示されている。処女作出版以降、生みの苦しみを味わい、作者の実の兄ハインリッヒ ― デビューに遅れをとったが大戦後に一躍注目を浴びる ― への嫉妬が燃えたといわれるが、決してその弟である作者どころか、主人公の妹をその家庭の金目当てに結婚する男が作家本人の運命を示していたり、少年への執拗な愛着や音楽への拘りは、作者の同性愛を示していたりする。しかし、この作品の面白さは、決して本文を読んだ訳ではないが、叔父さんのような実際のドイツ人がユーモア溢れ描かれている事にあるのだろう。
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全焼した歴史的海水浴場

2007-04-14 | 生活
偶然に通りかかった。交差店にかかる前に驚いた。地元の観光施設の目玉が全焼していた。そう言えば、あの聖金曜日から土曜日にかけての未明のサイレンはこれであったかと直ぐに気がついた。

午前二時半前の事と書いてある。恐らく通報の時点で既に火は回っていたのだろう。ドイツの各報道機関どころか、諸外国のプレスもこの大火を告げている。1736年に恐らく当時流行った塩の精製施設として建てられて、今回全焼したものは1847年に遡る。とは言っても、1992年にやはり放火で全長330メートル中80メートルを半焼して、なんと四百六十万オイロの投資 ― 今回の被害総額一千万オイロ ― で1997年に再開に漕ぎ着けたのは記憶に新しい。

その構造は、学名Prunus spinosaと呼ばれる植物の茨を二十五万本を束にして18メートルに及ぶ壁を拵えてある。毛細管現象によって、塩の凝縮と精製(カルシウム、マグネシウム、硫化カルシウム、鉄などが炭素化合物として分離される)を行うのだが、後には現在に至るまで海水浴の施設として保養に使われている。つまりこの下で憩いでいると、態々遠い海岸線まで行かなくとも、海岸で日差しをよけながら腰掛けているのと同じ効果が得られるのである。花粉症やアレルギーや気管支喘息に効果があり、公的保険で保養が出来る。

しかし、保険の破綻もあり最近は一般の保養への保険金の支出が制限されているゆえか利用者は少なくなって来ていたようだ。この施設自体は、少し塩を浴びる事を厭わなければ夏の期間は毎日買いものついでにその中を通るだけで無料で利用出来た。先日は、そのミネラルウォーターがまだ流されていなくて、全ては乾ききっていたものと思われる。

大変不思議なのは、前回から15年も経たないうちに保険が効いているとはいいながら同じ事を繰り返したことであり、平時は如何に好い加減に扱われている施設かを垣間見せている。

それにしても、全体が満遍なく焼けていると言われ、電球がシュートして火災になったとするには、その日時と言いあまりにも出来すぎている感じがするのだ。当夜は、早めに床に潜りサイレンに気がついたが騒ぎが余り近くではなかったので、外を確認する気も起きなかった。寝付いて、三時間ほどの最も深い眠りにいたと考えると、その気持ちも察せられる。しかし、流石にカジノの町だけあって、当日は閉まっていたかもしれないが多くの野次馬が出て賑わったそうである。そのうち何人もがユーチューブに投稿している。



参照:
YOUTUBE
YOUTUBE
swr
n-tv
faz
stuttgarterzeitung
focus
spiegel
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ザ・チャイナシンドローム

2007-04-13 | アウトドーア・環境
温家宝首相の日本訪問が伝えられている。日本と中国が、環境保護に同意したとする見出しが躍っている。何を意味するのかは良く分からなかったが、原子力発電の技術協力とあり、なるほどと思った。

中国は京都議定書から度外視されているが、近く米国のCO2排出量を抜いて世界のトップに上るとされている。そうした事から、原子力発電の促進が図られる。現在世界で456炉が駆動しているうち、米国の103炉、フランスの59炉、日本の55炉にロシアが続く。それに比べて中国の10炉は甚だ少ない ― 因みに世界最大の輸出大国ドイツは現行17炉の停止・全廃が決まっていて、フランスその他から電力を購入する。中国が化石燃料にエネルギー危機を迎えているとすれば、100炉以上の需要が潜在的に存在する事になる。

韓国において毒性をもった黄砂の健康に与える影響が議論されているようだが、原子力発電も事故となると風下の広い地域に渡って被害が予想される。欧州大陸のように、日本は中国から電力を買うことが出来ないのだろうか。すると、その危険性の割に、プラントを受注する日立やGEグループほどに、日本社会は利を得るのだろうか?少なくともエネルギーに飢えている大食漢を他の地域の資源から目を逸らせる効果は期待出来るのだろう。ハリウッド映画ではないが、ザ・チァイナシンドロームが起きない事を祈るしかない。

中国は、米国の重関税課税への脅しにも、冷静に対応出来ると自負している。つまり、あの時の日本のようにあたふたと、経済的な圧力の下に「子分」になるような道は決して歩まないというのである。そうした前提において、日中の間で戦略的関係が強調されているのは良く解せない。

