僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

もういくつ寝ると… 2

2009年03月17日 | 議会&役所


   ~ 花 束 ~


16日は早朝の5時からWBC2次ラウンド1組の日本対キューバ戦があった。
9日の韓国戦に完封負けを喫したショックは、僕はまだ癒えていなかった。
アジアを1位通過した韓国の相手は格下のメキシコだし、2位に甘んじた日本は世界一とも言われるキューバが相手である。どうしても僕の中では、悲観的な見方が先行してしまう。だが、日本は米大リーグ相手の練習試合で2勝して打撃も好調の兆しを見せてきた。なんとかいけるかも…という期待も持てるようになってきた。そして、16日早朝のキューバ戦を、首を長くして待った。

ところが…
前日の夕方から寒気がしてきて、体がだるい。
夕飯にお好み焼きを焼いたが、缶ビールを半分飲んだらもういらない。これは明らかに気分がすぐれない証拠である。明日からまた仕事だというのに、それに夜は送別会もあるというのに…えらいこっちゃ。

早い目に布団に入って8時半には寝た。
そのときには、野球のことはもう頭になかった。
僕の眠りはいつも浅いから、夜中に何度も目が覚める。
何度目かに目が覚めたら5時だった。まだ早い。もう少し寝なければ…。

次に目覚めたのが6時前だった。
起きようか、いやもう少し寝ていようか…寝ぼけながら迷っていた。迷いながら、いつもの癖で枕元の携帯電話に手を伸ばし、寝転んだままで何気なく開けてみると1通のメールが入っていた。目をこすりながら見ると、じゃいさんからのメールで、「WBC見てますか?」と書いてあった。僕は気がつかなかったが、5時半ぐらいにメールが届いていたのだった。

「うっ! 忘れてたぁ」と、あわてて僕が飛び起きたことは言うまでもない。
体はまだだるく、寒気を感じていたが、階段を転げ落ちるように下りて、居間に入り、テレビをつけた。

画面を見ると、3階の表、日本の攻撃で無死1、2塁の好機にイチローが打席に立っていた。得点は0-0。おお、なんといい場面から見たことか。

イチローがうまいバントを見せたが2塁ランナーの城島の下手な走塁で3塁アウト。あちゃ~。また悪い予感がするな~。
そう思っていたら、次の片岡がきれいに打ち返して1死満塁となった。
ここでキューバの164キロの左腕のエースが降板。別の左投手が出てきた。
眠気もふっとび、テレビ画面を食い入るように見つめる。

リリーフに出た左投手がまたお粗末で、青木を迎えていきなり暴投で3塁ランナーが返り、日本は労せずして先取点を奪った。そのあと青木のポテンヒットで2点目、さらに村田が今度はきちんと外野犠牲フライを打って3点目が入った。あわててテレビをつけてから、息もつかせぬ日本の攻撃であっというまに3点をリードした。ほんと、いい場面から見ることができてラッキー。ゆかりさんからも、「この調子でどんどん追加得点入れていってくれー」とメールがきた。朝早くから、み~んなこの野球を見ているんだ。

キューバは風と太陽光線に守備を乱されたところがあった。
この球場は右中間が深く、左バッターが引っ張ってホームランを打つのは難しいとされている。そのわりには左中間は浅い。しかしいつも風が強いので、本塁打は出にくく、投手有利の球場だと言われている。日本人の大リーガーたちは、この球場に慣れており、特徴をしっかり把握していたことも大きい。それにひきかえ、キューバは、青木の2点目のポテンヒットもそうだが、フライに対応できなかった。城島の高く舞い上がったフライも、キューバの外野手は球を見失い、二塁打にしてしまった。もっとも、イチローもライトのファールフライを落球するという珍しいミスを演じたが…。

5対0となった7回表、「おらほ」の岩隈が登場したところで僕は出勤しなければならなかった。これがもっと接戦だったら出勤できなかったところである。といっても、行かなきゃ仕方ないけれど…。

