Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

楽譜にないものとは?

2024-09-05 | 
承前)三楽章スケルツォは前の楽章の同じ様に始まり数倍速となる。同じようにニ短調からニ長調の調性までとなる。それをしてバロックのパロディーだとも書かれている。興味深いのはやはり一つ目主題からレントラーに入りというアッチァランドによるテムポの移動でもあろう。

車中のラディオで今し方オーストリアの地方指揮者が語っていたが、そのボヘミア風のポルカに始まってと、その後のシュタムプターの中声部にはヨーデルがこだまするとなる。そしてそういう音楽は記譜が出来ないものだと断定する。然しそこで鳴らされるヴィーンの放送交響楽団を振る演奏では何が何だか分からない。ある声部を強調すればそれは創作の本望ではなく、そもそも全体像をこういう演奏ではとても示せない。

ペトレンコ指揮において、こうした地方の二流指揮者が鳴らすようなものは、そのヴィーンでの修行から彼ら以上に正統的に鳴らされる。ロンドン公演において英国の二大高級新聞がこぞって絶賛しているが、そこにおける特に後期浪漫派におけるその表現はその辺りの指揮者がどんな言葉を尽くしても表現できるものではない。

創作家は何もそこでポルカやレントラーをまるで楽屋落ちのようにして大交響曲の中で演奏させることを目的にしていたのではない。それはルネッサンスにおいてのパロディミサ曲と同じく、あり得るべきこととして創作しているのである。

同じようにトリオにおいては更に田舎の楽師風の光景が繰り広げられる。それは嘗てブルックナー自身が小遣い稼ぎにそうしたところでヴァイオリンなどを演奏した適当な演奏をもしていると呼ばれるところである。そしてそれは勿論正しく記譜されている。

上のラディオ放送で、そうした音楽的な極端に大きな動きは、リンツの大聖堂などの巨大なオルガンを弾く作曲家の肉体的な感覚から来ていると語られる。それは勿論そうなのだろうが、大管弦楽団を指揮して残された楽譜から創作の正しい意思を引き出して、音として言語では表現不可能な表現をすることが全てなのである。

今日9月4日が作曲家ブルックナーの生誕200年祭となっている。そしてこの前後年に盛んにその交響曲が演奏される。その中で今迄これといった特別な演奏の話しは聞いていない。然し、先月の初日から続いて、三回演奏された第五交響曲は取り分け演奏が困難だった曲であり、コムパクトに演奏が不可能で、その為に最も理解されがたい曲であった。そして、三回目のロンドン公演で、そして中旬からのベルリンでの三回の公演で、その全容は明らかになる。

同時に二年前にマーラー交響曲七番でそのように語られたように、この交響曲において最早それを越えることが出来ないことが明らかになって、それどころか11月には北米で演奏されることによって、恐らくこの交響曲も博物館行きとなるだろう。(続く)



参照:
描き切れない普遍的価値 2024-09-01 | 文化一般
我が祖国の高み 2024-08-10 | 文化一般

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 味のあるフラッシュ | トップ | 期待する天才の裏側 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