不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

市役所襲撃ガソリン男

2012年04月27日 | 議会&役所

24日、僕が住んでいる藤井寺市の市役所の中で事件があった。
市役所5階の人事課の近くで、男がガソリンをまいたのである。

500㍉リットルのペットボトルに入ったガソリンを机や床にまき散らし、
近くにいた男性職員の目に軽いけがを負わせ、
さらにライターで火をつけようとしたそうである。

幸い近くにいた男性職員が男を取り押さえ、放火は防ぐことが出来た。

しかしまあ、男は75歳というから結構お爺ちゃんなのだが、
とんでもないことをやる。最近の年寄りは過激なのが多い。
ニュースで各地で起きるさまざまな殺傷事件を見ていると、
加害者の年齢が、驚くほど高いことがこのごろ、よくある。

先日のこのブログでも、堤防をジョギング中の僕の目の前で、
老人2人がつかみ合いのケンカを始めた…という話を書いた。

元気な老人であることは慶賀すべきだけれど、
こんな元気は、はた迷惑なだけである。

75歳の男は、なぜ市役所へガソリンをまいて放火しようとしたのか?

新聞によると、この男は市から生活保護を支給されていたのだが、
犯行の前日、男が人事課を訪れて生活保護を受け始めた当時の、
福祉課の元職員の住所を聞いたところ、人事課が断ったという。
どうも、それに腹を立てて市役所への放火を企てたそうだ。

元職員の自宅の住所を、人事課が教えるはずがないじゃないか。

集団登校の列に車を突っ込んで児童たちをはねた18歳の少年の父親に、
被害者の住所・氏名・電話番号を渡したどこかの警察じゃないのだからね。

そんなことで、藤井寺市役所はもう少しで炎に包まれるところであった。

お役所に勤めていたら、毎日平穏でしょうし、気楽でよろしいなぁ…
…と、藤井寺市の隣の松原市の市役所に勤めていた僕は、
いろんな人から、よくそう言われたものだった。

果たして平穏なのだろうか…?
気楽なのだろうか…?

否…である。
市役所の職員といえども、平穏無事な毎日なんて、送れるわけがない。

むしろ役所には、トラブルが尽きない。

細かいことを言えば…
毎日のように苦情を言いに来ては何時間もネチネチと粘る。
その中身は、本質的なものではなく、職員の揚げ足取りとか、
国の政策に対する不満とか、遠い昔の不快なできごとを蒸し返すとか…
そんな「市民」も結構いるのである。
(むろん、ほとんどは善良な市民の方々であるが…)

本当に困っている市民であれば、職員は親身になって対応する。
だが、職員は絶対に反撃はしてこない…ということを計算ずくで、
あれにもこれにも言いがかりをつけ、延々とわめき続けられては、
業務に大きな支障が出るし、ほかの市民の方々にも迷惑がかかる。

ドカンとカウンターを叩いて大声を出される…なんて日常茶飯事なのだ。
ひとこと意見を言うとまた突っかかるので、職員はぐっと耐えて聞いている。

 

「ええい、うるさい。出て行け~」
と言えたらどれだけスカッとするか…と、何度思ったことか。
内緒ですけどね…。

いつか産経新聞に、よく図書館を利用する記者のコラムで、
「最近図書館で、市民がささいなことで職員にくってかかる光景が気にかかる」
と書かれていたこともある。
静かで平和そのもののように見える図書館ですら、そうなのだ。

僕も昔、そういう「市民」にどなり声で因縁をつけられ、
あまりのしつこさに、黙っていることができなくなり、
「何のためにそんなことを自分に言うのか」
と、ひとこと言うと、暴力をふるわれ、警察を呼んだことがあった。

しかしまだそういう市民はマシな部類だろう。
それ以上に、ある種の業者たちは、悪質である
行政や職員に不当な要求を突きつけることもしょっちゅうある。
気に入らなければ職員を脅す…なんて朝飯前の所業である。

こうした話の中で忘れられないのは、今から10年近く前に起きた事件だ。

栃木県鹿沼市で、廃棄物の担当をしていた57歳の市職員が、
廃棄物処理業者の要求を拒んだため、暴力団関係者に殺害された。

痛ましすぎる事件であった。

それ以来「行政対象暴力」が社会的に注目されるようになった。

まあ、そんな市民や業者はむろんごく一部だけれど、そのため、
善良な市民の人たちにもいろんな迷惑をかけることになる。

学校の先生や市町村職員にうつ病患者が多いというのも、
公務員というきわめて我慢を強いられる職業であるゆえ…かも知れない。

とにかく地方公務員は、国家公務員のように優遇されているわけでもなく、
地元のさまざまなトラブルに対応し、ストレスが溜まりやすい職種なんである。

しかしまあ、職員もストレスが溜まるからといって、
発散の仕方を間違ってはいけないですけどね。

こんな話を、いつか新聞で読んだことがある。

奈良県の高取町という町の議会を傍聴していた男が、傍聴席から、
「こらぁ、しっかりせい」
などと、大声でヤジをとばしまくり、議事の進行が何度も妨げられた。
議会のあいだ中、そんな調子でずっと騒ぐので、議長は何度も注意をした。
それでも、
「議長、しっかりせんかい」
と、ヤジをやめなかった。

町の職員がそのヤジ男をよく見ると、知っている顔だった。
…そしてヤジ男は、新聞に載るハメになったのだ。

ヤジ男は高取町の隣にある御所市の職員で、しかも環境衛生部長だった。

この部長は体調不良を理由に市役所を休み、隣の高取町議会を傍聴に来て、
日頃のストレスを発散したかったのか、「猛烈ヤジ男」と化したのである。

御所市ではこの部長の行為を、
「地方公務員法の信用失墜行為に当たる」と判断し、
減給の懲戒処分にした、と発表したことが新聞に載った。

これなどは思わず笑っちゃうニュースですが、
この部長は日頃から自分の市の議会に不満があったのかも知れない。
その他さまざまなストレスにも見舞われていたのだろうと推測できます。

どこかでウサを晴らしたい…との気持ちは、わからなくもありませんが…

しかしまあ、こういうストレスの発散法ってのは…ねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松原市議会の “変身”

2011年08月31日 | 議会&役所


どの新聞も、野田新首相に関連した記事で占められているが、
僕にはそれ以上に関心深い記事が、後ろのほうの紙面にあった。

今日の新聞の地方版、僕のところは「大阪河内版」なんだけど、
この紙面の一番下の段に、小さく載っている記事に注目した。

「松原市議会正副議長決まる」という見出しの記事だ。

昨日、大阪府松原市で開催された臨時市議会で、
新しい議長と副議長が決まった…ということが、
ひっそりと、小さく報じられていた

昨日の午後、衆参両院で首相指名の投票が行われていたころ、
大阪府の片隅の松原市でも、市議会議長を決める投票が行われていた。

地方議会の正副議長の任期は、地方自治法では4年であるが、
日本全国ほとんどの議会は、申し合わせにより1年交代と決めている。

まあ、議員になった限り議長になりたい、というのは人情であろう。
議長になったら、地元の人たちにも顔向けが出来る。
議員を何年務めても議長にならない(なれない)議員であれば、
地元の支援者から「なんで議長になられへんねん」と責められたりする。
だから、なるべくなら、一度でいいから議長をやっておきたい。

議長の任期を法律どおり4年にすると、順番がなかなか回ってこない。
そこで、申し合わせで、1年で交代しよう、という約束事を作るのだ。

でも、自分が議長になりたくても、他の議員の協力がいるので難しい。

だから、議長になれるのは大きな会派(あるいは党派)に属する、
ということがまず必要だ。いくら能力があっても、数がなければダメ。
逆に能力がなくても、大きな会派で何期か過ごすと自然に順番が回ってくる。
つまり「人格・識見において議長にふさわしい人」を選ぶというより、
大きな会派の中で古い者を順番に議長に選んで行く、というものなのだ。

松原市といえば、僕が38年間勤めた市である。
そのうち、26年間を市議会事務局の職員として過ごした。
だから退職した今でも、松原市議会と聞けば身体がピクッと反応する。

そして昨日臨時市議会があって、そこで新しい議長が誕生したわけだが、
職員の方からメールで「速報」をいただき、状況を知ることができた。

その速報に接して、今回は大いに驚いた。

今回の新議長さんは、先に述べたような大きな会派の議員ではなかった。
わずか2人しかいない少数会派の議員だったのに、議長に選ばれたのだ。

しかもその人は、僕と今でも親しくおつき合いをいただいている方だ。
「仲間」としてこのブログにも何度も仮名で登場してもらっている。

僕の知るところでは、この人は、19人の松原市議会議員の中でも、
最も良識に富む人で、党利党略に偏らず、人を愛し、自然を愛し、
地域を愛する人で、多くの人々から尊敬され、敬愛されている。
それはもう、とても人望の厚い議員である。

読書好きで、登山好きで、お酒好きでもある。
僕の在職中も、職員の間で最も評判の高い議員だった。

まさに今の松原市議会で、最も議長としてふさわしい人である。

夕方、その新議長さんの携帯にお祝いの電話をかけた。
「ありがとう、ありがとう」と喜んでおられた。
その弾んだ声を聞いて、僕まで気持ちがワクワクしてきた。

いかに優れた人物であっても「数」がなければ議長になれない…。
これまで、そういうやりきれない構図があったけれど、
今回、見事にその「常識」が覆された。

量より質。人数力より人間力。

わかりきったことだけど、いざ実行するとなると、むずかしいものである。

どういう経緯でそうなったかは、その場にいなかったのでわからないが、
今回の議長選挙は、旧弊を打ち破った意義のあるものだったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災対策副本部長がゴルフ

2011年05月11日 | 議会&役所

今年2月ごろの話だけど、僕が以前勤めていた松原市議会で、
市議会議員の不祥事が問題になり、そのことが新聞に載った。

それは、某ベテラン議員が、議会の委員会を欠席して、
ゴルフ旅行に出かけていた、ということが発覚し、
不謹慎だと非難を浴びた…というような記事だった。 

この議員は、過去に議長経験もあり、もちろん僕もよく知っている。
「あの人のやりそうなことやな」 と、新聞を見た時、僕は思った。

議員としての公務の大切さを、あまりわかっていない人であった。

この議員が議会運営委員長をしているとき、議会事務局の僕に、
自分は何日から何日まで、どこそこへゴルフに行くんで、
議会運営委員会の通常の日程を、変更してくれないか、
…という要請があったとき、僕は、
「何を言うてはりますねん。 ゴルフで委員会の日程変更なんか、あきまへんで」
と言って、断ったことがあった。