先日からのベルリンでのミサイル邀撃構想の議論で、その効果のほどが疑問視されている反面、防衛の当事者からはイランの核ミサイルへの現実的な対応策が必要との反論が聞かれるようになっている。これも今後の進展から目を離せない。

本日は、四月としても摂氏24度ほど暖かく、週末には28度と予想されている。明らかに、ドイツは以前の日本並みの陽気で、初めて日本のあの新学期の時分のような空気を感じた。どこかしっとりとした篭った地鳴りの聞こえるような春の夜の空気である。



参照:NUCLEAR POWER PLANT INFORMATION, IAEA
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早朝の暗闇に鐘が鳴る

2007-04-12 | 
YOUTUBEは、高額で買いつけたGOOGLEにとって経済的な重荷になってきているようだ。もともと経済的に無価値なその会社を買い上げて、経済的に運営をしようとしているのだが、ネットの大広告代理店にとっても、現在まではさしたる売り上げに繋がっていないと言う。

なによりもVIDEOに対して的確な広告を入れるのが難しいらしい。更にNBCユニヴァーサルグループが本格的に参入するとあって、厳しい競争を迫られていると言う。更に、著作権に絡んでの損害賠償請求額なども多く、短期間に経済性を齎すことは困難のようである。

復活祭の日曜日の早朝、カールターゲに完全に消されていなかった鐘の音に気がついて、改めてそちらをみると、年中消える事の無い町の照明が全て消されている事に気が付いた。毎年同じことであったと思うのだが、なぜか今年初めて気がついた。

さらに聖金曜日から聖土曜日の未明にかけてサイレンが鳴り響き、緊急自動車が走っていたのも床の中で気がついた。

早朝六時の暗闇に鳴る、平時はライトアップされている、教会の鐘付き塔に狙いを定めてVIDEOを回したが、流石に漆黒の闇に何一つ確認出来ない。

これをYOUTUBEに投稿しても誰も見ないだろうが、著作権を持った者とのパートナー作りに躍起になっているGOOGLEにとっては、これは紺碧の空へと明ける時を待つ暗闇に見えるだろうか。
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辺境のとても小さな人々

2007-04-11 | マスメディア批評
(承前)カムチャッカ半島から、フェリーで、クリル列島の北へ入り、南下して国後・色丹島へと、更にサハリンへ戻り根室からアイヌを通って函館へと抜ける。

カムチャッカのアジアで最も高い火山から北海道まで続いている火山帯を番組の軸に、現実の社会を映し出していく。また、丁度国境警備隊による日本の漁師の射殺事件後で、それを両サイドから見ている。

第一部について第二部を観る限り、煙を吐く火山と地震の大地に、熊や野生動物と土着民族と植民活動の末裔の社会が、美しく厳しい自然を背景に、浮き彫りにされる。なによりも北方領土の島の状態は凄まじく、地元の議長や医師にも語らせているが、どうみても極地越冬隊もしくは河原に居座った住民のように、貧困に喘いでおりロシア最高の出生率で生存権ならびに居住権を主張しているに過ぎない。もともと、人々の生活たる文化もなければ何も無い、軍事基地しかない土地のようだ。

そこで思い出すのが、アメリカインディアンの聖地グランドキャニオンにスカイウェークと呼ばれる馬鹿げてみっともない施設が、ドイツ製の透明ガラスを使ってこのほど建設されたことである。そこでも、新聞取材は伝えていたが、インディアンの共同体は失業率が高く、観光客に芸を披露する以外に収入源が無く、彼らの聖地を汚すのに関わらず、今回の投資を受け付けたと言う。背に腹はかえられない。しかし、その犠牲が、共同体の将来になるものとは誰も信じていない。それどころかインディアン共同体の幹部が私服を肥やしているとする観測すらあるらしい。

そしてグランドキャニオンへと繋がる街道筋は寂れて、シベリアのそれと変わらないようである。そうした街道筋には投資者の興味が向かないのは当然なのだろう。

こうして汎ベーリング海繋がりの種族やそれに近い部族を見ていくと共通したものもありそうで、アイヌの酋長の「我々弱いものが生き残って行けないようでないと、世界平和は訪れない」の発言に現れている。反面、帝国主義的にペテルスブルクもしくはロシアや江戸や東京がこれらの北方民族を駆逐して、中央集権的にテリトリーを確保しようとした歴史は摂理のようなもので、それはどこでも変わらない。

恐らく、本国の視聴者にはシュレージンやプロイセンからの引揚者を思い出した人も少なく無い筈である。そして少なくとも北京のチベット統治政策を否定するならば、この北方領土問題を現在の露日間に横たわるような政治社会問題として扱えない筈である。ネットにあるような政治的なプロパカンダが如何に現状の生活感と異なるかも判るようだ。

中央の政治権力に対して、あまりにも小さな人々が翻弄されながら生きる姿が映されていた。


追記:協力日本人スタッフは通訳の方だったようであった。
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愛と食と生と職の説法

2007-04-10 | 
ヴァチカンからのミサ中継はやはり興味深い。愛を掲げるベネディクト16世が、復活祭の食を糧とするミサを執り行うので面白い。当然のことながらユダヤ教の過ぎ越しの祭りの伝統によっている。

