緑の党が、TV機器などのスタンバイ装置を外せと発言している。温暖化対策としての省エネ処置のプロパガンダであるが、それならばTV放送の時間制限をする運動を提案したいと思っている。
もともとはTV人間であるが、最近はコンピュータモニター画面を覗く時間に反比例して、真空管などを見るのは大変億劫になっている。一週間に平均三分間も点けない。だから、スタンバイ装置が無くなれば先ず電源を入れることも無くなるだろうと思っている。
TV放送は、殆どエネルギーの浪費で無駄としか思わなくなっている理由を改めて述べようとは思わないが、それを原則的に全廃することで、今後幾つかの有効な社会整備が出来ることになると信じている。
そのような訳で、狙いを定めて聖金曜日の礼拝の様子を観た。スイスのヴィンタートュールの改革派教会の礼拝をスイス放送が制作して独第一放送に放送権を売ったものである。
スイスの改革教会は、フランス語圏はカルヴァン派、ドイツ語圏はツヴィングリ派と言われているが、この場合は後者の影響下にあるのだろう。それを語るのか、聖金曜日の聖体拝領が興味深かった。その聖体自体が象徴であるとすると、門外漢でも納得出来るのだが、はたして、それは人類の孤独と個人的苦悩と言葉の無効性と音楽をテーマとしていると言う。
小粒に拵えられた新教式のパンが籠に入れられてそれがベンチの端から端へと配られ信者の手によって回される。そして、大きな聖杯がやはり同じように回し飲みされる。そして減ってくると、そこにさらに漏斗で注がれるのである。キリスト教の伝統を持つスイス有数の都市にしては、60人程度の教会はかなり小さく老人や女性が主となっていた。
さて教会は、今回の放送で契約上、一銭も貰っていないと発言している。スイス放送が制作権料として、ドイツにどれだけ要求したかは判らないが、牧師は放送のためにスイス訛りの高地ドイツ語を折角使って説教したのにと書かれている。
些か音楽も無効であったが、どのみち説教の意味合いも、募金などの連帯活動が伴なわなければ無効であるのだろう。
晩には、新聞で偶々気がついた独第一放送の連作「シベリアから日本へ」の第一回放送を、背中を向けてちらちらと観た。カムチャッカ半島の美しい自然を背景に、遊牧を続ける部族の年金生活者や森林労働者、ペンション経営者、オートドックスの神父、運転手、水兵や街道のスタンドで露天を出す女達などを扱っていた。黒澤監督作の『デルス・ウザーラ』に似た親爺さんが、朝鮮族などの様々な人種に混ざって良い味を出していて、主役の位置を占めていた。
そこで踊られていた民族舞踊や衣装も興味深かったが、連休中の復活祭二日目の月曜日に放送される、第二部の予告編に映っていたアイヌ民族の様子があまり見慣れない顔つきであるのにも興味を引いた。こうしてみると、モンゴル人からエスキモーや北南米インディアンまであまりにも人種が違うのに気がつく。極東におけるそれだけを観察しても、中欧におけるベルギー人やオーストリア人との人種差よりも、想像以上に遥かにそれの方が大きいような気がする。
もともとはTV人間であるが、最近はコンピュータモニター画面を覗く時間に反比例して、真空管などを見るのは大変億劫になっている。一週間に平均三分間も点けない。だから、スタンバイ装置が無くなれば先ず電源を入れることも無くなるだろうと思っている。
TV放送は、殆どエネルギーの浪費で無駄としか思わなくなっている理由を改めて述べようとは思わないが、それを原則的に全廃することで、今後幾つかの有効な社会整備が出来ることになると信じている。
そのような訳で、狙いを定めて聖金曜日の礼拝の様子を観た。スイスのヴィンタートュールの改革派教会の礼拝をスイス放送が制作して独第一放送に放送権を売ったものである。
スイスの改革教会は、フランス語圏はカルヴァン派、ドイツ語圏はツヴィングリ派と言われているが、この場合は後者の影響下にあるのだろう。それを語るのか、聖金曜日の聖体拝領が興味深かった。その聖体自体が象徴であるとすると、門外漢でも納得出来るのだが、はたして、それは人類の孤独と個人的苦悩と言葉の無効性と音楽をテーマとしていると言う。
小粒に拵えられた新教式のパンが籠に入れられてそれがベンチの端から端へと配られ信者の手によって回される。そして、大きな聖杯がやはり同じように回し飲みされる。そして減ってくると、そこにさらに漏斗で注がれるのである。キリスト教の伝統を持つスイス有数の都市にしては、60人程度の教会はかなり小さく老人や女性が主となっていた。
