芸術家の肉体や表現の具象について考える。来年は、高名な指揮者、帝王と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕百年と言う。だから来る4月5日は、生誕99年際で既に業界は動き初めているらしい。エレノーレ・ビュンニック女史の記事は、我々にとってこの指揮者の音楽への繋がりを考える良い機会になるかも知れないと結んでいる。しかしこの記事を、「実体の無い美の具象化と偶像化」への指摘として、次のように読んだ。しかし、この指揮者の芸術論や人物評の数々には、今更興味は湧かないであろうし、繰り返す必要も無いだろう。
この指揮者の最晩年の活躍をして、それはまだベルリンのフィルハーモニーが東西の壁際にあったときであるが、売り切れが続いて列が出来たのだが、チケットを手に入れて実際にそれに接すると、それは当時老人であった巨匠ベームや若い小沢征爾の姿には劣らずとも、それらに比べて魅了されるような特別なオーラがあった訳では無いとしている。
既に脊髄の手術を受けた後のその当時の状況とそれ以前の状況を知る者としては、「厳つい皺のよった額の大きな頭の小男」のチケットをその時求めようとは思わなかったのは事実である。
その生演奏に接したとか、体験したとか言う話題が重要なのであって、それ以上のものでも以下でも無いことは、数多の書物によって論証されている以上に、ここでのその関心のあり所である。それが未だにDVDなどの売り上げで最高人気の位置にある原動力であり、あるレーベルでは三割方の売り上げを支えていると言われる。
反面、その1989年の死後は、予想に反して急激にその名の威光は消え失せて、指揮者本人が最晩年ソニーなどと目論んだ当時のビジネスパターンは崩壊した。そうした状況は、芸術家本人の肉体が滅びた所で、幾らかの芸術の核となるところが浮かび上がってくるかと期待した注意深い聞き手である音楽ファンを、そうしたプロジェクトに関わった者達同様に失望させたかも知れない。
さて引き続き記事を読んで行くと、その後の状況は次のように特徴付けてある。「直属の娘であるアンネ・ゾフィーおっかさんは、今やディノザウルスだ」と言い、日本人や中国人との競争や古典楽器風な弓使いを覚える若い世代にとっては、カラヤンの後光は石器時代のものでしかないと明言する。来年に向けて、実際に、業界はこの指揮者のその保守性を気に病んでいるとされる。
1930年代に登場した頃には、二人の名指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーを足して二で割ったと言われたこの指揮者の現代性そのものが保守性とされると、我々は時代の流れを感じない訳にはいかないだけでなく、そのメディアを使った「映像」作りが、益々時代遅れの陳腐な趣を醸し出しているのに気が付くのである。謂わば、ブリタニー・ピアースのVIDEOを十年後には誰も観ようとは思わない現象と変わらないのである。
この記事は、ハーノンクール指揮録音などと比べても一聴に値する、この指揮者が若い頃から得意としていた「フィガロの結婚」の幾つもの録音の早いテンポ運びとフィナーレへ向けての狂乱に触れている。これなどは、実際のこの指揮者の数限り無い立派な実践を実証していて、その音の肉体感と別ち難い。しかし、その音色への執着は、飽くなき、実体の無い、美への固執への典型でもあった。
この指揮者が求めたそうした芸術的な理想がメディアに形をもって実現されたとき、存在したと仮定されるオーラが消え失せるのは当然としても、メディアを通さないその実物自体までもがオーラ不在であったとすると、そうした具象がアニメーションに描かれた偶像に引き継がれても少しも可笑しくは無いのである。
今日の音楽:R.シュトラウス作「ドンキホーテ」、M.ロストロポーヴィッチ、カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカー
この指揮者の最晩年の活躍をして、それはまだベルリンのフィルハーモニーが東西の壁際にあったときであるが、売り切れが続いて列が出来たのだが、チケットを手に入れて実際にそれに接すると、それは当時老人であった巨匠ベームや若い小沢征爾の姿には劣らずとも、それらに比べて魅了されるような特別なオーラがあった訳では無いとしている。
既に脊髄の手術を受けた後のその当時の状況とそれ以前の状況を知る者としては、「厳つい皺のよった額の大きな頭の小男」のチケットをその時求めようとは思わなかったのは事実である。
その生演奏に接したとか、体験したとか言う話題が重要なのであって、それ以上のものでも以下でも無いことは、数多の書物によって論証されている以上に、ここでのその関心のあり所である。それが未だにDVDなどの売り上げで最高人気の位置にある原動力であり、あるレーベルでは三割方の売り上げを支えていると言われる。
反面、その1989年の死後は、予想に反して急激にその名の威光は消え失せて、指揮者本人が最晩年ソニーなどと目論んだ当時のビジネスパターンは崩壊した。そうした状況は、芸術家本人の肉体が滅びた所で、幾らかの芸術の核となるところが浮かび上がってくるかと期待した注意深い聞き手である音楽ファンを、そうしたプロジェクトに関わった者達同様に失望させたかも知れない。
さて引き続き記事を読んで行くと、その後の状況は次のように特徴付けてある。「直属の娘であるアンネ・ゾフィーおっかさんは、今やディノザウルスだ」と言い、日本人や中国人との競争や古典楽器風な弓使いを覚える若い世代にとっては、カラヤンの後光は石器時代のものでしかないと明言する。来年に向けて、実際に、業界はこの指揮者のその保守性を気に病んでいるとされる。
1930年代に登場した頃には、二人の名指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーを足して二で割ったと言われたこの指揮者の現代性そのものが保守性とされると、我々は時代の流れを感じない訳にはいかないだけでなく、そのメディアを使った「映像」作りが、益々時代遅れの陳腐な趣を醸し出しているのに気が付くのである。謂わば、ブリタニー・ピアースのVIDEOを十年後には誰も観ようとは思わない現象と変わらないのである。
この記事は、ハーノンクール指揮録音などと比べても一聴に値する、この指揮者が若い頃から得意としていた「フィガロの結婚」の幾つもの録音の早いテンポ運びとフィナーレへ向けての狂乱に触れている。これなどは、実際のこの指揮者の数限り無い立派な実践を実証していて、その音の肉体感と別ち難い。しかし、その音色への執着は、飽くなき、実体の無い、美への固執への典型でもあった。
この指揮者が求めたそうした芸術的な理想がメディアに形をもって実現されたとき、存在したと仮定されるオーラが消え失せるのは当然としても、メディアを通さないその実物自体までもがオーラ不在であったとすると、そうした具象がアニメーションに描かれた偶像に引き継がれても少しも可笑しくは無いのである。
今日の音楽:R.シュトラウス作「ドンキホーテ」、M.ロストロポーヴィッチ、カラヤン指揮ベルリナーフィルハーモニカー