ブデンブロック家と言うトーマス・マンの処女作の映画化されたものをTVで観た。原作は、1901年に出版されていて、作者は実生活で1904年にプリングスハイム家の令嬢カティアと結婚している。
細かな事情には興味がないが、ご大家の令嬢を貰うためにも、一度自らの家庭の栄光の歴史も扱ってみたかったのであろうか? とは言うものの、既にモンタージュ手法を駆使しているのは、その映像化されたものでも理解できる。後年、審査委員の「魔の山」への抵抗もあって、この作品をもってノーベル文学賞を授与としている。
この1959年に作家の長女エリカ・マンの監修で作られた白黒映画を観ていて気がつくのは、プロテスタントとしたハンザ同盟の町の商屋の歴史を通して、描かれている19世紀のドイツであり、それを作家が暮らした20世紀初頭への生活感から覗かれている事である。
各々の登場人物は、まさに作者自体の環境を映していて、一見そのように見えるつまらない家庭の歴史ドラマとは一線を画している。その手法から登場人物が様々な典型を示しているのみならず、社会の縮図となって尚且つ、自らの近親を描いているのに感心させられる。プロテスタントの商人やその社会、金髪の医学生、南北ドイツの方言に現れる気質、彼らの道徳観や真相、子供の目を通したその社会は、戯曲的な人物像を創作するにあらず、現実のあるドイツ社会を作品に抱合する。
特に次男役のクリスツィアンは、作家の実の叔父さんがモデルであり、刊行12年後の地元リューベックの新聞に告知を出している。ハンブルクのフ-リードリッヒ・マンは、「甥のこの馬鹿げた作品のお蔭で大変迷惑を被り続けている。だから読者にこの期に及んで、この本は好い加減な話だと思って頂くようにお願いしたい。このブデンブロックの作者は、身内を茶化して愚弄してその人生をもの笑いにしている。これは非難されるべきと正当な判断をする者は思うだろう。なんとみすぼらしい面汚し者よ」と、書いているのは良いが、そのタイトルの綴りが誤っている。
先日オープンしたミュンヘンのユダヤ博物館の展示に、プリングスハイム家の事例が扱われている。そこでは、ミュンヘンの最も賑やかなサロンであったアルツィスシュトラーセのブルジュワ館の音楽室が再現されて、その絵画のコレクションが並べられている。
数学者アルフレッドは、プリングスハイム家の当主として多くのものを家督相続しており、マンが令嬢に近づいた時分は華やかだったことは良く知られていて、指揮者ブルーノ・ヴァルターは、「ミュンヘン中の偉大な夜会」と称している。アルフレッドは、ドイツ愛国者として、ドイツ文化のパトロンであって、バイロイト劇場のパトロンとして作曲家に個人的に招かれていた。
そうした顔をナチが放って置くことはなく、兄弟一族が日本やスイスや米国へと逃れる中、ミュンヘンの文化を護るべくこの老数学者を囲い、甚振り、蔑み、最後には身包みを剥いでしまう。最期の財産を亡命税として剥ぎとられてもスイスへと逃げれたのは、ヒットラーに顔の効いたヴィンフリート・ヴァーグナーの口添えと言う。
そのような柵を思ってか奥さんのヘドヴィッヒの手によって、亡命後、直に訪れた死の後、反ヴァーグナー者をビール瓶で殴り、「魔の山」の決闘のようにピストルを持ち出すほど片身離さずにいたこの数学者の楽匠との往復手紙が焼かれた。
こうしてみてくると、処女作には多くの事象が暗示されている。処女作出版以降、生みの苦しみを味わい、作者の実の兄ハインリッヒ ― デビューに遅れをとったが大戦後に一躍注目を浴びる ― への嫉妬が燃えたといわれるが、決してその弟である作者どころか、主人公の妹をその家庭の金目当てに結婚する男が作家本人の運命を示していたり、少年への執拗な愛着や音楽への拘りは、作者の同性愛を示していたりする。しかし、この作品の面白さは、決して本文を読んだ訳ではないが、叔父さんのような実際のドイツ人がユーモア溢れ描かれている事にあるのだろう。
細かな事情には興味がないが、ご大家の令嬢を貰うためにも、一度自らの家庭の栄光の歴史も扱ってみたかったのであろうか? とは言うものの、既にモンタージュ手法を駆使しているのは、その映像化されたものでも理解できる。後年、審査委員の「魔の山」への抵抗もあって、この作品をもってノーベル文学賞を授与としている。
この1959年に作家の長女エリカ・マンの監修で作られた白黒映画を観ていて気がつくのは、プロテスタントとしたハンザ同盟の町の商屋の歴史を通して、描かれている19世紀のドイツであり、それを作家が暮らした20世紀初頭への生活感から覗かれている事である。
各々の登場人物は、まさに作者自体の環境を映していて、一見そのように見えるつまらない家庭の歴史ドラマとは一線を画している。その手法から登場人物が様々な典型を示しているのみならず、社会の縮図となって尚且つ、自らの近親を描いているのに感心させられる。プロテスタントの商人やその社会、金髪の医学生、南北ドイツの方言に現れる気質、彼らの道徳観や真相、子供の目を通したその社会は、戯曲的な人物像を創作するにあらず、現実のあるドイツ社会を作品に抱合する。