絶食明けの復活祭は、大食いと大酒飲みの無秩序暴飲暴食が諌められる時期であるのも事実である。メディチ家のお抱え画家のジャコポ・リゴッツィがそうしたアレゴリーを描いたスケッチ図柄が新聞に掲載されている。車フェラーリほどの価格でネットで落されたとある。

本場で作らせたと言うビザンチン風のイコンも、今回初めて公開された。さて教皇が叫ぶUrbi et Orbi、即ちローマから世界へ向けての祝福は、こうして愉悦に富んで執り行われるが、この伝統的巨大宗教団体の醍醐味である。オランダからの花がサンピエトロ寺院を飾るのもヴィーナーノイヤーコンツェルトと同じで、教皇から特別に祝福される。

埋葬の方法について読むうちに、ワインの土壌について想いが至る。キルヘンシュトックなどと呼ばれる地所は多く、嘗ても何気無しに考えた事があったが、確かに墓所のある近くのワインは人々の養分を吸っている可能性が高い。何もこれをして、カニヴァリズム的に考える必要は無い。生態学として動植物の連鎖に再生を加えるのも当然のことであり、ワインに土壌の特徴が現れるのも環境として当然なのである。

手元にあるシュティフトと呼ばれる墓地の下方にあるワインを開ける。このワインは何時飲んでも味がある。その土壌の粘土質の下支えが語られるが、なにもそれが石灰質にしても意味するところは変わらない。

翌月曜日のベルリンのヴィルヘルム記念教会からの中継は、戦後の復興とバッハのカンタータが演奏された記念にバッハの音楽礼拝となっていた。EKD会長のヴォルフガンク・フーバー博士の説教がメインに据えられて、その楽曲説明を伴ないながら合間に因みのカンタータが演奏される。

聖金曜日まで振り返る形で行われるので、復興上演されたマルコス受難曲の内容に近い。その内容からすれば当然と思われるものもあるが、またバッハのパロディーテクニックと呼ばれるような、曲想の使い回しなどを考えれば全然不思議ではないのである。

説教によって、過ぎ越し祭のユダヤ人の生贄の発想を乗り越えて、古い酵母に感染されずに新たにすることは難しいからこそ力を借りる必要があるとする。グローバリズムの猛威を受けて職場を失ったりする事象に対して、そうした風潮を防いで行く精神が明確にされる。食の祭りに子供たちにオースタークーヘンが配られる。


写真:うさぎの耳
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棘ある酸塊味の葡萄酒

2007-04-09 | 試飲百景
聖週間の水曜日に試飲をする。復活祭前でお客さんもちらほら居るかと思ったが、夕刻であり誰もいなかった。先代の親爺さんが事務所でうろうろしていたので、色々と勧めてくれる。

勿論、前回見つけたワイン、ヘアゴットザッカー(キリストの棺 ― 何と聖週間向きの地所の名前であることか!)を褒め称える。当方が勝手に想像していたことを打ち明けると、いつものことでハッキリと肯定も否定もしないが、幾らかそれに付け加える。

つまり、手作業の剪定だけでなく、例年以上に手を掛けたことを認める。そして最終的には、どうも、摘み取りの時期の集中した仕事振りも大きそうである。

前回の訪問時は、丁度デュッセルドルフのワイン博覧会で出払っていたので、その成果を尋ねる。非常に反響は高く、また例の雹被害を挙げて、例年の六割方の収穫量なので、売り切れが三ヶ月ほど早まるだろうと、ご機嫌である。

また醸造上の変化も指摘すると否定しなかったので、少なくとも2006年は少量高品質へと狙いを定めたコンセプトの切り替えが功を奏しているようだ。

その中でも、展覧会で評判の良かったエルスターは、流石に価格も「上のお気に入り」と比べて丁度一ユーロ上がるが、石灰質のミネラル風味が愉しめる。その時、ここ数年気になっていたグレープフルーツ苦味が、後味に残らないので、大変嬉しい飲み物となっている。高級ワインとしての競争力も高い。これは、第二のお気に入りである。

その前に、シュティフトを試すが、これは土壌の特徴が出て幾らか重みがある。更に、モイスヘーレは、価格が上がる分、香り高く、高級ワインの中での評定が下される。

ヴァイスブルグンダーを試すかと親爺さんに言われて返事をしなかったので、それは出さなかったが、ソーヴィニオン・ブランを出してくる。

こちらとしては、あまり興味を示さなかったのだが、「これ、直に無くなるよ。今買わなきゃ、もう飲めないからね。もし興味あるなら」と念を押される。そして、価格票を横目に、期待せずに飲むと、これが納得なのである。

親爺さんの説明通り「西洋酸塊、学名 Ribes uva-crispa」の香りなのだ。色は透明に近く、ワインを飲むと言うよりも新しい飲料と言う印象がある。大変珍しいだけでなく、サラダや魚にもその清涼感が素晴らしいと思わせる。フランス産かで何かでも、あまり覚えの無い経験である。