議員という人種はなぜこんなにもゴルフが好きなのか、不思議である。

 ………………………………………………………………………

議員とゴルフといえば、まさに今、この問題に触れなければならない。

あの、石井一という民主党の副代表には、はらわたが煮えくり返る思いだ。

日本が未曾有の大災害に襲われ、混迷をきわめているこの時期に…
「日本・フィリピン友好議員連盟」 とやらでフィリピンへ行き、
そこで現地の経済人らとゴルフをしていたというではないか。

石井一は、今回の東日本大震災対策本部副本部長なのである。

あきれてものも言えない…とはこのことだ。

万を超える死者を出した災害で、数多くの肉親を亡くされた遺族の皆さんや、
つらい避難所生活を強いられている人々の気持ちを、まさに踏みにじる行為だ。
よくもまぁ、今、こんな時期に、ゴルフをやろう … という気になれることだと思う。

国会議員なんぞに国を任せることはできない … と言われて当然だ。

こんな低俗な人間が震災の対策本部の副本部長とは、
いかに民主党の政府首脳がアホ・バカたちの寄り集まりか、
これひとつみても、十分にわかろうというものだ。

石井一は、現地で取材しようとする報道陣に向かって、威圧的な態度で、
「内緒で来とるんやから、撮るなよ。 つまらないことを報道するなよ」
などと、ぬかしておった。 
そのシーンがそのままテレビニュースに映し出されていた。

各方面から非難を浴びた石井は、「迷惑をかけ議会人として反省している」
などと謝罪を口にして、震災対策副本部長は辞任すると表明した。
しかし、辞任表明させる前に、党の上層部は石井を即刻クビにすべきだった。
政治家たちの、あれもこれも … まことに情けない連中ばかりである。

たが、そのあと石井の言ったことがまた腹立たしい。
「ゴルフだったら悪いのか…? じゃぁ、テニスだったらいいのか…?
 水泳だったらどうなんだ。 いいのか…?」 

自分は間違ったことはしていない、という恐るべき開き直りであり、
反省など、これっぽっちもしていないことは誰の目にも明らかである。

そして、民主党の副代表の方は辞めないという。 

しかしこれは石井ひとりの問題ではないだろう。
 
こういう人間が、現に存在するということは、
政府首脳たちは、大なり小なり、今回の大災害に対して、
この程度の認識しかないのではないか、と思いたくなる。

本当に、この民主党という組織は、いったいどうなっている…?

 ………………………………………………………………………


5月8日の朝日新聞に、主な被害状況が掲載されていた。
各被災地の死者、行方不明者、避難者の数、住宅倒壊数などである。

この数字は各県の発表であり、実態の不明なところがまだまだ多い。

たとえば、宮城県の南三陸町の場合である。

元々この町に住んでおられた町民約1万8千人のうち、
約5740人が避難。 508人が死亡。 約660人が行方不明 …とある。

この数字を見ていると、町民約1万8千人から、避難者、死者、
行方不明者の合計数を引いても、まだ1万1千人以上の数が残る。

この人たちは、どこへ行ってしまったのか…?

政府は相変わらず原発問題一辺倒だけれど、
こういう被災地の実態の調査・解明に、もっと力を入れてほしいと思う。

それにしても、こんなときに震災対策副本部長が外国でゴルフとは…

重ねて言うが、信じられないような自覚のなさである。
歳費 (議員の給料) をさっさと返して国会議員を辞めろ、と言いたい。

国民の大切な税金がドブに捨てられているようなことを、
このまま見逃しても良い、な~んてことは、誰も思わないはずだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議会も首長も…

2010年09月23日 | 議会&役所

きょうは秋分の日である。せっかくの祭日だが…
早朝から外は豪雨で、ときどき
雷が鳴り響き、ピカッと稲妻が光る。

幼稚園が休みだから4歳のモミィが「なんで休みなん…?」と聞く。
「祭日やからね」と言うと、「さいじつってなに…?」とまた聞く。
「それはね、土曜と日曜以外にも休みがあって、それを祭日と言うんだよ」
と、答え、「こんどの祭日は、秋分の日というんだよ」と説明する。

モミィはさらに、「しゅうぶんのひって、なに…?」とたたみかけてくる。
「う~ん、秋分の日というのは、…う~ん、う~ん」と僕は唸りながら、
「お日様が出ている時間と、お月様が出ている時間が同じになること」
などと、いい加減な、しかし、必死に考えた末の答えをひねりだす。

「なに…? おひさまと、おつきさまがどうしたん…?」

あぁ~、このごろはモミィの「○○って、なに…?」「なんで…?」の責め苦に悶え悩む毎日である。何か、幼児に説明するための国語辞典って、ない?

 

  …………………………………………………………………………

さて、僕が長年勤めていた大阪府の松原市議会で、先般、市議会議員の選挙が行われ、新たに19人の議員が当選し、何人かの新人議員も当選してきた。

この何十年間というもの、すべての市議会議員と顔見知りだったけれど、今回から、まったく知らない市議会議員が出てきて、僕の仕事もますます過去のものへと遠ざかって行く。

そして、一昨日の21日に臨時議会が開催され、議長や副議長のほか、いろいろなポストの役員が決められた。

それを見て、一番驚いたのは、3つある常任委員会の副委員長のポストを、すべて今回初当選してきた1年生議員で占められていた…ということである。

副委員長といえば、委員長が都合で欠けたときには委員長をするという大事な役割を担うポストである(ただ、日陰の存在ではあるけれど)。

委員長は会議を仕切るだけの知識と経験が必要だ。それを、ほんの1週ほど前に初めて議員になったばかりで、右も左もわからぬ人間が、どうして出来るというのだ。まさか新人たちが、「ぜひ私を副委員長に」と、名乗りを上げたわけではあるまい。
程度の低いベテランか中堅議員が各会派に根回しをして「副委員長は日陰の存在で、何の実質的なメリットもないので、新人議員に押し付けるということに決めよう」みたいな妙な申し合わせをしたに違いない。これから、そういう慣例を作ろうというつもりかも知れないが、まったく、常任委員会というものを頭からナメきった、無知で低級な役員人事というほかはない。

もし、「新人議員さんに勉強してもらい、責任感を持ってもらうやる気を出してもらうための抜擢だよ」…というのなら、なおさら勘違いも甚だしい。委員会は、子どもの塾ではない。真剣勝負の場であり、おもちゃの刀で「試し切り」をしてみるところではないのである。

何より、議会の誰もがそういうことを「いいこと」だと思って、全員が無批判に「右へ習え」と決めてしまうところが危うい。

こんな調子では、松原市議会は、先行きが大いに不安である。

松原市議会も、議員の新陳代謝が激しくなり、それ自体はとてもいいことだけれども、やはりこれも、中身による。

僕の目から見て優れた人材がすっかり少なくなり、代わりに、知識もないのに権威だけをふりかざすような中途半端な人物が中心になって、議会の質を落としていくという嘆かわしい現象が起こりつつある。市職員や松原市民のみなさんは、いま、そんな松原市議会に対して、厳しい視線を向ける必要があると思うのだ。

 ………………………………………………………………………………

ところ変われば品変わるで、逆に市議会を完全に無視したアホ市長がいる。
いつか書いたことがあるが、鹿児島県阿久根市の竹原市長である。

議会を招集する義務がある市長が、議会を開かず、勝手に自分で決める「専決処分」ですべてのことを決めていく、という、聞いたこともない暴挙に打って出て、しかもそれが市民の支持を受けてきたというのだからタチが悪い。

なぜ市民に人気があるのかといえば、議員や職員は優遇され過ぎているとし、バッサバッサと議員報酬、職員給与、ボーナスの額などを大幅カットし、自分に逆らう職員は、クビにする。そういうことが、「公務員嫌い」の市民の喝采を浴びたということである。その意図はいい。「官民格差を是正する」といううたい文句も立派である。しかし、だから暴走してもいい…ということにはならない。市民に迎合し過ぎなのである。

それを独断の「専決処分」で次々と処理していくという手法が大きな問題なのだ。議会の議員も、市長と同じように選挙で選ばれているのだから、まさに市民の代表である。それを無視するのは議会制民主主義に反することは明らかで、これはもう話にも何もならない。よくこんなことがまかり通っているなぁ、とずっと思っていた。

しかし今月、竹原市長のリコール(解職請求)を求める市民の署名が有権者数の過半数に達し、解職の是非を問う住民投票が実施される見通しとなった。まぁ遅すぎたけれど、阿久根市民の良識の一片を示したものと言える。

そんなとき、今回新たに総務大臣に就任した片山善博さんは、阿久根市長の専決処分について、専決処分というのは災害時など議会を招集する間もない時に緊急の案件があった場合にやるもので、その要件も満たしておらず、そもそも通常の時から議会を招集もしていないのだからこれも違法であり、違法な状態で行った専決処分だから、根っこから違法だ、と述べた。実にスッキリした論理である。これを、前の原口総務相がなぜ言えなかったのか…と、あらためて思う。

片山さんは「朝ズバ」で、あのつまらない相槌を打ちすぎるみのもんたを相手にしながらも、実に視聴者にわかりやすく、丁寧な解説をしてくれていた。今回の竹原市長に対するコメントは、さすが~、と感心するほかない。

竹原市長もそうだけど、「住民に人気がある」というだけで、それを嵩にかけて議会などを威圧する…という手法は、名古屋市の河村市長や、あるいは少し意味は違うが大阪府の橋下知事も、似たところがある。
法政大学のある教授は、「(この2人は)世論に支持されているおれたちの言うことを聞け、という面があり、議会に説明を尽くす首長の責任を果たしているのか疑問」と、新聞に意見を寄せていた。