  注: 「おらほ」とは、楽天球団が本拠地としている東北地方の方言で、
       「うちの」という意味。ちひろさんに教えてもらいました。


さて、8時40分に役所に着いて、テレビを見たら、藤川が2塁打を打たれながらも後続を断ち、日本が6対0でキューバに快勝した。いよぉっ。ええぞ~。

…そんなことで、日本はまず1勝をあげ、次は18日に韓国・メキシコ戦の勝者と準決勝進出をかけて争うことになったが、その韓国・メキシコ戦は、僕としてはメキシコに勝って欲しかったのだが、残念ながら、韓国が8対2で大勝した。韓国も強い。あぁ~あ。これでまた、明日の18日は日本と韓国の試合だ。
やはり、韓国というのは避けて通れない関門なのだ

今日17日は、負けたもの同士のキューバとメキシコが敗者復活戦を行う。
これに、仮にキューバが勝ったとする。
明日18日は、日本と韓国が対戦する。
この試合に、もしも、もしもだよ、日本が負けたとすると…。
韓国は準決勝進出を決め、日本は19日に再びキューバと戦う。
これに負けたらその時点で日本は敗退だ。大会から姿を消してしまう。
勝てば準決勝進出が決まり、20日はまた韓国と1組の1位決定戦を行う。

そういう危ない橋を渡ってもらいたくないので、ここはあっさり、明日18日の韓国戦に勝って、さっさと準決勝進出を決めてもらわなければならない。

18日といえば平日、つまり仕事中である。
しかも試合開始は昼の12時。
昼休みにちょっとだけテレビを見られそうだが、そんなんじゃ未練が残る。
まことに、ざんね~ん。
これが来月なら、テレビなんか朝から晩まで見ていられるのにな~。

それにしても、日本が昨日のような赤と紺のユニフォームを着ると勝ち、白いユニフォームを着ると負ける…というジンクスがあるようだ。次の韓国戦では、日本はどちらのユニフォームを着るのだ…? それが大きな問題である。

    ………………………………………………………………

朝から野球でぐったり疲れた体に鞭打ち、仕事に出る。

議会のほうは3月の定例会の真っ只中で、忙しい。

いまは予算特別委員会というのが連日行われている。

    ………………………………………………………………

夜は阿倍野に出て、送別会をしてもらった。
メンバーは、4年前に大阪城から明石大橋まで往復する100キロウオークに出場した歩き仲間5人に加え、僕が昔総務課の文書法規係にいたときにいっしょに仕事をした男子職員と、女子職員の2人の、計7人だった。いちおう、全員顔見知りということで集まったそうだ。女子職員のほうは僕より年下だけど、5年前にひどい腰痛で歩けなくなり、退職をしていた。僕は5年ぶりに彼女に会った。腰はよくなり、体がとても細くなっていた。
「何かダイエットしたわけ…?」と聞くと、
「えへへへ~。してるわよ~」と、彼女は満面に笑みを浮かべた。

昨晩は缶ビール1本飲むのに精一杯だったが、この日は快調だった。
それでも、なるべく飲むペースを遅くして、量を控えた。
この次の送別会は19日にある。さらに23日、25日、30日と、まだ4回。
「体調を壊しまして…」と欠席するわけにはいかない席である。

宴もたけなわのころ、幹事をしてくれていた若い友人が、
「それでは、花束を贈呈します」と言ったので「え?」と思った。
いつのまにか、座敷の隅に花束が用意されている。

「退職、おめでとうございます…って言っていいんですか?」
と、とまどいながら、本日の「紅一点」が僕にその花束を手渡してくれた。
記念品はもらったことがあるけれど、花束なんてもらうのは初めてだ。
受け取る僕も、とまどってしまう。
パチパチパチと拍手があり、「何かひとこと」との声がかかる。

思わぬ展開に、僕はどうお礼を言っていいかすぐに思いつかず、

「はぁ、どうもありがとうございます。えぇ~っと、バレンタインデーのチョコレートにですね…、義理チョコと本命チョコがあるように、ですね…、送別会もさまざまな形があるわけですが、えぇ~っと、きょうお招きいただいた送別会は、本命チョコ送別会でありまして、たいへん感激しております」

と、わけのわからない挨拶をしてしまった僕である。

花束を抱えたまま電車に乗り、帰宅すると妻がさっそくそれを生けてくれた。


 

