Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

学校で習えないほど過激

2007-04-29 | 文学・思想
ナザレのイエス」を読んでいる。非常に面白くて、読み始めると止まらない。読み易く、平易な表現を使っているので、写真は教皇室で執筆中の著者のものがカヴァーに一枚だけの450頁ほどの書籍だが、速読すれば数時間で読み切れる。

字面を辿って行けば、内容も容易に読み取れる。聖書やキリスト教の教義に日頃から親しんでいる者ならば必要ないが、それでも普通の者はどうしても聖書などを片手に引用箇所を吟味していく事になる。しかし、その作業や知識にしても共同訳聖書の余白に書いてある程度のもので、そうして読み進むのに特別な教養は必要ない。

しかし、ラッツィンガー博士がここで思考したものを理解しようとすると、決して容易では無い。それは、決して文章の綴りが不明確なのでも意思が通らないのでなくて、一見変哲の無い文章の構成をも含めて、核となるものを構築する手練手管の文脈を、まるで読者がベール隔てて話し手のその表情を読み取るように、まさに読解して汲み取らなければいけないからだ。

そうした積極的な読みをすることで初めて本書の核心を実感出来るようだ。既に、前口上に続き、「イエスの神秘への概要への誘い」、第一章「イエスの洗礼」を読んだ。

新聞批評記事にて扱ったので、その前口上については繰り返さない。続く項目から印象に残った部分を紹介して、この書籍の内容の一端を示したい。

著者は、この本の要点「イエスの形態」を理解するために次のように釘を刺す。新約聖書の読者は、言葉や、行ないや、苦悩や、神々しさに出会うが、「イエスは、友人としてではなく神の子として神と面と向かっている」ことへの認識を避けては、結局目標に達さないばかりか、そこに矛盾が生じると明言する。

つまり、ここではモーゼの五書と呼ばれる旧約聖書「申命記」から18章9-12、15、34章10や「出エジプト記」から33章11、18、20-23が取り上げられてイエスは神を見る事が出来ない預言者モーゼと比較される。神と友のよう交えるモーゼは、神を背中越しにしか見る事が出来ないが、それは引いては「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」として成就されなかったことを表わし、新たなモーゼが待望されたとなる。

出エジプト記の該当する神秘めいたテキストが、まさにこれを示しており、著者は、それをして「ユダヤ・キリストの神秘の歴史で本質的な意味を持つ」とする。「そのテキストから、この世での神との触れ合いが如何に程遠いものか、神秘的な観照のその境界は何処を通るのかと識別することを指している」とする。

新約聖書の読者には、「イエスは何処から教えを学んだのか?、どこで自らの現出を宣言しているか?」との質問があるが、それはまさにここに回答があって、「それは学校で学ぶような教えでなく、学校で学ぶものとは比較できないほど過激なもの」と言う。解釈の方法による教義でもなく、そのものが 全 権 なのだとする。「聴衆の診断に措けるイエスの言葉の考察については、再び取り上げて更に深く掘り下げて行く」と著者は言う。

また、こうした概要が論じられる前に、「どの宗教も如何なる方法かで、将来を導いて行く様になっている」として、旧約聖書などの一次資料の時点から将来を見て行く手法を採用すると次のように釈明している。

「何時の世も人は、その暗い源泉へと迫り、何処から?と問い質すだけではなく、より以上に、定まらんこれから向かう将来に煩っているのであり、今後、災いから逃れ、恩寵に恵まれるのかと、起こることに関心があるのだ」。(続く
コメント (2)
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