宮崎県の東国原知事もいい加減な男だ。
あれだけ「宮崎をどげんかせんといかん!」と、郷土の発展に命を懸けるかのごとき発言で知事に当選しておきながら、1期4年でさっさと宮崎を捨てて中央進出をうかがっている。まあ、淫行で逮捕されたくらいしか目立った「実績」のないそのまんま東のような三文タレントに期待するほうが間違っているけどね。

選挙の投票は人気投票ではない…と言っても、それは所詮、理想論である。
現実は、テレビで有名になって票を取れるという人間たちがどんどん政治の世界に出回っている。資質・能力と関係なく、である。

まことに嘆かわしいことではないか。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アホの市長は目立つ

2010年06月01日 | 議会&役所

地方議会議員はアホであっても目立たないけれど、市長がアホなら目立つ。
理由は簡単である。
地方議会議員は一つの自治体に何十人(またはそれに近い数)が存在する。
「玉石混交」という言葉があるが、議員たちの個人レベルもさまざまである。地域のために日夜奔走する熱心な議員もいれば、箸にも棒にもかからないアホ議員もいる。しかし人数が多いのでごちゃまぜになり、アホでもなかなか目立たないのである。

その点、市長はひとりだけだから、アホはよく目立つ。

鹿児島県阿久根市の竹原信一という市長がその典型例だ。

この市長の言動については、数年前からなにやかやと報道されてきているのでご承知の方も多いと思うが、僕も長く公務員生活を送って来たが、この竹原市長ほど私的感情を前後の見境もなく撒き散らし、かつ身勝手な理屈でやるべき義務を果たさず、市政を混乱させ続けている市長を、これまで見たことも聞いたこともない。しかも彼が、住民から人気があるというのだから、余計タチが悪い。

竹原市長は2008年夏に初当選したが、選挙活動中から自分のブログを更新していた。これは当時、公職選挙法に抵触する可能性があったが、それがその後の市長の進む道を暗示していたようでもある。

2009年1月のブログで竹原市長は「阿久根市議会で最も辞めてもらいたい議員は?」と題して市議の不人気投票を実施した。

これを新聞記事で読んだ僕は、思わず笑った。
最初は面白い市長だな~、と思った。

僕自身、38年間の市役所生活のうち26年間を議会事務局で過ごしているので、イヤな議員も大勢見てきた。不人気議員の投票なんかしたら面白いやろな~、と思っただけではなく、実際にこっそり「出来の悪い議員ベスト5」なんてものを作って、親しい職員に見せてゲラゲラ笑っていた時期もあった。

しかし、このあと、竹原市長の言動は、どんどんエスカレートする。

市職員の給与が高額であるとのことで、市長は各課ごとに職員の給与明細を掲示したところ、ある職員(係長)がそれをはがした。一部の市民が職員に無理難題を押し付け、最後は掲示板を指差し、「お前ら、月給泥棒だろ」などと悪態をつき、円滑な説明も出来なくなるなど、職務に支障が生じる…とのことで、はがしたのであろう。

給与が高ければ、減額する方向に持って行くの通常の方法だ。
公務員の給与が高い、減らすべき、というのはまともな主張である。

しかし…やり方というものがある。
市長がいきなりヒステリックに叫ぶと、職員の不安感は増幅する。
一方、市長の職員・議員に対する攻撃的姿勢は、市民にとっては心地よい。

2009年2月に市議会は市長不信任案を可決すると、市長は議会の解散権を行使して議会は解散。出直し市議選が行われたあと、新しく構成された議会は、再び市長の不信任案を可決し、ここで竹原市長は自動的に失職した。

しかし、出直し市長選挙に出馬した竹原市長は、また当選するのである。

職員や議員をボロカスに言う竹原市長は大衆受けをするのだろう。その市民の絶大な支持の元で、市長はいよいよ増長する。

掲示物をはがした係長を懲戒免職する。つまり、クビである。
係長の訴えを受けて鹿児島地裁がクビを取り消すよう判決を出す。
しかし、市長はブログに「中身のない判決」と書き、従わなかった。
徹底的に根に持つタイプ…と言えよう。

ブログで市長は今度は裁判官月給一覧表を揚げ、「おカネ持ちが判決」と書き、いかにも素人受けのするような「義憤」をぶち上げている。

そのブログで、市長は今度は調子に乗り過ぎて非難される。
2009年12月のことだ。
「高度医療のおかげで、障害者を生き残らせている」
と書いて、大きな問題になった。

議会は当然竹原市長を批判するが、悲しいかなその声には威勢がない。
はっきり言って、まるでだらしない議会なのである。

市長は「改革断行」のもとに、さらに強引な実力行使が目立つようになった。
言うことを聞かなければクビにする、と職員を脅し続ける。

自分は選挙で勝つ、という絶対の自信を持つ市長は、あらゆることに対立的姿勢を鮮明にし、反市長派排除のために議会を挑発し、市役所は重い空気に包まれ、市民たちには疲れが見えているという。

さらに…
自分の意に沿わない報道をする新聞・テレビのカメラが議会の傍聴席に入ると、
「あんなのが入っていれば、もう議会なんて出ないもんね」
ということで、竹原市長は本会議への出席を拒否し続けているのである。
そして、議会に諮らずに自分で勝手に「専決処分」を行う。

「専決処分」とは、ある案件を決定したいのだが、議会を開く時間がないときにやむを得ず市長が専決で行い、次の本会議で議会に報告をするという制度である。何でも専決をしていい、というわけではないのだ。それを議会に提案もせず、次々専決をするとは、それこそ、独断と偏見であり、議会無視、住民無視そのものではないか。

本来の政策を論じる場に出ることを拒否し、感情の向くままにルール違反を平気で繰り返すことが、住民福祉の向上につながるはずがない。

普通では考えられない行動だ。
いやしくも住民の代表として選ばれてきた議会が本会議を開くというのに、市の総括責任者である市長が出席しない(それも感情的な理由)というのは、にわかには信じ難いほど幼稚である。誰か、諌めたり進言したりする人間はいないのか?

「改革はいいけれど、混乱はもうたくさん」と、市長をずっと支えてきた後援会幹部も、最近はうんざり気味だそうである。

朝日新聞鹿児島総局の三輪千尋さんという若い女性記者が、先日「記者有論」というコラム欄でこう書いていた。

竹原市長は、信念を貫くつもりなら言葉を尽くし正々堂々と戦ってほしい。そうでなければ市民の心は離れていくだけだ。

繰り返し言う。アホの議員は目立たないが、アホの市長は目立つ。

阿久根市は、議会も市長もアホである、というのが本日の結論です。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松原市の正念場

2010年01月30日 | 議会&役所

昨日の昼、家で食事をしながら12時からのNHKニュースを眺めていたら、
「次のニュースです。大阪府の松原市で…」とアナウンサーが言い始めた。

テレビなどで松原市に関する報道が流れると、去年3月まで松原市役所に勤めていた僕は「えっ、松原…? 何があったの…?」と目がテレビに釘付けになる。たいていは松原市内で火事があったとか、コンビニ強盗があったとかいう話なんだが、この日のニュースは違った。松原市と業者の間で疑惑が生じている、という報道だった。これは、聞き捨てならない。

「松原市は、ごみの収集・運搬の許可を持たない2業者に対し、市内の事業所から出るごみを、隣接する大阪市平野区の焼却場へ持ち込めるよう便宜を図っていたことが明らかになりました」

つい先ほど行われたという記者会見の様子が映し出される。
市長や副市長、総務部長など、よく知っている顔が次々とアップで映る。
見ているうちに、急激に緊張してくる自分を感じる。

報道されたのは、つまりこういうことのようであった。↓

松原市は清掃工場(ごみ焼却場)が老朽化したことで、2002年に閉鎖した。
それに代わる新しい清掃工場を建設する予定であったが、地元住民の激しい反対で断念。隣接する大阪市平野区の焼却場に頼み込んで、ごみを搬入させてもらうことになった。

今回、無許可が明らかになった2業者とも、10年以上、あるいはそれ以上以前から、無許可であるにもかかわらず、松原市内の事業所(たとえば工場とか、病院とか)からごみを集め、当時の松原市のごみ焼却場に搬入していた。松原市の焼却場が閉鎖されたあと、今度は平野工場に搬入していた。

しかし、平野工場にごみを搬入するためには、松原市が認める搬入券というものが必要であった。もともと、一般廃棄物の収集・運搬の許可がない業者が、焼却場にごみを持ち込むことは、違法な行為である。にもかかわらず、松原市が搬入券をその2業者に渡していたということは、違法な行為への便宜供与である、ということになる。

業者は、各事業所からごみの処理代を得る。そして、松原市は、大阪市に対して、搬入券に記録されたごみの重量をもとに、焼却費を支払う。そういう仕組みになってる。

テレビの記者会見で、澤井宏文市長は神妙な表情で謝罪し、こういうことは二度と起こさないようにしたい、というふうなコメントを述べていた。

市と業者とのさまざまな因縁は、何十年も前から続いているようである。
去年の6月に当選してきたばかりの澤井市長は、戸惑っているであろう。

しかし、民主党が自民党に対し、「うちらは政権取りたてホヤホヤで、何も知らんがな。それまで、あんたら自民党がやってきたことのツケを払わされてるだけやがな」と言ってひたすら責任転嫁を繰り返すと、身もフタもない議論になってしまうのと同様で、松原市の今回の事案も、現在もその状態が続いていることについては、真摯な反省と、今後の素早い対応が必要であろう。今朝の新聞によれば、澤井市長は「不正を許さない職場風土の構築に向け、不退転の決意で取り組む」と、調査と再発防止を約束した…とある。
ぜひ、実現してもらいたい。

それにしても、この「何十年続いてきた」業者との関係…というのは、さまざまな問題を含んでいる。今回の件につき、これから松原市は調査委員会を設置し、市側に違法性の認識があったかどうかも含めて調査するということであるが、当然、担当職員たちの処分も視野に入っているのだろう。それはそれで、やらなければならないことだけど、たまたま、現在その部署にいる職員たちは、う~む、ちょっと気の毒だな~と、同情したりする。

物事がスムースに運ぶなら、事を荒立てることもない…というのは、事なかれ主義だと批判されるかもしれないが、成り行きとしてやむを得ない場合もあるように思う。現実は、行政マンとして命を賭けて職務に邁進する…
というのは、自分がその立場に立ってみると、恐ろしいほど難しい。
言うは易く、行なうは難し、である。

