Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

期待する天才の裏側

2024-09-06 | 
ザルツブルク音楽祭の歌手降板に関しての記事を読む。殆どキャンセルをしない若手のベルナイムが新制作日程を最後まで歌わなかったのは抗議が含まれていたということだ。要するに指揮者の名声などの都合で声を潰されるのは歌手だということで、長く歌えて大成功しない歌手が増えているのは何も自らに責任があるというものではないという声明である。これに関しては「オペラ、過酷な世界」のドキュメントの主題になっていて、そこで人気スターテノール歌手のヨーナス・カウフマン、既に声を失ったアスミク・グリゴーリアン、そしてその後人気の出たエルザ・トライジーク、ベチャラ夫妻などが自らの経験から後継者らに注意を喚起する番組だった。要するに圧力に負けて無理して歌手生命を短くするというものだ。

今回の事件は音楽祭のヴィーナーフィルハーモニカーを十分にコントロールできない指揮者の下で歌っていると、歴史的なピッチとその楽器からのダイナミックスに合わせて、歌手が張り合って歌うと知らず知らずに限界に達して故障してしまうということである。

そこで嘗て、ミュンヘンの大劇場でサロメを歌って大成功したマルリス・ペーターセンの話しが取り上げられていた。そもそもあの大劇場で出ずっぱりの娘役を歌い通せる歌手は少なく、コロラトゥーラで始めたリリックなソプラノのペーターセンが、十八番のルルだけでなく、サロメ、マリオネッタなどを歌えたのは音楽監督ペトレンコが振ったからだと語る。

今回初めて知ったのは、最初の管弦楽稽古の時にペトレンコは冒頭座付き管弦楽団に話しかけた内容である。

「マルリスに合わせて音楽的オートクチュールでやりましょう。」と、それはペーターセン曰く、「私の音楽への尊重の表現でしかない。」と同時にその娘のような声とそしてその舞台の為への芸術への飽くなき姿勢でしかなかったであろう。幸い最後の楽劇指揮「トリスタン」の直前に最終公演も観ることが叶った。初演シリーズに続いて二回目のだった踊って歌ってのまさに全てを賭けた一夜の舞台が披露されたのも決して偶然ではないのだった。

何故、偶々とは言いながら、この話しを大書きしなければいけなかったか。それはこうした指揮者ペトレンコの姿勢は、勿論その人格もあるのだが、よりむしろ芸術家としての本望を示すものでしかなく、今日現在我々が彼の期待しているものに他ならないからだ。

子供のころから劇場で指揮台の廻りで遊んでいたペトレンコが、ベルリンにおいてもこうした歌手に関わると同じぐらいに管弦楽団の奏者との関係を結んできているからこその成功があるとザタイムズ紙は先日のロイヤルアルバートホールでのブルックナー交響曲五番の演奏をして特大評価をしている。

ペーターセンは、「こうしたことはなにも業界での論議だけでなく、聴衆も皆が一緒になって考えるべきものだ」と結んでいる。ペトレンコがアンチマエストロと呼ばれたこととこれは全く同じことなのである。



参照:
Stars im Abseits: Sind Orchester zu laut?, Markus Thiel, Markur.de vom 31.08.2024
陽性が出ない抗原検査 2021-05-29 | 雑感
超絶絶後の座付き管弦楽 2021-07-29 | 音

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