なるほど、メーヴェンピックグループが来年度産の注文も出しているのも理解出来る。リースリング以外としては、少々高価であるが、買えるのである。既に十年近い栽培経験があると言うが、軒並みリースリング以外で成果を挙げることが少ない醸造所の中で、これをものにするのは立派である。

水はけの良い、果実を腐らせない土壌をダイデスハイムにあてがい、2006年度に拘らず成功させた秘訣はと言うと、「9月22日には早めに収穫したから」とさっと答えるのである。

兎に角、2006年の不幸を消し去るような仕事振りは賞賛に値する。今日は、娘さんが女性オーナー会のメンバーの誕生日で留守と言う。「先日独第二放送へのリンクで観てね」と言うと、観ていないという。「お宅のHPのリンクで観たよ」と言うと、ネットサーファーで無い様子をその表情に見せる。

五月には、日本からお客さんが来るかも知れないとして、前情報を得る。新価格表は印刷中であり、一月の間に、地所ではムーゼンハングやラインへーレ、またウンゲホイヤーからバサルトなどが瓶詰めされる予定である。どれも期待出来るが、今年はバサルトは特に楽しみである。

良く考えれば、ここ数年代替わりしてからあまり購入していないと言っても、2003年産シュペートブルグンダーなどをワイン蔵に納めてあるので、結構面白いものを勧めて貰って、少量ながら買いつけているのも事実である。

若婿さんとの連係プレーも作動して来ているようで、まさに情報が受け取り易い典型的な家族経営の醸造所となっているので、今後も期待が出来る。

こうして、「ネットに書くと注文が殺到するかもしれないので、自分のものを先ず確保しておかなければいけない」と、親爺さんに溢しておいた。五月二十日の試飲会に初めて参加してみようと思っている。
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観れば、その違いが判る

2007-04-08 | マスメディア批評
緑の党が、TV機器などのスタンバイ装置を外せと発言している。温暖化対策としての省エネ処置のプロパガンダであるが、それならばTV放送の時間制限をする運動を提案したいと思っている。

もともとはTV人間であるが、最近はコンピュータモニター画面を覗く時間に反比例して、真空管などを見るのは大変億劫になっている。一週間に平均三分間も点けない。だから、スタンバイ装置が無くなれば先ず電源を入れることも無くなるだろうと思っている。

TV放送は、殆どエネルギーの浪費で無駄としか思わなくなっている理由を改めて述べようとは思わないが、それを原則的に全廃することで、今後幾つかの有効な社会整備が出来ることになると信じている。

そのような訳で、狙いを定めて聖金曜日の礼拝の様子を観た。スイスのヴィンタートュールの改革派教会の礼拝をスイス放送が制作して独第一放送に放送権を売ったものである。

スイスの改革教会は、フランス語圏はカルヴァン派、ドイツ語圏はツヴィングリ派と言われているが、この場合は後者の影響下にあるのだろう。それを語るのか、聖金曜日の聖体拝領が興味深かった。その聖体自体が象徴であるとすると、門外漢でも納得出来るのだが、はたして、それは人類の孤独と個人的苦悩と言葉の無効性と音楽をテーマとしていると言う。

小粒に拵えられた新教式のパンが籠に入れられてそれがベンチの端から端へと配られ信者の手によって回される。そして、大きな聖杯がやはり同じように回し飲みされる。そして減ってくると、そこにさらに漏斗で注がれるのである。キリスト教の伝統を持つスイス有数の都市にしては、60人程度の教会はかなり小さく老人や女性が主となっていた。

さて教会は、今回の放送で契約上、一銭も貰っていないと発言している。スイス放送が制作権料として、ドイツにどれだけ要求したかは判らないが、牧師は放送のためにスイス訛りの高地ドイツ語を折角使って説教したのにと書かれている。

些か音楽も無効であったが、どのみち説教の意味合いも、募金などの連帯活動が伴なわなければ無効であるのだろう。

晩には、新聞で偶々気がついた独第一放送の連作「シベリアから日本へ」の第一回放送を、背中を向けてちらちらと観た。カムチャッカ半島の美しい自然を背景に、遊牧を続ける部族の年金生活者や森林労働者、ペンション経営者、オートドックスの神父、運転手、水兵や街道のスタンドで露天を出す女達などを扱っていた。黒澤監督作の『デルス・ウザーラ』に似た親爺さんが、朝鮮族などの様々な人種に混ざって良い味を出していて、主役の位置を占めていた。

そこで踊られていた民族舞踊や衣装も興味深かったが、連休中の復活祭二日目の月曜日に放送される、第二部の予告編に映っていたアイヌ民族の様子があまり見慣れない顔つきであるのにも興味を引いた。こうしてみると、モンゴル人からエスキモーや北南米インディアンまであまりにも人種が違うのに気がつく。極東におけるそれだけを観察しても、中欧におけるベルギー人やオーストリア人との人種差よりも、想像以上に遥かにそれの方が大きいような気がする。
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中庸な思考の世界観