市の職員という立場は、1人や数人では、根本的な改革はできないのだ。

ある種の業者というのは、ヤクザ顔負けの凶暴な態度で、市役所へやって来て、周囲に響き渡る大声を上げて、市の職員を脅したり、聞くに堪えぬ悪態をついたりする。業者は、市の職員は大人しいし逆らわない、と見くびっているので、言いなりにならなければ頭ごなしに言葉の暴力を口汚く浴びせ続ける。言外に「言葉だけでは済まんぞ」という脅しもチラつかせる。

ここでひとつの事件を思い出す。

2001年秋、栃木県の鹿沼市で、環境対策部参事をしていた小佐々守さんという男性職員が、暴力団たちに連れ去られて殺害された事件である。

これは、廃棄物処理業者が、自分たちの言うことを聞かなかった鹿沼市役所の担当職員(小佐々さん)を、暴力団を使って殺害した事件であった。小佐々さんの前任者が、事実上、その業者に便宜を図ってきたらしいのだが、その前任者は、自らの罪の重さに耐え切れなくなったか、自殺をした。

こういうことが、実際に起こっているのである。
これと類似する殺傷事件も、あちらこちらで起きている。

ヤクザ顔負けの業者を相手に、これまで市が何十年と黙認してきたことを、今の、たとえば係長や課長が、「よ~し、悪を懲らしめてやる!」と個人で立ち上がり、「認められないものは認められないのだ~」と啖呵を切る…なんてことはずいぶん難しいだろうし、仮に闘っても、まさに蟷螂に斧…である。犬死さえしかねない。これはもう、一糸乱れぬ組織全体で対抗していくしかないのである。

過去から、市の組織そのものが業者の言いなりになってきたという、不幸な経過がある。何十年と根付いたものは、そう簡単にはひっくり返せない。

組織全体で、本気で立ち向かわなければ、変えることは出来ないのだ。課が違うからオレには関係ない…などと言っている場合ではない。市長以下、職員全体の足並みが揃わないことには、また業者につけ込まれるだろう。

今回の「発覚」は、これまでの市と業者との馴れ合いを絶つ絶好のチャンスでもある。今こそ組織が一丸となって対応する強固な土壌を作るべきだ。

澤井宏文市長のこの言葉を、もう一度ここに記しておく。

「不正を許さない職場風土の構築に向け、不退転の決意で取り組む」

言うは易く、行なうは難し…ではあるが、これだけは必ず実行してほしい。

  

 

 

 

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春旗びらきに招かれて

2010年01月21日 | 議会&役所

昨日、元職場であるM市役所の、職員労働組合の「新春旗びらき」に行ってきた。
「旗びらき」というのは、まあ、労働組合の新年互例会みたいなものである。

保育士さんたちで作る和太鼓サークルの、怒涛のように響く太鼓でオープニング。

植○執行委員長のあいさつに始まり、来賓の人たちのあいさつが続く。
今の世情不安定の中、今年はさらに労働者としての団結を深めていこう…
そんな感じで、激が飛ばされ、セレモニーが終わると立食パーティが始まる。

ゲストに招かれたバンドが、スターダスト・レビューの「木蓮の涙」を歌った。

 ♪ 逢いたくて 逢いたくて
   この胸のささやきが あなたを探している ♪

    
     

 
会場は、にぎやかな空気に包まれていた。

ところで、なんで10ヶ月前に役所を定年退職した僕が、こんな場所に来たのか。
しかも、市議会議員らと並んで、来賓の席にちょこんと座っているのである。 
もちろん、それには理由がある。

10日ほど前、昔から冗談を言い合ってきた植○君から久しぶりにメールが入った。
前述のように、植○君はいま、市職員労働組合の執行委員長をしている。

 「私にとって、執行委員長としておそらく最後の旗びらきになろうかと思い、
   のん様には是非、ご列席賜りたく、メールさせていただきました。
   どうかよろしくお願いします」

 「は~い。わかりました。出席させていただきます」

特に支持政党もなく、これまで別に組合運動もしてきたことはなかったが、
僕は、この職員労働組合とは、なんとなく昔から縁があった。

20代後半から30歳くらいにかけてのころのことだ。
ある時期、毎年のように僕はこの旗びらきの司会をしていた。

その頃、僕は友人の結婚式の司会を、よく頼まれていた。
それが市役所の中で知られることになり、職員労働組合からも司会の依頼が来た。
「ええよ」と、そういうことは、軽く二つ返事で引き受ける僕なのであった。

しかし、議会事務局で仕事をしていた僕は、そのことで、ある保守系の議員から、
「旗びらきの司会をしてるそうやが、お前は共産党員か?」
と嫌味を言われたこともあった。
「旗びらきの司会をしただけで、なんで共産党員やねん」
と言い返したかったが、もちろん、その頃はまだ若かったので、黙っていた。

そんなこともあったけれど、旗びらきの司会は楽しかった。

市役所の地下にあった薄汚い食堂で、毎年、当時の「旗びらき」は行われていた。

漫才の横山たかし・ひろしを呼んだこともあった。
「おぼっちゃまじゃ。すまんのう」の、あの漫才コンビである。
なにせ30年ほど前のことだから、当時彼らはまだ無名に近い存在であった。

たかし・ひろしは懸命に漫才をしているが、ガヤガヤとして誰も聞いていない。
みんな、食べたりしゃべったりするのに大忙しである。

そのうち、顔の大きい方(ひろし)が、
「お前ら、ええかげんにせい。漫才、聞いてへんのか。…箸を置け、箸を!」
そういって、本気半分、ギャグ半分で怒鳴っていたのを覚えている。

あぁ、あのころが懐かしいなぁ…

あれから、年月が経ち、僕もいつの頃からか、旗びらきとは縁遠くなった。
おそらく、もう20年以上、ここへは出席していなかっただろう。
それが、植○委員長のお誘いのおかげで、再びこの世界に舞い戻ったのだ。
しかも、退職してからである。

…感慨にふけりながら、目の前の旗びらきの光景を眺めていたら、
「おやおや、めずらしい。○○君じゃないか。 今日はなんで…?」
そう言って近づいてきたのは、僕が司会をしていた頃の執行委員長さんだった。

あぁ、これまた、お懐かしい~

この、昔の執行委員長さんは、僕が旗びらきの司会が終えたら、
「ご苦労さんでした」と、いつも、帰りに近くの居酒屋へ連れて行ってくれた。

「え…? あんた、退職したん…? わしも、もう、後期高齢者やもんなぁ…」
元委員長は、目尻にいっぱいシワを寄せて嬉しそうにビールを飲み干した。

そのあと、いろいろと懐かしい人たちがテーブルにやってきて話しかけてくれた。
ビールを注いでくれたり、樽酒を入れてきてくれたり…。
(いちおう、今、アルコールは自粛しているのであるが…)
それを、ちびりちびり飲みながら、6時から、8時過ぎまで楽しんだ。

自粛している、という意識があったゆえか、あるいは…
久しぶりに結んだネクタイが気を引き締めたのか、
酒を飲んでも、ピクリとも酔わなかった。


 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事業仕分けの次は議員仕分け?

2009年12月11日 | 議会&役所

事業仕分け…という言葉がすっかり流行語として定着した。

無駄をなくすためには思い切った改革が必要だ、と口先だけで言うのは簡単だ。
それを実行に移すことがなければ、いくら御託を並べても、何の意味もない。

そういう視点から見れば、少々荒っぽい作業であってもやむを得ないだろう。
あの事業仕分けは、あらゆる問題点を国民に提起しただけでも十分効果があった。

そこで思う。
仕分けは事業だけでなく、議員にも向けるべきである。
議員を仕分けするのだ。

何の仕事をしているのやらさっぱりわからない参議院議員を含め、
国会議員の先生方は、あれだけの数が必要なのか?  
歳費 (お給料) や諸手当も高すぎる。
あれこそ、大きな無駄ではないのか。 思い切って仕分けをして、リストラしろ。
と、まあ、そんなことを思うわけ。

そして、「仕分けの眼」 を、地方の議員に向けることも必要である。

市議会議員や町議会議員の選挙に一票を投じている住民たちは知っているのか?
自分たちが投票した議員が、日頃どんな活動をしているのか、ということを。

何の能力も適性もなく、ただ選挙に当選しただけ、という議員も案外多いのだ。

僕は在職中、四捨五入すると30年に及ぶ歳月を、市議会の事務局で勤めてきた。
その経験から言うのであるが、市議会議員はピンからキリの差が激しい。

身を粉にして市民のために心血を注ぐ議員は、過去にもいたし、現在もいる。
しかし、ハシにも棒にもかからない議員も山ほどいたし、今もいる。

「オレは議員やぞ~」 と、自分は人よりエラいのだと頭から思いこんでいるヒト。
葬式に姿を見せることを議員の最大の仕事だと思い、何よりも最優先するヒト。
市職員に無理なことを要求し、拒まれるとヤクザも顔負けの恫喝をするヒト。
逆に、職員に嫌われたら頼み事を聞いてもらえないと、職員にペコペコするヒト。
議会中ほとんど居眠っているヒト (確かに中身のない質問では眠くもなるが…)。
女性議員にセクハラまがいの言葉を平気で口にするヒト。
弱い者には傲慢だが、強い者には揉み手ですり寄る意気地のないヒト。
質問の最後の最後まで原稿棒読みで、議会を 「学芸会」 にしてしまうヒト。

近ごろの議員は、勉強というものをしなくなったように思う。 本も読んでいない。
だから質問をするにも、担当の職員の 「指導」 を受けて質問する議員が増えた。
質問のネタは、テレビで見たものばっかり、というヒトもいる。

そして…議員としてもっとも重要である健全な批判能力の、カケラもないヒト。

市長のやることを無批判に賛成するのなら、議会なんて、元からいらない。
といっても、ピント外れの批判では、批判にならない。
ぐたぐたと不平不満を並べて時間を浪費しているだけである。 
これもタチが悪い。 