   

 


退職まであと15日。 大相撲1場所分だ。 がんばろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

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もういくつ寝ると… 1

2009年03月15日 | 議会&役所

 
  ~ 手 紙 ~


3月もちょうど半分が終わった。

先月くらいから、「あと少しですねぇ」と会う人ごとに言われながらも、なかなか実感が湧かなかったが、3月に入ってから、3日、4日、6日、8日、11日と送別会を兼ねた飲み会が重なっていくと、そのつど、「長い間ご苦労様でした」と労をねぎらわれ、「これから、どうするんですか?」と今後を尋ねられ、そんなことが何回も繰り返されると、やはり、もう終わりなんだなぁ…という感慨が、じわじわと身に沁み始めてきた。

あと半月の間、自分のこれまでの仕事人生を振り返りながら、定年退職のその時を迎えるまでの日々を、ここに書きとどめておきたいと思う。

僕が今の市役所に勤め始めたのが、昭和46年(1971年)の8月だった。

その年の3月に大学を卒業したのだが、卒業式のその1週間前に僕は結婚式を挙げていた。本来なら就職活動に走り回っているはずの大学4年生の時期の1年間、僕は自分の両親や相手の両親に、どうしたら結婚を認めさせることができるか、みたいなことばかり考えていたので、就職に関しては「どこでもええわ」と、ずいぶんいい加減だった。そんなことから、大学の時に邦楽のクラブで尺八や琴を演奏していたという理由だけで、求人募集でチラッと見た小さな和楽器店に応募し、そこへ勤めることにしたのだ。

その和楽器店から、阿倍野近鉄百貨店への出向を命じられ、百貨店の3階の片隅の、琴、尺八、三味線などを置く和楽器売り場コーナーで、一日中ボーっと立っていた。しかし、日曜日に休めない、一人でずっと立ちっぱなし、お客が少ないのでつまらない、小さな店だったので将来の保証がない…などの理由で、次の就職先の当てもないまま、そこは3ヶ月で辞めてしまった。

妻に「役所に勤めれば?」と言われていたが、役人など自分の性格に合わないと思っていた。だけど22歳で家庭を持ち、やがて子供もできるだろうから、そんなことを言っている場合ではなかった。1ヵ月後の7月、毎日新聞の求人欄に、小さく「○○市役所職員募集」の記事が載っていたので、とにかく受けてみようと思い、電車とバスを乗り継いで○○市の市役所を訪れたのである。

そして試験を受け、運よく採用され、8月から○○市役所へ勤め始めた。
その頃は、今と違って職員を大量に募集していた。僕は8月採用だったが、もちろん4月にも、僕と同級の多くの新入職員が一足先に入っていた。

結局、その昭和46年の8月から、今の平成21年の3月まで、37年8ヶ月、この市役所に勤務したことになる。…あぁ、長い長いと思っていたのに、今となってみると、あっという間だったなぁ~。

最初に配属されたのが、秘書課市史編さん室という風変わりな部署であった。
ここで1年8ヶ月仕事をした。この間に長男が生まれた。

次に昭和48年4月から、課税課固定資産税係というところに配属された。
ここで2年間仕事をした。この間に次男が生まれ、今の藤井寺へ引っ越した。

昭和50年から、議会事務局というところに配置された。
これは、後の上司の説明によると、僕が履歴書の資格欄に「速記3級」と書いていたから、議会事務局へ来てもらうことになった、とのことだった。
議会事務局では、会議の速記を取れる職員がいると都合がいいらしいのだ。
僕は大学2~3年のとき、玉造付近にあった早稲田速記学校というところへ、夜間に通っていたことがある。その時に速記の資格を取っていた。

市史編さん室は1年8ヶ月、課税課固定資産税係は2年と、わりに短期のサイクルで異動した僕だったが、3つめの異動先となった議会事務局にはなんと16年間もいた。昭和50年から平成3年まで、26歳から42歳まで、この部署で仕事をした。議会事務局に入ったときには3歳と2歳だった子供たちが、出るときにはもう大学1年生と高校3年生になっていた。

