Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

漂白したような肌艶

2007-04-02 | 
この所の気候のせいか、豚肉の脂身を食していないゆえか、水仕事のゆえかは判らないが、久しぶりに手の甲の肌が荒れている。

時節柄、肉体と精神が話題になる。高名な中世歴史学者マルク・ブロッホの孫弟子ジャック・ル・ゴッフの小冊子が紹介されている。なにやら中世の肉体感の影響は、どの時代よりも現在の肉体感において大きいとされる。

つまり、ルネッサンスによるギリシャ的な肉体感や啓蒙主義を通り、十九世紀のオリンピック復興へ至る経過を通り越して、中世のそれを現在に繋げる。当然のことながら、使徒パウルスの言葉「肉体は聖霊の聖匱であるのか」の言葉が病めるキリストの肉体を想像させないように、教皇大グレゴリオの「肉体などはみっともない精神の衣装だ」とする性的な罪を意味する考え方が、トマス・アキナスにおいて、「どうして、感覚的な情熱は精神的な力を飛翔させる」となる。と同時にアッシシの聖フランソワのような禁欲が存在した。

こうした、歴史的な考察と同様に現代のメディアにおける情愛の対象が話題となる。先ごろ東京で催されたマイケル・ジャクソンの握手会の高額な入場料や、それどころかあまりにも何も出来ないタレントの粗稼ぎを指して、有名人志向の現代の教育を考える。

基礎にある「産業化された文化」などは、既にここでは問題ともならない。精神無き肉体どころか、肉体無き肉体がコンピューターゲームのヒーローであり、何れはソウルで大会があったようにコンピューターゲームがオリンピック競技になるのではないだろうかと予想する。

上の書評にあるような、中世と同じような肉体と精神の大きな緊張関係が、現代においてはたして存在するのかどうか?
コメント
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