プロの議員なのだから、良識に基づいた、きちんとした批判能力が必要なのだ。

僕は、それこそピンからキリまでの議会の光景を、イヤというほど見てきた。
議会も、もう少し、ピリっとしなければならない。

しかしまぁ、言うまでもないことであるが、尊敬すべき議員諸氏も沢山いる。

だから、事業仕分けと同様に、議員仕分けをやれぇ…と言いたいのである。  

まあ、どうやるのかが難しいところだけど、少なくとも選挙は仕分けにならないよね。

選挙は、議員としての能力とは別の要素で勝ち負けが決まるから。

 


 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっぱり気になる松原市

2009年07月02日 | 議会&役所

40年近く勤めてきた松原市役所を定年退職して、早くも3ヶ月が経った。
早いというか、ぎゃっ、まだ3ヶ月しか経っていないの…? というか。

「毎日、家におって、何してんのん…?」とか、
「ヒマでヒマでしゃ~ないやろ」とか、
人からいろんなことを言われる。

毎日何をしているか…? そんなこと、一口で言われへんわ~。
ヒマでしゃ~ないやろ、なんて、勝手に決めてくれるなよ。
フリーの身はフリーの身で、いろいろとあるのです。
もっともっと時間がほしいと思う毎日なのである。

話は変わるけれど…
6月30日に、松原市役所の職員OBで構成する「市友会」という会の総会が、大阪市内のホテルで開かれた。僕もこの「市友会」に、この4月に入会したばかりである。

これは本来ならば、5月に開催されていたはずだった。

その5月の総会が予定されていた日、僕はモミィを伊勢志摩のスペイン村に連れて行く日だったので、市の担当課に総会を欠席する旨の届けを出していた。

すると、最近、またもやその「市友会」の総会の案内状が来た。
「え…? もう5月に終わったのと違うん…?」

案内状によると、新型インフルエンザ騒ぎで総会が延期になったのだという。

それで、6月30日に改めて総会を開くことになった。

今度は僕も、欠席する理由がないので、出席することにした。

例年は100人ぐらい出席するそうであるが、朝から強い雨が降っていたせいか、今回は60数名の出席だった。

会場の大阪市内のホテルに向かう途中で、この会の副会長さん(僕の昔の議会事務局の上司でもあった)が、僕に、「きょうは、総会の中で新会員を紹介することになっているんやけど、そのときに新会員を代表してあいさつしてくれへんか?」と、いきなり言われた。

げぇ~~~……

またあいさつかいな。
3月に、議員や市の幹部職員が出席する退職者送別会のときにも、退職する職員を代表してあいさつをさせられたのに…。またかいな。今度は「新人」としてのあいさつだ。もうちょっと早いこと言うてや。考える時間がないがな。

世話役としてついてきた担当課の職員は、僕に、
「いやぁ、○○さんやったら急に頼んでも、してくれはるやろと思いまして」
な~んてことを言っていた。
みんな勘違いしているが、僕は人前でしゃべるのが、苦手である。
僕は怖がり屋であるとともに、恥ずかしがり屋でもあることを、なかなか人から認めてもらえず、どうやらそんな「人前しゃべり好き」のイメージを持たれたままで自分の人生が
終わってしまいそうなのが、今の僕の悩みなのである。

まあ、それはいいとして…。
総会にやって来た人たちのあの顔、この顔…。

僕が市役所に入ったときから、ずっと先輩として、あるいは上司として仕事をしてこられた人たちが、60代、70代になっても元気な姿を見せていたのには、感慨深いものがあった。あぁ、この人たちとも、ずいぶん長いこと会っていなかったなぁ。

つい最近に退職をした人とは、当然ながら、なじみが深い。
しかし、もう、昔々に退職をした人とは、本当に久しぶりである。
いっしょに仕事をしたことのある人もたくさんいる。
顔だけしか知らない人も、全く見たことのない人も。(特に保育士だった女性の人たちは、僕はほとんど知らない)。
いろんな人たちの顔、顔、顔。
久しぶりに会うその人たちの顔を見て、本当に懐かしかった。

中には仕事で嫌な思いをさせられた元上司もいたが、それも遠い昔の話…。
…と言いたいところだが、やはり嫌いな元上司には今でも口をききたくない。
だいたい僕は、ネに持つタイプなのである(笑)。

…と、まあ、そんなことで(…どんなことだ?)、総会は終わった。

そして、第二部の懇親会に入った。

6月17日に市長になったばかりの澤井さんが来賓として招かれており、乾杯に先立って祝辞を述べた。若くて長身だから、壇上に立つと見栄えがいい。

あいさつの内容も、情熱がほとばしるようで、好感が持てた。

しかし…
僕はちょうど1週間前の6月25日に市役所へ行ったとき、新市長の所信表明演説の原稿を読み、誰が作ったのか知らないけれど、その内容があまりにお粗末なのに驚いた。使い古された陳腐な文言が、何の脈絡もなくツギハギに並んでいるだけで、あれもこれも、きわめて抽象的な表現に終始していた。この原稿だけでは、まるで具体的な政策が見えてこない。

僕は、思い切って、市長の携帯に次の内容のメールを送った。

「所信表明の文章はずいぶん程度が低いですね。文脈が矛盾だらけだし、表現力が稚拙で、おまけに最後の部分は下品です。もう少し、勉強しなければ。まあ、勉強してもしゃ~ないかもしれんけど。ちょっと、期待はずれでした」

かなり失礼なメールだったろうなぁ。もちろん何の返事もなかったし。
「おせっかいなヤツだ。大きなお世話だっちゅうの」と思われたかも。
(今度メールを打ったら、着信拒否になっていたりして…)。

さて、懇親会のセレモニーが終わり、乾杯のあと食事になってから、各テーブルをあいさつに回っていた市長が、僕が座っているテーブルにもやってきた。

さすがに、あんなメールを送ったあと、知らん顔をしているわけにもいかず、
「この間はどうも…。失礼だったかと思いましたが…」
そう言った。

市長は爽やかに、僕に向かって、
「いや。あなたはいつもホンネで物を言わはる人ですから…」
というような意味のことを言って、ニコッと笑った。

さよですか。へえ。

市長ともなれば、外野席からいろんなことを言われるだろう。
そんなことをいちいち気にしていたら身が持たないものね。

まあ、書かれている原稿を冷静に目で追っていくと、いろんな欠陥が見える。
しかし、これを市長が6月29日の市議会定例会初日の冒頭で読んだはずだけど(僕は聞いていないが)、耳で聞くと、さほどの違和感もないのだろう。

言葉は生き物である。同じ文章であっても、話し方ひとつで、躍動したり埋没したりする。その人の姿勢というものが、言外ににじみ出るのだ。

松原市議会では、6日から、各党の代表質問が始まる。
僕はヒマなようだけど、月曜日と木曜日以外は何かと忙しい。
6日はちょうど月曜日である。
少しの時間だけでも、議会へ傍聴に行こうと思う。

新市長に対して、どういう質問が出るのか…?
そして、どういう答弁を新市長がするのか。

もう退職したというのに、まだ、なんとなく気になる松原市である。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松原市職員労働組合の皆さんへ

2009年06月19日 | 議会&役所

松原市役所を定年退職して2ヵ月半になる。

17日には、役所のOBの人たちで結成する「どこでも行こう会」という会のハイキングに参加した。30数人の先輩達と一緒に、岸和田市の春木駅から泉北高速鉄道の和泉中央駅まで、蜻蛉公園という美しい府営公園などを通過して歩いた。このあたりは、アナザービートルさんの住んでおられるエリアである。

「え?あんた、もう定年退職か…?」と僕の顔を見て驚いていた人もいた。
今年の3月末に退職した者たちの中で、そのハイキングに参加したのは僕一人だけだった。つまり、そのグループの中では僕が一番「若手」であった。
あはは。
つい最近まで、勤務先では「長老」だったのに…。

その17日というのは、松原市で新しい市長が初登庁した日であった。
38歳という若い市長である。
昭和46年生まれというのだから…
うちの長男(モミィのパパ)より、ひとつ年上だけ、という若さだ。
昭和46年は、僕が市役所に就職した年でもある。

そして、昨日18日の夜。
現職の役所の数人の人たちと久しぶりに会って、お酒を飲んだ。
その一人は、僕に
「なんか、ブログ、とかいうのん、してるの…?」
と聞いた。

「してるよ。なんで知ってるのん…?」
役所の人にはあまり自分のブログのことは言っていないから、びっくりした。

「澤井市長のこと、何か書いたか…?」と、彼が聞く。

「書いたよ。選挙で当選して、新しい松原市長になったんやろ」と僕。
「そうやけど…。澤井市長とメールでやりとりしたとか…」
と、彼が言うので、
「そうや。選挙で当選した時のことやろ。ブログに書いたよ」
と僕は言った。
何も隠すことではない。 

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/801a28f7e4efecaf15835117c3a4747f

僕はこの3月末まで、大阪府の松原市役所に勤めていた。
ブログは、3年ほど前からしていたが、現役の時はそんなことは書けない。
でもまあ、定年で退職したので、いろんなことも書けるわけね。
しかし、「守秘義務」は守ってますよ~ん。
「秘密」の話は、いくらブログでも、書くことはできないもんね~。

「でもなぁ。なんで僕がブログをしていること、知ってるのん…?」
と、僕は彼に尋ねた。

役所の人にはず~っと、自分のブログを内緒にしていたからね。

彼は、「職員組合の人が言うてはった」と言った。

はは~ぁ。

松原市の職員組合の人が、市長選の時、パソコンで「澤井市長」とか「松原市長選」か何かを検索しているうちに僕のブログに行き着いたのだろう。
「見て、見て。このブログ、この間、退職したのんさんやで!」
というようなことだったんだろうね~。
僕は、自分の顔写真も出しているし、素性も明らかにしているからね。

でも、一人でも多くの皆さんに読んでいただいているというのは嬉しい。

元々、物を書くことが好きな僕は、在職中には職員組合の「組合ニュース」というのに、「落書き帖」という題で、いろんなことを書いてきた経過もある。
(今の若い職員さんは、そんなこと、知らんやろね~)

いま、このブログを松原市役所の職員組合の人が見ていてくれていたら、誰でもいいから何かコメントをくださ~い。植○クンでもいいよ~。植○クンには、僕はずいぶんお世話になりましたから…。はい。

組合の植○クン、読んでくれているか~。僕やで、ボク!