さて教会は、今回の放送で契約上、一銭も貰っていないと発言している。スイス放送が制作権料として、ドイツにどれだけ要求したかは判らないが、牧師は放送のためにスイス訛りの高地ドイツ語を折角使って説教したのにと書かれている。
些か音楽も無効であったが、どのみち説教の意味合いも、募金などの連帯活動が伴なわなければ無効であるのだろう。
晩には、新聞で偶々気がついた独第一放送の連作「シベリアから日本へ」の第一回放送を、背中を向けてちらちらと観た。カムチャッカ半島の美しい自然を背景に、遊牧を続ける部族の年金生活者や森林労働者、ペンション経営者、オートドックスの神父、運転手、水兵や街道のスタンドで露天を出す女達などを扱っていた。黒澤監督作の『デルス・ウザーラ』に似た親爺さんが、朝鮮族などの様々な人種に混ざって良い味を出していて、主役の位置を占めていた。
そこで踊られていた民族舞踊や衣装も興味深かったが、連休中の復活祭二日目の月曜日に放送される、第二部の予告編に映っていたアイヌ民族の様子があまり見慣れない顔つきであるのにも興味を引いた。こうしてみると、モンゴル人からエスキモーや北南米インディアンまであまりにも人種が違うのに気がつく。極東におけるそれだけを観察しても、中欧におけるベルギー人やオーストリア人との人種差よりも、想像以上に遥かにそれの方が大きいような気がする。
「これですかね」
http//www.ndrtv.de/vonsibiriennachjapan/index.html?」、
カムチャツカ、千島列島、サハリン、そして、北海道・函館まで。文字では分からないので、写真とビデオで楽しんでおります。確かに隣村でも人の表情がずいぶん異なります。こういっては何ですが、やはり、欧州(もちろん、コッチの国も)とシベリア地方では風土というのか、生きる厳しさがまったく違うということなのでしょうか。のっぺらではありませんね。実際の映像を是非、見てみたいものですね。(受信料拒否中ですが)それでは、また。
どうも実は敢えてではないかと想像します。やはり第二部は北方領土からの取材の様ですから、中立性を失いたくなかったのでしょう。
決して政治的な番組では無いですが、二部も楽しみです。よって、DVDも既に出ていますが、近々NHKでも流れると予想します。
スイス訛りの高地ドイツ語?
スイスは公用語だけでも10以上と聞いていますが、それぞれ訛りがあるのでしょうか。
息子のいるチューリッヒ(会社はジュネーブ)はフランス語らしいですが、スイス訛りのフランス語ということになりますね。
フランス語地域での、単語としてのスイス語は良く判りますが、イントネーションはある程度想像出来ても私自身は判りません。また反対にフランス共和国には基本的に訛りは無いと言われても、サヴォアなど山岳部は気質から来る雰囲気が大分違うとは思っているのですが、それ以上にあるかどうかですね。もともとは、スイスロマンド語があったようです。
ただフランス語圏のジュネーブからローザンヌ、マルティネー・エヴィアンにかけてはレマン湖を挟んで比較的解放的な地形なので、あまり地方文化を感じることは少ないです。
それに比べドイツ語圏のスイス訛りは、少なくとも五種類ほどは存在しています。ドイツ文字の正文法の問題があるのか、部族問題なのか。
チューリッヒのネイティヴ言語はアレマンドイツ語で、ベルンやバーゼルと異なり、フランス語が身についていない人が多い。私のチューリッヒ出身友人でも片言フランス語でフランス語圏でも教鞭をとっています。
ですからチューリッヒ近郊で完璧なフランス語を話す人は大抵スイスロマンドの出身者です。
としますと、英語は全く通じないのですね。ドイツでは英語通じて、フランスでは駄目。
それにしましても狭いスイスにそれだけの言語があっても混乱しないのが不思議です。スイスの歴史にもよるのでしょうか。
仕事以外でも使える人が多いのはオランダを初めとする小国です。フランスもドイツと実際は変わらないのですが、ドイツ人のように使いたがりが少ないのでしょう。
スイスの場合は方言や言語で出身地が特定出来れば、大抵はお互いに合わすことが多いようです。つまり二ヶ国語目でなんとか通じる。ですからスイス人同志の英語の会話は聞いた事が無いです。
しまいにはそのスイス人はご自分でフランス語とドイツ語で交互に言い換えていましたね(爆)
その人はジュネーブから来た方でしたので、まさにロマンド出身者ですね。ドイツ語より英語の方がややスムースに使える様子でしたから、私のドイツ語はかなり迷惑だったと思います。
その点英語は結構便利と言うのがありますね。