Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ナザレのイエスを注文

2007-04-22 | 文学・思想
自然科学に比べて精神科学がつまらないとは言えない。勿論、前者ほどそこに新奇な発想の面白さを発見出来ないが、後者にはある世界観を根拠として洞察に富んだ直感を見出すことが出来る。

特にその中でも、神学的な考察は法学や哲学などを支える文化そのもので、どちらかと言えば肌触りの悪いそれらの理解にも役に立つ。

そこで、いつも問題となるのが正典となる聖書解釈のようである。今回、現職の教皇であるヨゼフ・ラッツィンガー博士が二部に渡る一冊の本「ナザレのイエス」を出版した。

博士の学問的業績は、昨年問題となったレーゲンスブルクの発言にも、また教皇としての仕事ぶりにも現れているのは知るところである。さて今回出版された書籍は、宗教人としてのベネディクト16世とは別に、神学者としての博士の名前が並列して示されていて、カトリック教会内だけでなく、キリスト教以外からも神学的な議論を歓迎するとある。

言葉は悪いが、一種のスター本として多数の発行・販売部数が見込まれる。しかし、そこで議論されるものは必ずしも容易で無いことは確かである。新聞評やラジオの討論会で知る限り、歴史批判的なイエス像と信仰の対象としてのイエス像にある間隙を、三十年前ほどに米国でなされた聖書解釈プロジェクトを呼び興しつつ、口述伝承された聖書としてこれを扱う。

つまり、教会におけるその解釈は歴史的主観としておかれる。こうした態度は、ただの神学的な聖書解釈とは異なり、イエスの位置付けが神話的でも政治的でも無い事を主張しているようだ。

それこそが信仰なのであるが、ここではそれが社会学や心理学の領域に立ち入ることなく、形而上の領域へと至るのである。巨大世界宗教の本質は、決して均したヒューマニティや倫理のプロジェクトに有るのでは無いことを示しているとされる。この点が、まさに前任者のヨハネ・パウロ二世を理論面で引き継いでいる。

初版本の恐らく献呈用に装丁された豪華版も、ラッツィンガーファンには、格好のアイテムだろう。そう言えば、ラッツィンガー愛車VWが先月再びネット競売に掛けられていた。二十歳そこそこの青年に買われたこの車も、投資対象として再び高値で競り落とされて、利鞘が転がり込んだに違いない。

格安本の方は半額に近いので、これを注文購入しようと思っている。手元にあるトーマス・アキナスやルートヴィッヒ・フォイヤーバッハの書籍と行ったり来たりしながら読むのが面白そうである。

ラジオで司会者が、「こうした難解な神学が解らなければ、信仰出来ないのか」と馬鹿げた事を言っていた。なぜ、その女性は正反逆に言わなかったのだろう?



参照:
英訳本
批評 ―
FAZ
ZENIT
NZZ
KATH.NET
TSG
WELT
FNP
コメント (6)
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