今の松原市議会議員の中には、アホな議員も何人かおる。
コメントくれたら、どんだけアホかということ…そんなことも教えたるで~。


…失礼しました。

でもまぁこのブログは松原市役所の人たちにも読んでほしいので「のん日記」を、ぜひ組合ニュースで宣伝しておいてください。よろしくね~。


さて、6月17日に、新しい松原市長が登庁をした…と新聞で読んだ。

「行政改革をします。大阪一、全国一の改革をします」
と、38歳の新市長は言った…と朝日新聞には、載っていた。
橋下知事の路線に共感する新市長らしいコメントだ。

全国一の改革…

鼻息、荒いなぁ~。

…とまたこんなことを書くと、職員組合の人たちは
「あ、元議会事務局長がこんなこと、書いと~るで」と言うのかなぁ…?

組合ニュースには、そんなことは、書かんといてや。
僕は、澤井さんとは、仲良かったんやからね~。

「鼻息、荒い」というのは、けなしているみたいだけど、そうじゃないよ。
それぐらいの根性がなければ、今の世の中、やっていけまへん…ってことね。

まあ、話があちこちに飛ぶけど、どっちにしても、一人でも多くの人にブログを読んでいただける、というのはありがたい話だ。

僕は一方的に澤井市長の肩を持つものでもないけれど、むろん敵でもない。

本当に市民の立場に立つ行政を展開してほしいだけである。

以前、このブログにコメントをくださった松原市民の「もしもしピエロ」さんのような方の切実な声に、真剣に耳を傾けてほしい…と思うだけである。

職員組合の皆さんも、そういう市民の方々の声を聴いて、それを職員の人たちに反映させるような組織としてがんばってほしいと思うわけね。

なんだか、ちょっと硬い話になりましたけど…。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予想どおりの結果…? 松原市長選

2009年06月01日 | 議会&役所

昨夜10時を過ぎてから、何人かの知人からメールをもらった。
松原市長選挙の開票所から、経過そして結果の報告だった。

結果は…
Sさん、つまり澤井さんが 23,066 票
Uさん、つまり梅木さんが 18,277 票

おおかたの予想通り、38歳の澤井さんが市長に初当選した。

今回の選挙には、昨年11月以降の市立松原病院の閉鎖問題が、ひとつの大きな焦点になっていた。今年に入って中野市長のリコール運動にまで発展したときは、今回の市長選挙は相当盛り上がるのではないかと予測された。

しかし、リコール運動も尻すぼみになり、病院閉鎖反対派の勢いを受けて誰が立候補してくるのかと注目していたら、まあ、言ってはなんだが、梅木さんという人は知名度も低いし、僕なんかもほとんど知らなかった地味な存在の人であった。この人を推した団体(政党?)は、本当にやる気があったのかどうか疑いたくなる。あれだけ病院の閉院を「暴挙」だと市民に訴えていたわりには、本気で市長の座を取りに行く気概に欠けていたと言わなければならない。

まあ、まかり間違って病院閉鎖反対派が市長に当選したとしたら、実際のところ、どうするつもりなのだろう。いまさら病院を復活などできるはずがないし、またぞろ大きな赤字を膨らませていくことが明らかである。そんな、現実にできそうにもないことを公約に掲げて当選するほど、世の中は甘くない。


ところで、澤井さんといえば、今でもよく覚えていることがある。
澤井さんの父親(故人)はかつて連合町会の会長で松原市では有名人だった。

15年以上前になるが、僕が広報を担当していたとき、町会も併せて担当していた関係で、この連合会長さんの家に何度かお邪魔したことがあった。
居間で連合会長さんと話していると、二階からのっしのっしと大柄な若い男性がスウェット姿で降りてきて、「あ、どうも…」とつぶやきながら別室へ歩いて行った。
「息子さんですか…?」と僕が会長さんに尋ねると、
「ああ、そうや。息子や」と会長さんは答えた。
その人が、今の澤井さんであった。
当時、大学生だったその澤井さんが、まさか後年、松原市長になるとは、むろんそのときには夢にも思わなかった。

澤井さんは昭和46年生まれである。
昭和46年と言えば僕が市役所に就職した年である。
僕が役所に入った年に生まれ、退職した年に市長になったわけだ。
ふ~む。

ただ、アナザービートルさんもおっしゃっていたように、若ければいい、というものではない。今の松原市は、誰が市長になっても、前途は多難である。

今後、どういう行政手腕を発揮していくのか、まったく未知数であるが、
どうか、死力を尽くして松原市を立て直してほしい。


…ここからは全く余談になるけれど。

澤井さんは、このブログなどむろん読んでいないだろうから、ちょっと内緒の話を書いてみるが、澤井さんは1昨年から去年にかけての1年間、市議会議長をつとめた。僕はその時、議会事務局長をしていたから、職責上、澤井議長とは、ほとんど毎日のように携帯メールで連絡を取り合っていた。

そして、澤井さんが議長をやめてしばらく経ったとき。
ある日、僕はうっかり澤井さんからメールが来ていたのに気がつかなかった。

そのあと、澤井さんが僕のところへやって来て、
「メール出したのに、議長をやめたら返事もくれないんですね。冷たいなぁ」
と、ケラケラ笑いながら冗談を言った。
「あ、いや、そんなつもりじゃなかったんです。気がつかなくて」
「いやぁ、議長をしているときは、すぐに返事をくれたのになあ」

そして、昨晩…。
僕は澤井さんに「ご当選おめでとうございます」とメールを打った。

しかし、一夜明けた今も、まだ返事は来ない。
そりゃ、人生で最も忙しい瞬間だろうから返事なんて来ないに決まっている。

でもな~。

「澤井さん。あんた、市長に当選したら、とたんに冷たくなったなぁ」

と、今度は僕がそれを言う番である。ケラケラ。

                  ( 6月1日 午前7時42分 )

 



* 追伸1  昨日のブログは、驚くほどアクセス数が多かった。
       ランキングにも入るほどの数だった。なんでやろ…?

  
* 追伸2  このブログを書いた約2時間後の午前10時前に、
      
澤井さんから、丁寧なお礼のメールをいただきました。
       どうも失礼をいたしました~ (1日、午後1時)。

 

 

 

 


 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょう松原市長選挙

2009年05月31日 | 議会&役所

僕がこの3月まで38年間勤めてきた市の市長選挙の投票がきょう、行われる。
いや、厳密に言うと、今現在、行われている最中である。
その市というのは、大阪府松原市である。

市長選挙の投票というのが、これまで、松原市ではわりに少なかった。
候補者が一人だけで、無投票、というのが多かったからだ。

したがって、ここ35年間の市長選挙というのは無風状態に近いものだった。

しかし、ずいぶん昔になるが、大荒れに荒れたこともあった。

昭和49年…(僕が役所に入って3年目だ)。
松原市では、全国ニュースに報じられるような政変劇があった。
社会党系のH市長が、松原市内の地区(当時はそう呼んでいた)に対して次々と巨額の予算を投入したものだから、議会から猛反発を受けた。そのあげく、議会はついに市長の不信任案を提出し、それを可決した。

この場合、市長は、辞職するか、議会への対抗措置として議会を解散するかのどちらかを選ばなければならない。H市長は、議会を解散する道を選んだ。

予算をめぐる長と議会の対立から、議会が解散に追いやられたのはわが国でも前代未聞のケースとして、連日、全国の新聞・テレビ等で報じられた。

昭和49年の暑い夏の盛りのことだった。

議会は解散させられて、汗だくの選挙に臨み、新しい議員たちが出揃った。

そして、この新しく選ばれた議員たちが、再び市長を不信任議決した。
これでH市長は、自動的に失職することになった。

そのあと出てきた元職員のD市長が、昭和49年から27年間、市長を務めた。
…なんと、27年間である。ずいぶん長い在職期間である。

本来なら7期だから7回選挙があるはずだった。が、ほとんどの選挙は対立候補が出ず、無投票当選を続けた。そして、そのD市長が健康上の理由で辞職したのが平成13年で、そこに出てきた次の市長は、これも元職員のN市長だった。

僕は、その政変劇のあった昭和49年の翌年である昭和50年から議会事務局に配属されたので、D市長が出発したころに議会での公務員生活がはじまったわけだ。だから、政変劇の詳しいことは知らない。人から話を聞く程度だった。

さて、27年間勤めたD市長のあとを継いだN市長は、かつての僕の上司であった人だった。お酒が好きで、よく飲みに連れて行ってもらった。とても温厚な人で、どちらかと言えば、政治家向きではないような気がした。しかし、4年の任期を経たあと、次も選挙に出たが、対抗馬が出ず、無投票で当選した。松原市の市長選は、本当に無投票が多い。住民に市長を選ぶ機会が与えられないというのも、深刻な問題ではあるが、とにかく対抗馬が出ないのだ。これはいかがなものか。

N市長は、平成13年から市長になって8年間、市政をつかさどってこられた。

不運なことに、ここ数年で松原市民病院が膨大な赤字を抱えることになり、これを閉鎖しないことには、松原市全体に悪影響が及ぶ、という緊急事態に至った。だいたい、市民病院は、まじめにやればやるほど赤字が嵩むのである。

去年11月、N市長は苦渋の選択をした。
松原市民病院を閉鎖することに決めたのである。

今の時代を象徴するようなニュースに、マスコミが飛びついた。
僕が事務局長をしていた議会にも、多くの報道陣が詰め掛けた。

N市長自身は、最後まで病院を閉鎖したくなかったようであるが、諸情勢がそれを許さなかった。まさに、断腸の思いで病院閉鎖を決められたのであろう。

そして、6月16日で2期目の市長任期が切れるのをきっかけに、次の選挙には出馬しないという声明を、3月の議会で発表した。その議会での発表の様子が載った新聞の写真に、市長の後ろに僕の顔が写っていたことは、いつかこのブログで書いたことがある。(すみません、関係ない話で…)

そして、今回の市長選挙は、2人の、新人同志の対決である。

病院の閉鎖に賛成をした自・公・民の推薦を受けた元自民党市議のSさんと、共産党の推薦を受け、病院閉鎖に待ったをかけ、福祉最優先政策を声高にとなえる団体役員のUさんとの一騎打ちとなった。Sさんは1週間前まで市議会議員だったので、よ~く知っているが、Uさんは、顔を知っている程度で話したことはあまりない。