特に次男役のクリスツィアンは、作家の実の叔父さんがモデルであり、刊行12年後の地元リューベックの新聞に告知を出している。ハンブルクのフ-リードリッヒ・マンは、「甥のこの馬鹿げた作品のお蔭で大変迷惑を被り続けている。だから読者にこの期に及んで、この本は好い加減な話だと思って頂くようにお願いしたい。このブデンブロックの作者は、身内を茶化して愚弄してその人生をもの笑いにしている。これは非難されるべきと正当な判断をする者は思うだろう。なんとみすぼらしい面汚し者よ」と、書いているのは良いが、そのタイトルの綴りが誤っている。
先日オープンしたミュンヘンのユダヤ博物館の展示に、プリングスハイム家の事例が扱われている。そこでは、ミュンヘンの最も賑やかなサロンであったアルツィスシュトラーセのブルジュワ館の音楽室が再現されて、その絵画のコレクションが並べられている。
数学者アルフレッドは、プリングスハイム家の当主として多くのものを家督相続しており、マンが令嬢に近づいた時分は華やかだったことは良く知られていて、指揮者ブルーノ・ヴァルターは、「ミュンヘン中の偉大な夜会」と称している。アルフレッドは、ドイツ愛国者として、ドイツ文化のパトロンであって、バイロイト劇場のパトロンとして作曲家に個人的に招かれていた。
そうした顔をナチが放って置くことはなく、兄弟一族が日本やスイスや米国へと逃れる中、ミュンヘンの文化を護るべくこの老数学者を囲い、甚振り、蔑み、最後には身包みを剥いでしまう。最期の財産を亡命税として剥ぎとられてもスイスへと逃げれたのは、ヒットラーに顔の効いたヴィンフリート・ヴァーグナーの口添えと言う。
そのような柵を思ってか奥さんのヘドヴィッヒの手によって、亡命後、直に訪れた死の後、反ヴァーグナー者をビール瓶で殴り、「魔の山」の決闘のようにピストルを持ち出すほど片身離さずにいたこの数学者の楽匠との往復手紙が焼かれた。
こうしてみてくると、処女作には多くの事象が暗示されている。処女作出版以降、生みの苦しみを味わい、作者の実の兄ハインリッヒ ― デビューに遅れをとったが大戦後に一躍注目を浴びる ― への嫉妬が燃えたといわれるが、決してその弟である作者どころか、主人公の妹をその家庭の金目当てに結婚する男が作家本人の運命を示していたり、少年への執拗な愛着や音楽への拘りは、作者の同性愛を示していたりする。しかし、この作品の面白さは、決して本文を読んだ訳ではないが、叔父さんのような実際のドイツ人がユーモア溢れ描かれている事にあるのだろう。
不思議なもので、自分が共鳴できる作品・作家の文章はたとえ翻訳でも原文の味、原語の言語的な特性を超えて音楽的なリズムや陰影を感じるものなのでしょうか?
私には翻訳書を逆に原語に置き換えて理解しようとする衝動が度々起こります。
さて、カーチャ夫人の双子の兄クラウス氏ですが、彼ばかりでなく多くユダヤ系ドイツ人がどうしてナチと同盟関係だった日本に《亡命》できたのが改めて不思議に思われます。
映像化すると戯曲ではないので台詞が凄くて、役者さんは大変だなと思わせます。その点からもこの弟とか「魔の山」のペーペルコーンとかは遣り甲斐のある役でしょう。
生煮えのまま投稿してしまいましたので、あとで少し直します。
ユダヤ人の扱いは、昭和天皇が反三国同盟を示しているような意味合いがあるのかもしれません。少なくともユダヤ人陰謀説は当時の巷でも盛んでしたから、それが過大評価されていたのか、それとも金塊を溶かしたゲンナマが飛び交ったのか?
ここでも「美しい日本」で触れた、ドイツ在東京大使館筋の動きは迫害が目的ではなくて、「流出防止」が課題だったのでしょう。東京が当初とっていた保護にはそれだけの見返りがあったことは間違いありません。
ロシア革命からの亡命者もナチからの亡命者も、丸腰は殆ど考えられませんから。
もちろん「考察」は学生時代に大変な苦労をして読みました。日本語の本でこんなに読むのに苦労したことがないので、原著を読もうという気力は全くありません。
何しろ図書館から上・中・下巻をそれぞれ都合2・3回借り直すなど未だかつてなかったですから(笑)
「考察」は、エッセイGeist und Tat, 1910-18でしょうか。
「彼のこと」と称して出世作「ゾラ」のなかに以下の一節があるらしいです:
早く枯渇しなければならなかった。二十代の早くから、自覚して世の常を知るのだ。
日本の場合、ハインリッヒ・マンは直接間接にプロレタリア文学運動に関連していると思うのですが、今こうしてハインリッヒが話題になっている背後事情を調べて、また必要ならば読んでみようかとも思います。