平成3年4月に、その議会事務局に別れを告げ、総務課の文書法規係というところへ異動した。

この部署は、市役所の法制を一手に引き受ける部署で、きわめて難しい。
市役所の弁護士、みたいな能力を要求されるところで、あらゆる法律問題に相談に乗り、法的判断もし、条例や規則などもすべてこちらで作成する。僕はこの複雑で困難な仕事の上に人間関係まで加わって、ノイローゼになりかけた。このままでは潰れてしまう、と、自分でもはっきり認識できた。僕は一介の係長にすぎなかったが、3月に入って意を決し、直属の上司には一切相談せず、自分の心境を、当時雲の上の存在であったK助役に直接手紙に書いて送った。

そのK助役に、僕の一念が届いたようだった。お陰で、月末の人事異動で、僕はその係から出ることができた。そして、次に配属されたのが広報担当、つまり市の広報紙を発行するのが主な仕事の部署であった。ありがたい。命拾いをした。僕はさっそくK助役に、心からのお礼の手紙を出した。

そこからは、順調すぎるほど、流れがよくなった。
広報での仕事は、自分にぴったり合っていた。

取材も写真撮影も、記事を書くことも紙面をレイアウトすることも、自分の得意の分野だった。取材を通じての市民の人たちとの交流には、これまでの職場になかった生きがいすら感じさせてくれた。約38年間の中で、この仕事に携わることがなければ、これといった変化もないままに公務員人生を終えていたのだろうな~と思う。この広報の頃の思い出話は山ほどあるし、また退職したら、いろいろ書いてみたい…とも思う。

そのほか広報では、パソコンによる広報編集システムも導入し、「社内報」の市役所版である「庁内報」も自分で創刊した。充実した6年間だった。

議会事務局を出てから、文書法規係2年、広報6年と、合計8年間を「外」で過ごした後、平成11年4月、50歳の時、僕はまた議会事務局に戻った。

そしてそのまま10年という歳月があっという間に過ぎ、僕は60歳になって、間もなく定年退職を迎えるのである。

こうして見てみると議会事務局での勤務が通算26年であり、他の部署に比べ、圧倒的に長い。3分の2以上が議会事務局である。その、慣れた部署で定年退職を迎えられる自分は、恵まれているなぁ、とつくづく思う。

  …………………………………………………………………………

4日前の3月11日のことである。
午前中に妻からメールが入った。
「Kさんからお酒が届きましたよ。『吉野の樽酒1.8、坂東男山1.8』と書いて あります」

Kさんというのは、先に書いたが、かつて僕がノイローゼになりかけたとき手紙を出した、当時の助役さんである。僕は、この方によって最大のピンチを救っていただいた。今でも変わらず感謝し続けていることは言うまでもない。

8年前に勇退され、今はご自宅で悠々自適の生活を送っておられる。
毎年年賀状の交換を続けさせてもらっているが、今年の年賀状には、「お陰さまで3月で定年を迎えます」と書いた。すると2月に入って電話があり、
「年賀状に書いてあったけど、冗談じゃなく、ほんまに退職なの…? 
 へぇ~、早いねえ。まだ50歳ぐらいかと思っていたのに…」
そう言って、笑っておられた。

その元助役のKさんから、僕の自宅にお酒が送られてきたというのだ。

僕は昼にKさん宅に電話し、厚くお礼を述べた。Kさんは、
「いやいや、ご丁寧に。まぁ、ほんの気持です。長い間ご苦労さんでした。
(お酒を)ちびちびとやってください」
と言ったあと、「ちょっと待って。嫁さんに代わるわ」
と言ったかと思うと、
「もしもし、Kの家内です」
と、歯切れのいい女性の声が、受話器から伝わってきた。

「以前、あなたから主人に当てたお手紙を、私はずっと手元に置いています。そして今も時々読み返しています」といきなり奥様がおっしゃった。

奥様の言葉に僕は驚いた。手紙…とは、当時助役に当てた手紙のことだろう。
手紙は2通出した。自分の心境を綴り、今の部署では精神的に持ちこたえられそうにない…と訴えた手紙と、その後異動によって別の部署(広報係)に変わったときのお礼の手紙の2通だった。もう15年以上も昔のことだ。その2通の手紙を、奥様が、今も手元に置いておられるのだそうだ。