元自民党市議のSさんは、一昨年から去年にかけて1年間、議長をしていたので、僕は特にこの人とは、その1年間は毎日のようにいっしょだった。会議や管外出張でいろんなところへも行った。彼は38歳という若さであり、何でも決断が早いし、勉強熱心で、行動的である。

現在その投票の真っ最中であり、午後10時ぐらいには大勢が判明するだろう。

選挙のことだから、フタを開けて見ないとわからないが、やはり、自民・公明・民主の推薦を受けているSさんが、かなり有力であろうと思う。

開票事務に参加する役所の友達から、大勢の判明次第メールを送ってもらうことになっているが、地元のNHKニュースでも報じるだろう。

今夜の投票結果が楽しみである。

しかしこれまで鳴かず飛ばずだった松原市の行政が、これからどう大きく変革していくのか…。よっしゃ、やっと面白い展開になってきたぞ~という時に、定年で退職…というのもね、なんだか、映画で延々と退屈なシーンを見せられて、さぁ、ここからだ~!  というクライマックスになったとたん「はい、もうあたなは終わりだから出てください」と映画館から追い出されたような気もしないではない。なんだかなぁ…。

まあ、これから職員給与も大幅に削減されるなどの思い切った政策が展開されていくと、仕事の方もますます大変になってくるので、自分が辞めた時期は、いい潮時だったのかなぁ、と言えるかもしれない…。

どちらにしても、今夜の結果は、待ち遠しいなぁ。

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この17日間

2009年04月17日 | 議会&役所

まだ4月に入ったばかり…という感覚から抜け切れないまま、今日はもう4月17日である。退職して、早くも半月以上が経過した。

いろんなことに追われ、なかなかブログを更新できなかったが、ようやく皆さんに近況を報告する余裕ができた。

しかしまだ、朝起きて仕事に行かなくていい、という環境がピンとこない

今日も、土曜日だとばかり思っていたら、そうではなく、金曜日だった。
世間は仕事をしている日なのである。なんか、勘が狂う。なじめない。

   ………………………………………………………………………

3月31日に、市長から退職辞令をもらい、職場で花束をいただき、そして多くの人たちに見送られて、長年勤めた場所を後にした。

…と、いかにも感慨深げに書くわけだが、実際は、自転車で通勤している僕は、花束をビニール袋に入れてハンドルからぶら下げ、なんだかなぁ~、もうこれで終わりかいな、と、今のこの状態が「うっそ~」というような気持で自転車をこぎながら、これといって特別な感情も湧かず、家路に着いた。

自転車で家の近くまで帰ってきたら、同じ町内のおっちゃんに会った。
おっちゃんは、孫の男の子を連れて、こちらを向いて歩いてきた。

「あれ? 今日はお休みですか?」とおっちゃんは僕の様子を見ながら、
「なんで花束なんかぶら下げているのですか…?」と、質問を重ねたあと、
「むむ~っ…。今日は3月31日だし、…ひょっとして、退職ですかぁ!?」

「ピンポーン! 定年退職です。どうも、どうも」と僕。

「ひぇ~~。そうですか…。おたくが、定年…ですか? はぁ~。しかし、まあ、それはそれは、退職、おめでとうございます」
おっちゃんは、孫から手を離し、ぺこっとお辞儀をしたので、「これはどうも、恐れ入ります」と、僕は自転車から転げ落ちかけた。

そうして「ただいま~」と家に帰り、そのあともいつもと同じように過ごし、そんな具合にして、3月31日は終わった。


明けて4月1日には、モミィを連れて、妻と3人で白浜へ1泊旅行をした。
「特急くろしお」に乗って、天王寺から南紀白浜まで約2時間。

「特急くろしお」といえば、あれは38年前(昭和46年)、僕たちは新婚旅行で「特急くろしお」に乗り、白浜へ行ったんだったなぁ…。
ま、そんなことは、よろし。

快晴に恵まれた白浜は、桜が満開であった。
翌日は、美しい浜辺で、モミィは久しぶりに目の前に見る海の光景に興奮していた。まだちょっと波が押し寄せてくるのを怖がっていたようだったけれど。

4月3日は、夕方に職場の歓送迎会があったので、3日ぶりに役所へ行った。
職場のみんなは「辞められたという感じがしませんね。また朝に、ひょこっと出勤して来はるような気がして…」などと言ってくれる。僕だって、こうして職場に戻ってくると、自分が辞めた人間だとは到底思えない。

4月4日(土)は終日雨であった。
この日は何の予定もない日だったので、僕にとっては乱雑をきわめた自分の部屋をわずかでも整理ができたし、まあ雨でもかまわなかった。しかし絶好のお花見シーズンの週末にこの雨は、大半の人々をがっかりさせたに違いない。

…雨はこの日を最後に姿を消した。

4月5日から9日まで、「青春18切符」を使って、妻と東北への4泊5日の旅行に出たが、その間、ずっと快晴に恵まれた。列車に揺られて北へ北へと移動したこの旅は、普通のツアーでは味わえない情緒があり、発見も多かった。
(後日改めて、このブログで旅行記を掲載したいと思います)。

しかし、大阪を出るときは桜が満開だったのに、東京を過ぎ、福島県に入ったあたりから、桜色の風景が視界から消えた。仙台では蕾が膨らんでいたが、花はまだ。盛岡や青森、秋田では桜の気配すらなかった。そして大阪へ帰ると、桜はもう盛りを過ぎて、散り始めていたのだ。…ぐすん。

さて、9日夜に帰宅すると、長男が溜めておいてくれた郵便物の中に、僕が退職挨拶の葉書を送ったことに対する返事の葉書やら手紙がかなり入っていた。1枚1枚、丹念に読む。僕の葉書での退職挨拶に対して、それ以上の丁寧な返事が来たことに、恐縮することしきりである。自分がこんなにも多くの人々に支えられてきたのかということを、今さらながら身に沁みて感じる。

4月10日は、退職金が振り込まれる日であった。
それに関する用件で、妻と2人で難波にある○○銀行まで足を運んだ。
帰途、遠回りして天満橋あたりを歩いたが、桜はどんどん散り始めていた。

11日の土曜日は、朝4時から起きて、退職時に餞別をいただいた方や自宅に花を送っていただいた方など、特にお世話になった目上の5人の方々へ手紙を書いた。5通の手紙に3~4時間かかった。そしてそれを封筒に入れて、東北旅行で買って来たお土産に添え、荷物を自転車に積み、ペダルをこいで、それぞれのお家へあいさつ回りをし、お土産を渡した。かなり距離があったので、自転車で走っていると、午前中はそれであっという間に過ぎた。

そうこうしているうちに、14日に第一回目が始まるECCの英語教室が気になり始めてきた。3月中旬にテキストが送られてきたが、梱包したままで、どんなテキストかもまだ見ていない。予習をしておかなければ…と、12日にようやくテキストを取り出し、パラパラめくって、付属のCDを少しだけ聴く。

いつかこのブログに書いたが、退職1年目は、生活に3つの柱を据えて、それを中心に過ごそうと決めていた。

ひとつは、身体を鍛えなおしたい、ということ。
もうひとつは、本やビデオや古い日記や切抜き、雑書類、旅行から持ち帰ったガラクタ類はじめあらゆる物を整理しなおし身の回りをスッキリさせること。
最後のひとつが、長年の夢だった英語を好きなだけ勉強すること。

だから、英語の勉強は、僕の今後の生活において大切な要素なのである。
そんなことで、13日は、雑事の合間を縫ってドロ縄でECCの予習をした。

そして、14日、ECCへ行き、緊張の中で最初の授業を受けた。
(この話もまた、ブログに書いてみたいと思います)

15日は、1月に一緒にカナダへ行った義姉が、僕の退職祝いに梅田のホテルバイキングへ招待してくれた。昼間からワインをしこたま飲んだ。あぁ、こうして自分が酒を飲んでいる間、職場ではみんな仕事をしているんだなぁ、と思うと、なんだか、たいそう奇妙な感じがした。

そして昨日の16日は、午前中に大手前病院へ行った。
健康保険証が変わったので、受付で変更手続きをしてもらう。
そんなときにも、あ、そうか、僕はもう現役ではないのだ、とふと思う。

「退職されたのですね。耳鳴りはいかがですか?」と、技師先生。

「そうですね。退職しても耳鳴りは退職してくれないですよね~。でも、これからは自分主体の生活が送れますので、いろんなことを楽しんで、耳鳴りを気にしている暇のないような毎日にしたいです」と答える。

大手前病院を出て、すっかり桜の散った大阪城を眺めながら歩く。
朝は薄曇りだったが、いつの間にか日が照り始め、空が青い。

今までなら、病院を終えると、その足で仕事に向かっていた。

今日はもう、向かわねばならないところは、ない。
どこをぶらぶらしようが自由である。

退職しても、日々の忙しさに紛れてさっぱり実感が湧かなかったけれど、病院を出たとき、急にその「喜び」のようなものがこみ上げてきた。

アイ フィール ライク “ エブリデー イズ サンデー ”.

