Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

観れば、その違いが判る

2007-04-08 | マスメディア批評
緑の党が、TV機器などのスタンバイ装置を外せと発言している。温暖化対策としての省エネ処置のプロパガンダであるが、それならばTV放送の時間制限をする運動を提案したいと思っている。

もともとはTV人間であるが、最近はコンピュータモニター画面を覗く時間に反比例して、真空管などを見るのは大変億劫になっている。一週間に平均三分間も点けない。だから、スタンバイ装置が無くなれば先ず電源を入れることも無くなるだろうと思っている。

TV放送は、殆どエネルギーの浪費で無駄としか思わなくなっている理由を改めて述べようとは思わないが、それを原則的に全廃することで、今後幾つかの有効な社会整備が出来ることになると信じている。

そのような訳で、狙いを定めて聖金曜日の礼拝の様子を観た。スイスのヴィンタートュールの改革派教会の礼拝をスイス放送が制作して独第一放送に放送権を売ったものである。

スイスの改革教会は、フランス語圏はカルヴァン派、ドイツ語圏はツヴィングリ派と言われているが、この場合は後者の影響下にあるのだろう。それを語るのか、聖金曜日の聖体拝領が興味深かった。その聖体自体が象徴であるとすると、門外漢でも納得出来るのだが、はたして、それは人類の孤独と個人的苦悩と言葉の無効性と音楽をテーマとしていると言う。

小粒に拵えられた新教式のパンが籠に入れられてそれがベンチの端から端へと配られ信者の手によって回される。そして、大きな聖杯がやはり同じように回し飲みされる。そして減ってくると、そこにさらに漏斗で注がれるのである。キリスト教の伝統を持つスイス有数の都市にしては、60人程度の教会はかなり小さく老人や女性が主となっていた。

さて教会は、今回の放送で契約上、一銭も貰っていないと発言している。スイス放送が制作権料として、ドイツにどれだけ要求したかは判らないが、牧師は放送のためにスイス訛りの高地ドイツ語を折角使って説教したのにと書かれている。

些か音楽も無効であったが、どのみち説教の意味合いも、募金などの連帯活動が伴なわなければ無効であるのだろう。

晩には、新聞で偶々気がついた独第一放送の連作「シベリアから日本へ」の第一回放送を、背中を向けてちらちらと観た。カムチャッカ半島の美しい自然を背景に、遊牧を続ける部族の年金生活者や森林労働者、ペンション経営者、オートドックスの神父、運転手、水兵や街道のスタンドで露天を出す女達などを扱っていた。黒澤監督作の『デルス・ウザーラ』に似た親爺さんが、朝鮮族などの様々な人種に混ざって良い味を出していて、主役の位置を占めていた。

そこで踊られていた民族舞踊や衣装も興味深かったが、連休中の復活祭二日目の月曜日に放送される、第二部の予告編に映っていたアイヌ民族の様子があまり見慣れない顔つきであるのにも興味を引いた。こうしてみると、モンゴル人からエスキモーや北南米インディアンまであまりにも人種が違うのに気がつく。極東におけるそれだけを観察しても、中欧におけるベルギー人やオーストリア人との人種差よりも、想像以上に遥かにそれの方が大きいような気がする。
コメント (8)
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