2007-04-07 | 
(承前)ヨハネス・オケゲム創作のミサ曲「ミミ」は、各曲の冒頭に現れるモットーが、全曲を統一的に形作るので、そのように呼ばれるが、それは対旋律に当たり、実際は低音に現れるミラの下降音形がこの曲のモットーとなっている。

この曲が、少なくとも、この聖週間に適当なミサ曲とする大きな根拠は、そのグロリアの作曲と同時に第四と呼ばれる教会旋法のようだ。これはヒポ・フリージアとも呼ばれて、フリージア旋法の四度下で始まる。つまり、シドレミーのミが基音となって、ミファソラーの倍音列のハーモニーを形作るラがこの旋法の響きを定める。

こうして、その儀式上の核心である十字架への茨の道と嘆きを表わす旋法として、これが使われているとされるのだが、耳につくグレゴリオ聖歌の特徴的な節回しで始まる、クレドにおける表現をそのテキストの内容と重ねながら見ていくと面白い。

例えば、

visibílium ómnium et invisibílium;

前半のレーレレレ・ドの「見えるもの」に対する後半の「見えないもの」での抑揚は、次の一節において、イエス・キリストの世界と重ねられる。:

Et in unum Dominum Jesum

そして「イエス・キリスト」がファーファ・ファファで明示されて、

Jesum Christum

それが、

Filium Die

「神のひとり子」として、ラーソソーファーミミーで、再定義される。

Deum de Deo, lumen de lúmine

「神よりの神、光よりの光」で、輝かしく構築されて頂点を築くと、

propter nostram salutem

「わたしたちの救いのために」と、低声部に下行のミーラ・ラーファラシ・ドーの「ミラのモットー」が響き、ファーミ・ミラーソ・ソファーミ・ミーと上声部がそれを受けて、 ファ か ら ミ へ の変遷、つまり神の子から人の子への 降 り る 方向へと音楽付けされて、それに続いて言葉に合わせて上下行の音形が添えられるが、飾りのような音楽的意味付けとなり、一部を終える。

その次の「からだを受け」の二部は、あたかも体内に篭ったように進んで短く終える。そして、

Crucifixus etiam pro nobis
sub Póntio Piláto

このように始まる三部は、「ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ」の「わたしたちのため」がドファーミ・ミと、「に」のララ・ドーが上行して、二声が薄く絡まってまさにキリストとわたしたちの関係が高く結び掲げられる。

特にこの箇所は、この作曲の特徴を表わしていると言っても良く、磔の肉感も強調されず、さらに具体的に可能な描写もほどほどに、またしてその神秘的な象徴が強調されるのでもない。また悲嘆もほどほどで、その和声と共に、現実感のなかに客観性があって、現代の我々にとっても、大変親近感が持てるように思われるが、どうであろう。

それに続く、

cum gloria

この四部に当たる、「栄光のうちに」の一行が上行するドファファファーと力強く組み合わされると同時に、カトリックの教義へと内容は深入りして、20世紀のヴァーベルンの作曲のように、突如音楽的にも複雑さを増して行くのである。

こうした主観と客観のあり方の中庸さがこの作曲家の持ち味であって、更に時代の感興・環境ではないかと思うのだがどうだろうか?後継者のデ・プレにおけるような言葉のシラブルによる細かな表情がつけられていないことは、そもそも厳密な定義よりも日常的な意味合いを重視することであり、ある意味後継者がパロディーミサと呼ばれるような世俗的なモットーによって、その厳密なドグマから逃れるような技を見せたのとは対象的として良いかとも思われる。

その意味から、このモットーの元歌となる世俗的シャンソンは既に最近の研究によって知られているが、先ずはこのミサ曲を味わうには特別な意味を持つ訳でもなさそうで、寧ろこうした全体像をもって、その表現の妙をみて行きたいと思わせる。

総じて、素朴とは正反対にある技巧と芸術であるが、そこに創造されるものは精神とも肉体とも分ち難い、また葛藤することも無い、さりとて主観的なドグマからも離れた客観的な視野が働く、至極中庸な思考世界であろう。敢えて言えば、明らかにその世界観や観念から一世代前に属する作曲家オケゲムに賛辞を惜しまなかったとされるエラスムスの人間性すら、垣間見た思いがするのである。(終り)


録音:
Hilliard Ensemble 
Cappella Pratensis
Clerks' Group
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肉体の聖変化の変遷

2007-04-06 | 生活
(承前)オケゲム作曲の有名なミサ曲「ミミ」は、そのあるべきミサ式次第の姿として、グレゴリア聖歌を挟む形で再現されている。

この期間聖木曜日にのみ謳われるグロリアに続く、昇階唱(Gradual)と呼ばれる部分は、以下の新約聖書のテキストに基づいている:

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。(フィリピの使徒への手紙2.8-9)

この部分に対する、前教皇自らの1997年の聖金曜日における説教が法王庁のHPに載っている。そこで聖金曜日における儀式の意味合いを説き、執り行われない秘蹟に代わる十字架への崇拝の儀と、それに参加する者が主の受難のテキストを読む時の感興の深さを説いている。そして、新旧約聖書からその源泉としての引用を示している:

キリストは、この世におられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を救う力のあるかたに対して、祈りと願いとをささげられましたが、その恐れ敬う態度のために、神に聞き入れられました。(ヘブライ人への手紙5.7)

Wherefore have we fasted, say they, and thou seest not? Wherefore takest no knowledge? Behold, in the exact all your labours. Behold, ye fast for strife sand debate, and to smite with the fist of wickedness: ye shall not fast as ye do this day, to make your voice to be heard on high. Is it such a fast that I have chosen? a day for man to afflict his soul? is it to bow down his head as a bulrush, and to spread sackcloth and ashes under him? wilt thou call this a fast, and an acceptable day to the Lord? (ISAIAH 58.3-5)

さて、ここで関連して気がつくのが、所謂第二ヴァティカン公会議(1959)の結果を受けた現在のミサ式次第と、本格的なルネッサンス期のヒューマニズム勃興前のオケゲムが生きた時代の感慨との共通点である。

一つには、先に触れた肉体感にあるかも知れない。つまり、この作曲家が生きた時代背景を想像すると、精神への問い掛けをもって肉体の認識がなされたトマス・アキナスに代表されるようなスコラ哲学から、ヒューマニストのエラスムスによって例えば秘蹟が再定義されるまでの過渡期を見る事が出来るのではないか?そして、それはそこに導き出される、悲嘆の感情の発露であったり、死や苦悩を沈思する姿勢として観察することが可能となる。

要するに、そうした宗教のドグマから自由となったルネッサンスの思想家が、もしくはルターやツヴィングリの行った論争の対象となった、宗教改革時期の聖体の定義を指し、それ以前のポストスコラ主義時代からの変遷を芸術における肉体感として垣間見ることとなる。

ある意味、それがたとえ秘蹟と言うキリスト教と別ち難い肉体であるとしても、もしくは信仰の具象化であったとしても、または単なる象徴であったとしても、引き続き今日の教会合同協議の争点となっている様に、現代の課題をも包含している。

また現教皇の発言の「宗教改革があった事実は否めない」とする事象は、世界観としての宗教的な聖体感、即ち宗教改革以前の肉体感がそれ以後のものとは異なるとする当然の帰着を導いている。

さらに、そうした肉体や実体への覚束無い感覚こそが、この当時の作曲家が試みた表現に良く表れているように思われる。その作曲の高度な音楽的な技巧は、造形芸術におけるレオナルド・ダヴィンチやその後の科学技術の発展と比較されるが、現代人の持つ科学的な知識や認識をもって観察しても、それらの芸術は自然環境への認識としての世界観が前提となっていることには変わり無い。

そのように考察して行くと、如何にルネッサンス以降啓蒙主義を辿る近代の思潮が、西洋に閉じられた特殊な文化体系であることに気が付くのである。(続く
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緑の木曜日への感慨

2007-04-05 | 
四旬節最期の聖週間である。その受難週の聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日をしてカーターゲとして、特にカトリックにおける宗教的な儀式以外に、個人の日常生活に少なからぬ意味を持っている。中には厳格な長い期間の断食をこうして終える者もいる。

そうした現在でも生きる宗教的な生活感と平行して、中世からルネッサンスへの心境を芸術として覗いてみるのも愉しい。

手元にフランドルの作曲家オケゲムの有名なミサ曲「ミミ」の録音CDがある。これは、レベッカ・スチュワート博士が監修指揮している。その中で、フランドル派の大作曲家のこのミサ曲を、その教会調の特徴や幾つかの学術的成果から、聖週間に最適なミサ曲と確信して、ミサ曲に最適なグレゴリオ聖歌を挟んで録音している。

その論旨や演奏実践について、優れた演奏実践が居並ぶ中でここでことさら評価するつもりは無いが、制作としてのこの企画は、様々な興味あることを考える切っ掛けとなるのも事実である。その内容を見て行く前に、ルネッサンス期のこの大作曲家について、簡単にそのプロフィールを見て、その創作の原点にある環境に思いを馳せる。

この作曲家が育ったブルゴーニュ公国は、現在のアルザス・ロレーヌからオランダへと跨っており、フランドル地方の産業発達に伴ない、文化的な中心はブルゴーニュからフランドル移って行った。そこでは、同時代の画家ヤン・ファン・エイクなどと同じく、前の時代を受け継いで多声音楽の芸術は高度に発達して、それが南のルネッサンスに対して北のルネッサンス文化を代表する文化圏にする。

パリがイングランドとの百年戦争で崩壊して、それが復興するにつれて、これらフランドル文化が果たした役割は大きいようで、その中でもフランス・ブルボン王朝にて重要な役割を為したのがこの作曲家であり、王が好んで居を構えたロワールの瀟洒な宮城に近いトュールの聖マルタン寺院は、この作曲家の主要な仕事場となっている。