次のECCの教室では、こんなセリフが言えたらいいなぁ、と思っている。

  

                          
                           退職の日、職場で。

 
  追加の写真です 

 
      波が来ると あわてて逃げるモミィ (4月2日 和歌山県 ・ 白浜)

 

 

 

 

 

  

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議会の最後は おまけつき

2009年03月27日 | 議会&役所

25日にとうとう議会が終わった。
通算26年間の議会事務局生活での、最後の議会だった。

その夜に行われた某ホテルでの送別会で、退職者を代表をしてあいさつをするという大層な役回りをさせられて、なんとかそれは無難に終えることができ、まあ、やれやれ、ほんとうによかった、WBCも日本が優勝したしなぁ…と、何もかもがハッピーエンドという、まことに幸せな気分に浸ったのである。


…こうして、最後まで勤め終えることができ、今日、このように華やかな舞台に立たせていただき、お世話になった皆様方に、暖かく見送っていただくことができますのは、本当に幸せなことでございます。WBCの日本連覇と同様、終わりよければすべてよし。まさに、ハッピーエンド、ハッピーリタイアという言葉のとおり、幸せな退職である、と、私どもは考えております…。今後におきましても、これまで役所生活で培わせていただきました数多くの経験を活かして、これから、充実した意義のある第二の人生を送ってまいりたいと考えておりますので、なにとぞよろしくご指導のほどを、お願い申し上げる次第でございます。
むにゃむにゃむにゃむにゃ…

  …………………………………………………………………………


前にも書いたが、僕が勤めている市では、この3月末に市民病院が閉院されることになっている。

市民病院が消えると住民の方たちが困ることは誰にでもわかっていることだけれども、医師不足や建物の老朽化など、深い問題が根底に横たわる中で、病院経営は悪化の一途をたどり、1日300万円近くの赤字を日々生み出してきていたのが現状だ。1日300万円だと1月9000万円、1年で10億以上の赤字が生まれ、すでに累積では40数億円の赤字を抱えている。

市民病院は、地域でそこにしか病院がないという環境であれば、行政の責任として、閉院は、住民にとって死活問題になってくるけれど、うちの市のように、他に大病院がいくつもあり(僕が毎月不整脈を診てもらっている徳○会病院もこの市にある)、医療環境が満ち足りている地域であれば、市民病院の果たす役割りは相対的に低くなり、それよりも、病院が生み出す膨大な負債によって市全体が赤字になり、その影響で他の住民サービスが低下する…ということを防ぐ方が大事な問題ではないかと思われる。そこで市長は、昨年11月に、断腸の思いではあったろうけれど、この3月をもって病院を閉院する、という苦渋の決断をされたのである。

千葉県銚子市では、市長が「公約を破って市民病院を休止にした」ということで、反対団体が市長のリコール(解職請求)の運動を行った。市内有権者の3分の1の署名が集まれば、市長をクビするか否かの住民投票に持ち込むことが出来る。銚子市では、その3分の1以上の署名が集まり、この3月29日に住民投票が行われることになっている。


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/229628/



わが市でも、2月中旬に、病院閉鎖に反対する活動団体が「市長はけしからん」と、リコールの署名運動が展開された。運動期間は法律で1ヶ月間と決められているが、結果は、有権者の3分の1の署名は集まらず、リコールは不成立に終わり、銚子市のように住民投票には持ち込まれなかった。

しかし、うちの市長の任期満了は今年の6月であり、5月31日に市長選挙が行われることはすでに確定している。解職請求だの住民投票だと言っても、どうせ5月末に市長選挙は行われるのであり、それを思えば、今回のリコール運動は何のために行われたのか…という疑問は、大いに残るのである。


病院の問題については、僕は去年の9月に銚子市の例を挙げて書きました。
まだその時は、僕は自分の立場を隠していましたが、病院を閉鎖するということの考え方は、詳しくそこに書いています。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20080912



さて、そんな背景の中で、25日、僕にとっても最後の本会議が開かれた。
3月定例会の最終日である。

事前に市長が、本会議の閉会直前に、進退を発表するということをマスコミに告げていたので、当日の本会議場にはテレビカメラが入り、新聞記者が何人も傍聴席へ取材に来ていた。

その場所で、最後に市長が発言席に立ち、市民病院の問題も一定の目処がついたので、次の選挙には出馬しない、ということを表明した。

…ということは、市長は、この議会が最後の議会になるわけだ。

僕も、この議会が最後の議会である。
立場は全然違うけれど、何となく不思議な縁を感じる。

市長の不出馬宣言は予想外であり、周囲に大きな波紋を投げかけた。
次の市長には誰が立候補するのかという問題である。
いま、わが議会ではその話題で持ちきりである。
おそらく、市議会議員の中から立候補者が出るだろう。
一方、病院閉鎖反対の団体からも、当然市長候補が出てくるだろう。
選挙の投票日は5月31日。あと2ヶ月しかない。短期決戦である。
まさに風雲急を告げている昨日、今日である。

そんな中で、僕は退職まであと5日となった。

あわただしい周囲の空気の中で、僕のほうはのんびりしたものだ。

机の中を片付けたり、送別会を開いてくれた人たちに、お礼の手紙とマクドナルドの券を配ったりしている。

WBCで日本選手が「世界をつかもう」という文字が入ったヘルメットを被っていたのをご存知の方も多いと思う。あれはマクドナルドの提供であった。日本のWBC連覇にちなんで、僕は妻にマックの券をたくさん買い込んでもらって、お世話になった方々へ、「世界をつかんでください」と、手紙の中へ何枚か入れてお渡しをしている。
「世界はつかめませんが、マックはつまめます」な~んて、若い人からお礼のメールをもらったりした。あはは。



 ~ おまけ ~

しかし、まあ、26日の朝刊を見たときはびっくりした。

市長が出馬しないという記事の横に写真が掲載されていたが、その写真というのは、市長が本会議場の演壇でしゃべっているシーンである。

演壇の後ろに議長席があり、その横に僕が座っているのだが、朝刊の写真をよ~く見たら、市長の右後方に小さく、ピントのボケた僕の顔が写っていた。

最後の最後の議会で、ピンボケ顔写真を新聞に掲載してもらって…
まことにしあわせな退職でございます。
ついでだから、その記事もここへ貼り付けておきます。

 

   
  市長の背後霊ではありません。 のん、です。(26日毎日新聞朝刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もういくつ寝ると… 3

2009年03月23日 | 議会&役所

海の向こうの野球に血道を上げているうちにどんどん日が経っていく。
気がつけば3連休も終わり、今日は23日である。退職まであと9日だ。

昨日はWBC準決勝ベネズエラ・韓国戦が日本時間の朝10時から行われた。
テレビ放送もないのでインターネットで経過を見て行こうと思っていた。
そんなとき、関口宏の「サンデーモーニング」のチャンネルをそのままにしていると、次の「サンデージャポン」というバラエティ番組で、その野球の中継映像が入ってきた。な、なんと、韓国が1回の表から、ヒットや本塁打を連ねて5点を取っていた。ぎゃふん。

そのあと、インターネットの速報は、2回に韓国が2点を追加し、2回表の段階で7対0という数字を示していた。もうこれは、勝負が決まったも同然である。なんと味気ない試合であることか。ベネズエラの「大リーガーでかため、目下チームは絶好調」というふれこみはいったい何だったのか…? あほらしくなるような結果である。最終的には10対2のスコアであった。

だから日本はベネズエラとやりたかったのだ…と、また未練がましく組み合わせの運の悪さを嘆く僕なのであった。

…といっても、日本とアメリカはきょう、これから対戦する。まだ日本が負けたわけではない。守備も攻撃もボロボロだったベネズエラみたいなわけにはいくまいが、アメリカの力で押してくる投手を、日本の自慢の左打線が攻略する確率はかなり高い。イチローさえ打ちまくってくれたらゼッタイに勝てるものと信じている。頑張って欲しい。

きょうは、徳○会病院で月に一度の診察に行く日である。
本来なら、夜に行くのであるが、今日はどうしても断れない方から送別会をしていただくということで、やむを得ず、診察予約を午前中に変更してもらった。もう、間もなく支度をして、家を出なければならない。

野球の日米決戦は今日の午前9時からである。
僕は病院が10時半からの予約なので、たぶん病院の待合室のテレビでそれを断片的に見る…ということになるかもしれない。といっても、病院の待合のテレビでは、高校野球がかかっている可能性もあり、見られるかどうかもわからないけどね。まあ、仕方ない。あまりカンカンになって興奮していると、今日の検査で、血圧や脈拍数が上がっていたり、不整脈が出たりすると大変だ。ほどほどにしておこう…(と言いながら、やっぱり、とても気にしている)

さて、今週は25日が議会の最終日である。
これが終わると、おおかたの僕の役目は終わったと言える。
あとはデスクの回りの整理をするだけである。
書類の整理と、不要なものの処分。そして私物は家に持ち帰る。
お世話になった人たちへのあいさつも、漏れのないようにしなければ。

その25日の最終議会が終わったあと…。
夜は某ホテルで、全議員と、市長や副市長や教育長、それに幹部職員たちが全員出席して、退職者の送別会が行われることになっている。これは、毎年恒例の行事である。去年僕はこの会の世話役として、ホテル側と打ち合わせをしたりセレモニーの司会をしたりしたが、今年も同じくもう一人の総務担当者といっしょに僕も世話役をしている。…が、今回は見送られるほうでもある。

10人近い退職者たちを代表して、その席で、誰か一人、舞台に立ってお礼の挨拶をしなければならない。これでみんなモメるのである。
誰が挨拶をするかは、話し合いで決めるのであるが、
「お前がやれ」
「いや、それは困る。あいつにやらせろ」
「かんにんして。人前でしゃべるのはニガ手やから」
「ほかのことやったらするけど、これだけはなぁ」
などと、「謙虚」な人物ばかりであるからお互いに押し付けあって、誰も引き受けようとはしない。み~んな、いい歳をしているのに難儀なことである。

あれやこれやとしているうちに、僕は世話役をしている関係上、とうとう、誰もするものがいないということで、自分のところにその挨拶役が回ってきてしまったのである。まったく、もぉぉぉぉ~

おかげで、僕はそのための原稿を作り、いま、一生懸命それを暗記するのに追われているところである。他にしなければならないことがたくさんあるのに、とんでもない役が舞い込んできたものである。何よりも、25日の議会の本会議が終わったら、その瞬間にホッとしたい。なのに、まだその後の送別会でまた挨拶をしなければならないとは、気分が重い。

きのうからポケットに原稿を入れ、暇さえあれば取り出して読んでいる。


本日はこのように盛大な送別会を開いていただき誠にありがとうございます。
また先ほどは、市長様・議長様より心あたたまるお言葉を頂戴いたしまして、厚くお礼申し上げます。こうして無事退職のときを迎えることができましたのも、ひとえに議員の皆様方はじめ、職員の皆様方の暖かいご支援・ご厚情のおかげであると、心より感謝している次第でございます…。
むにゃむにゃむにゃむにゃむにゃ…


ああぁ、うまく覚えられるかなぁ。気が重い。
また耳鳴りの音が大きくなりそうだ。
脈も乱れそう…。
早く25日が終わってほしい~

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする