2006/10/24(火)
★≪ある「完全な音楽家」の肖像≫マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの 音楽之友社 を
読んでいます。
今回はその中から、興味深いいくつかのお話です。
作曲家オリヴィエ・メシアン(1908~1992)について、「私(ロジェ)が、パリ音楽院の学生だったとき、
彼も学生でした。
オルガンのクラスでは、同級生で、『前奏曲集』の初演をはじめ、彼の多くの作品を演奏しました。
『前奏曲集』は、私に捧げられています」
「メシアンは、ポール・デュカ(「魔法使いの弟子」で知られている作曲家、日本ではデュカスともいう)の
クラスでした」
「デュカは、音楽様式に関して、妥協を許さない人で、作品を書いても、その多くを破り捨てていました。
自己への批判精神が大変に強く、生徒にも様式に関して、厳しいものを求めていました」
「本音を言えば、個人的には私(ロジェ)は、デュカの生徒になりたかった。彼は素晴らしい教師でしたからね。
しかし、私はビュセールのクラスに入りました。なぜなら、私はポール・ヴィダルの生徒だったからです。
ヴィダルが退官することになり、ビュセール(1872~1973)がその後任となったためです」
(ちなみに、ビュセールは、池内友次郎先生の師でもあります)。
★デュカについては、大ピアニスト・アルトゥール・ルービンシュタインの伝記に、つぎのような逸話が
出ています。
ルービンシュタインは、少し有名になりつつあった若い頃、周囲からちやほやされ、ピアノの練習もせず、
パリで放蕩三昧の毎日を過ごしておりました。
ある日、デュカは、カフェで酔っ払っているルービンシュタインの首根っこを捕まえ、デュカの家まで
連れ帰ったそうです。
そこで、ルービンシュタインはデュカから懇々と説教されました。
それ以来、心を入れ替え、練習に打ち込むようになりました。
“この説教があったからこそ、大ピアニストへの道が開けた”と、いつまでも感謝していたそうです。
★デュカには、『ラモーの主題による変奏曲と間奏曲、および終曲』(1903)という、素晴らしい
ピアノ独奏曲があります。
ブラームスの『ヘンデルの主題による変奏曲』に比肩しうる曲です。
日本のピアニストがあまり弾かないのはなぜなのでしょうか。
★ロジェ先生「メシアンは、ローマ賞は絶対に取れないだろう、と決めてかかっていました」
「彼は独創的過ぎたのです。彼は、あまりに傑出しすぎた個性で、他のコンセルバトワールの面々とは
違いました。
その彼がいま、コンセルヴァトワールで教えているのです」
「メシアンは、若い作曲家と、向き合うときに画一的な態度で接することはしません。
彼は、和声と音楽分析を教えていますが、音楽分析のクラスは、彼を念頭において創設されたのです」
ちなみに、ドビュッシーはローマ賞をとりましたが、ラベルは受賞できず、そのことが“事件”に
なったそうです。
★また、ロジェ先生は、ピアニストのマルグリット・ロン女史についても、一言おっしゃっています。
「ロンについては、鮮明な思い出がありますが、それは良いものではないので、話さないほうがいいでしょう」
ラベルも、ロン女史について『ピアノの下手なあの人』と言っています。
また、ロン女史は、ガブリエル・フォーレとも不仲だったと、伝えられています。
ロン女史の残した書物は、大変貴重で、私も参考にしておりますが、一応、上記のことを念頭に
入れておくほうがいいでしょう。
★≪ある「完全な音楽家」の肖像≫には、先生と同じころ滞日していた、マサビュオという
フランス人地理学者が友人のロジェ先生との交友を綴った想い出もあります。
“日本人は細部にこだわりすぎる”という感想から、
ロジェ先生は「私の生徒たちは、ひとつの楽譜(ソナタであったり、コンチェルトの一楽章であったり)を
全体として考えること、その全体構造を把握することができないの。
彼らはいつも小さいことにのめりこみ、作品全体の仕組みに無知なのね。・・・
そこで、作品の意味を本当には理解しないままで演奏する、という結果になってしまう」
「ある人の演奏が音楽的でないと言いたいとき、彼女は『ああ、彼(彼女)は全部の音を弾いている』と
いうのが常だった。
それは、バラバラとまではいわないが、その演奏が感受性に欠けており、機械的なだけだということを
意味していた」
★「ある日、ある名の通ったピアニストが弾く、著名な日本人作曲家のピアノ協奏曲を聴きに行ったとき、
帰りの道すがらに彼女曰く
『うちのトイレの水を流す音かと思った!』」
★私は、この曲と演奏家について、なんとなく想像がつきます。
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