その芸術は、あまりに知的で思弁的と言われるほどに高度に完成しているが、後輩の作曲家デ・プレがこの先輩を偲び強い影響を受けているだけでなく、アムステルダムの思想家エラスムスが追悼を認めているだけあって、その人物の大きさが知れるのである。

その人物像はあまり定かでなくとも、その芸術が五百年以上に渡って伝える、創作者の創作過程や意志なども色々と想像できる。特に面白いと思うのは、やはりこうした芸術家が、スコラ哲学からヒューマニズムへと進む時代に生きていたその軌跡を、作品の中に見つけることが出来るからである。(続く
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具象された肉体無き偶像

2007-04-04 | マスメディア批評
芸術家の肉体や表現の具象について考える。来年は、高名な指揮者、帝王と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕百年と言う。だから来る4月5日は、生誕99年際で既に業界は動き初めているらしい。エレノーレ・ビュンニック女史の記事は、我々にとってこの指揮者の音楽への繋がりを考える良い機会になるかも知れないと結んでいる。しかしこの記事を、「実体の無い美の具象化と偶像化」への指摘として、次のように読んだ。しかし、この指揮者の芸術論や人物評の数々には、今更興味は湧かないであろうし、繰り返す必要も無いだろう。

この指揮者の最晩年の活躍をして、それはまだベルリンのフィルハーモニーが東西の壁際にあったときであるが、売り切れが続いて列が出来たのだが、チケットを手に入れて実際にそれに接すると、それは当時老人であった巨匠ベームや若い小沢征爾の姿には劣らずとも、それらに比べて魅了されるような特別なオーラがあった訳では無いとしている。

既に脊髄の手術を受けた後のその当時の状況とそれ以前の状況を知る者としては、「厳つい皺のよった額の大きな頭の小男」のチケットをその時求めようとは思わなかったのは事実である。

その生演奏に接したとか、体験したとか言う話題が重要なのであって、それ以上のものでも以下でも無いことは、数多の書物によって論証されている以上に、ここでのその関心のあり所である。それが未だにDVDなどの売り上げで最高人気の位置にある原動力であり、あるレーベルでは三割方の売り上げを支えていると言われる。

反面、その1989年の死後は、予想に反して急激にその名の威光は消え失せて、指揮者本人が最晩年ソニーなどと目論んだ当時のビジネスパターンは崩壊した。そうした状況は、芸術家本人の肉体が滅びた所で、幾らかの芸術の核となるところが浮かび上がってくるかと期待した注意深い聞き手である音楽ファンを、そうしたプロジェクトに関わった者達同様に失望させたかも知れない。

さて引き続き記事を読んで行くと、その後の状況は次のように特徴付けてある。「直属の娘であるアンネ・ゾフィーおっかさんは、今やディノザウルスだ」と言い、日本人や中国人との競争や古典楽器風な弓使いを覚える若い世代にとっては、カラヤンの後光は石器時代のものでしかないと明言する。来年に向けて、実際に、業界はこの指揮者のその保守性を気に病んでいるとされる。

1930年代に登場した頃には、二人の名指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーを足して二で割ったと言われたこの指揮者の現代性そのものが保守性とされると、我々は時代の流れを感じない訳にはいかないだけでなく、そのメディアを使った「映像」作りが、益々時代遅れの陳腐な趣を醸し出しているのに気が付くのである。謂わば、ブリタニー・ピアースのVIDEOを十年後には誰も観ようとは思わない現象と変わらないのである。

この記事は、ハーノンクール指揮録音などと比べても一聴に値する、この指揮者が若い頃から得意としていた「フィガロの結婚」の幾つもの録音の早いテンポ運びとフィナーレへ向けての狂乱に触れている。これなどは、実際のこの指揮者の数限り無い立派な実践を実証していて、その音の肉体感と別ち難い。しかし、その音色への執着は、飽くなき、実体の無い、美への固執への典型でもあった。

この指揮者が求めたそうした芸術的な理想がメディアに形をもって実現されたとき、存在したと仮定されるオーラが消え失せるのは当然としても、メディアを通さないその実物自体までもがオーラ不在であったとすると、そうした具象がアニメーションに描かれた偶像に引き継がれても少しも可笑しくは無いのである。


今日の音楽:R.シュトラウス作「ドンキホーテ」、M.ロストロポーヴィッチ、カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカー
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搭乗への期限が延びる

2007-04-03 | 生活
先月中にどこかへ飛ぼうかと思っていた。貯まっていたマイレージが消失するからである。もともと大陸を移動するのは好きであるが、大陸から離れるのは僅かばかりの距離をトンネルで海峡を潜るか、フェリーで束の間の船上生活を愉しむかの趣味しかない。

それでも、どうしても飛行機も必要なので、マイレージも貯まった。理想としては、十分な点数で、既に就航していた筈のスーパージャンボA380の通常料金からファーストへのアップグレードを考えていた。それも特別長距離の飛行を目論んでいた。

周知のようにエアバスの納期は遅れ、シンガポール航空以外の航空会社に就航するにはまだまだ時間が掛かりそうである。

マイレージのカタログを見ると、どうしてもアップグレードが最もお得そうであり、やはりこれに拘った。都合、三回以上電話を掛けることとなった。中には好い加減な情報を出す受付などもいて、期限切れ最終日の土曜日に電話をするのも不安であったが、一先ずは点数を失うことなく飛行を先延ばしにすることが出来た。

何れにせよ、A380でキャビアを摘まむには改めて点数を稼がなければいけない。飛行業界も温暖化問題で、一人当たりの排ガス量が問題となって、カロチンの価格以外の要素を計算しなければならなくなってきている。

独ルフトハンザ自体は、どうやら世界の航空競争に生き残った様子で、業績好調らしい。また今後、欧州と米国間の飛行完全自由化に伴い、スターアリアンスグループ間での経費の削減と共に、順調に業績を拡大出来るのだろうか。すると何よりもの問題は、排出ガスへの課税などの、環境対策への費用の増大となるのかもしれない。
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漂白したような肌艶

2007-04-02 | 
この所の気候のせいか、豚肉の脂身を食していないゆえか、水仕事のゆえかは判らないが、久しぶりに手の甲の肌が荒れている。

時節柄、肉体と精神が話題になる。高名な中世歴史学者マルク・ブロッホの孫弟子ジャック・ル・ゴッフの小冊子が紹介されている。なにやら中世の肉体感の影響は、どの時代よりも現在の肉体感において大きいとされる。

つまり、ルネッサンスによるギリシャ的な肉体感や啓蒙主義を通り、十九世紀のオリンピック復興へ至る経過を通り越して、中世のそれを現在に繋げる。当然のことながら、使徒パウルスの言葉「肉体は聖霊の聖匱であるのか」の言葉が病めるキリストの肉体を想像させないように、教皇大グレゴリオの「肉体などはみっともない精神の衣装だ」とする性的な罪を意味する考え方が、トマス・アキナスにおいて、「どうして、感覚的な情熱は精神的な力を飛翔させる」となる。と同時にアッシシの聖フランソワのような禁欲が存在した。

こうした、歴史的な考察と同様に現代のメディアにおける情愛の対象が話題となる。先ごろ東京で催されたマイケル・ジャクソンの握手会の高額な入場料や、それどころかあまりにも何も出来ないタレントの粗稼ぎを指して、有名人志向の現代の教育を考える。

基礎にある「産業化された文化」などは、既にここでは問題ともならない。精神無き肉体どころか、肉体無き肉体がコンピューターゲームのヒーローであり、何れはソウルで大会があったようにコンピューターゲームがオリンピック競技になるのではないだろうかと予想する。

上の書評にあるような、中世と同じような肉体と精神の大きな緊張関係が、現代においてはたして存在するのかどうか?
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高価な聖水の効用を信じ

2007-04-01 | 生活
ジョン・トラヴォルタが独第二放送の人気番組に登場するとして、バーデン・ヴュルテンブルク首相エッティンガーは、放送局に中止するように呼びかけた。

勿論、ハリウッドスターがサイエントロジーの宣伝をすることへの懸念である。ここ数年、この団体のドイツでの活躍が話題となっていて、その顔となる有名人のブラックリストが載ることは多い。その写真を見て、トム・クルーズやチック・コリアなどは知っているが、その他は特別の感慨が無いので、関係の無い話でしかない。

その集金力が問題となっているようだが、もともとの創始者はウールト・ディズニーやマレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボやエーネスト・ヘミングウェーなどに近づいて工作したようだが、成果が得られなかったと言われる。

その点最近は、一流二流に係わらずお膝もとのロスの本拠を中心にスターが目白押しで、集金能力を高めていると言うのも面白い。そもそもそうした社会の多分野間に於ける業務提携であるように思われ、実体と言えば株式市場で日常行われているような投機ともあまり変わらないようにも見えるが違うだろうか?

バーデン・ヴュルテンベルクでは、これを宗教と認めないのは正しいと思われるが、そもそもこれは世俗と宗教活動の問題では無いようにも感じる。

どの宗教団体も集金力が大切であり、歴史的宗教団体もこれと変わらないのは言うまでもない。宗教団体として当然であろう。寧ろ世俗の団体が非営利団体社会活動をするとして集金する方に気をつけなければいけない。

実際、非営利団体に会費を払っても目に見える恩恵は限られる。しかし、ある程度は取り返している実感はあり、またそのあり方が明瞭会計である限り、認める事も出来よう。

しかし、同様な例でさらに明瞭性を欠くのは、政府と税金の関係ではないだろうか?多くの先進諸国では、半年以上住居する人間はその土地に現地人であろうが外国人であろうが納税する義務が発生するとするのが現代の一般的な納税のあり方である。

つまり、居住の自由を含めて、何処にどれだけの税金を納めて、何を取り返して、何に貢献出来るかと考慮するのは、遥かに宗教的な意義を求めて献金する行為以上に注意が必要である。なぜならば、宗教は信じれば救われるかもしれないが、政治には救われた覚えが無いのが普通であるからだ。


写真:我が町の上水道給水口
今日の音楽:チック・コリア エクスプレッションズ
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