「あのとき、あなたの手紙を私も読ませてもらって、涙が出ました。美辞麗句で飾られた手紙はたくさん読んできましたが、あなたの手紙は、飾らないあなたのお気持がそのまま出ていて、私は感激しました。あれほど正直に自分の気持を表わした手紙というのは、私はそれまで見たことがなかったものですからね。いま読み直しても、目頭が熱くなりますよ」
そう言っていただき「あ、それは、どうも…」と僕はうろたえ、恐縮した。

でも、確かにあのとき、僕は身を削るように、渾身の文章を綴った。
それは今でもよく覚えている。
これに自分の人生がかかっていると思ったら、体裁などかまえなかった。
そこを、奥様はよく読み取ってくださったようである。

電話を切った後、しばらくのあいだ、胸が熱かった。

そして昨晩は、いただいた「吉野の樽酒」の封をあけて、飲んだ。
プンと杉の香がして、とても口当たりのいいお酒だ。

長い間公務員生活を続けてこられたのは、K元助役をはじめ、まわりのいろいろな人たちに支えられ、助けられてきたお陰である…
今さらながら改めて、そのことをしみじみ思い、樽酒に酔う僕なのでした

 


 

 

 

 

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おくられびと

2009年02月26日 | 議会&役所

3月の手帳の予定表の空白部分がどんどん詰まってきた。といっても…

仕事の予定よりも、飲み会のほうがはるかに多いのじゃ。わっはは

定年退職が近づいた僕に、勤務先である役所の、いろんな人やグループのメンバーが、僕のために送別会を開いてくれるのだから、ありがたい話である。

もう38年近くも仕事をしてきたんだな~と思うと不思議な感じがする。
なんだかなぁ…あっという間に過ぎたみたいだ。
何事も、過ぎてしまったらそう感じるのだろうなぁ。
人の一生なんて、一瞬、といってもいいくらいである。

数ヶ月前までは、退職後もまた新たに採用される再任用(再雇用)を受けようかと思っていた(期間は最長4年)。今回定年退職する者の半分以上が再任用を受けるというので、僕も去年5月ごろに、そうしようと考えた。しかし、どうも気が進まない。なぜ気が進まないのか…。考えてみれば、僕は基本的には毎日ぶらぶらと、気ままに生きていきたい志向が強い人間なのである。そんな性格なのに、なんで定年を全うしてもまだ仕事をせなあかんねん…などと、自分の選択に疑問を感じた。で、思案の末、再任用はやめることにした。フリーの身になって、やりたいことをやる…という自分自身の気持ちに忠実な道を選んだのだ。

そうなのです。僕はだいたいナマケモノなのです。

♪ 風が吹いたら遅刻して~、雨が降ったらお休みで…

…という、「カメハメハ大王の歌」に、痛く共感する人間なのです。

(ちなみに、長男も幼稚園のお遊戯のときにこの歌を聴いて、
 自分もそんな人生を送りた~い、と思ったそうです。なんちゅう奴
や)

んで…
「退職して、やりたいことって、何やねん…?」と、人からよく聞かれる。
まぁ、そんな絵に描いたような抱負なんてないけれども、強いて言えば…。
ついでだから、ここにちょっと書いてみる。

健康志向を強め、生活習慣を見直し、ジョギングや自転車、ウオーキングで身体を鍛え直したい、というのが一番目。(なにしろ、健康や体力はすべての生活の土台になるものですからね)。

次に、身の回りの整理。かつて古本屋に大量処分したが、まだ部屋のかなりのスペースを占める本だが…捨てる本、ざっと読み直して捨てる本、座右に置く本…などを見直し、また、山積みしている映画やスポーツのビデオもどんどん見て(モノによっては見ずに)捨てていく。そして、古い日記帳や、切抜きや、海外旅行から持ち帰ったガラクタ類から日常の衣類まで。それと、人に見られて困るもの(こんなのを残しておいたら、うかつに死ねない…というもの)、そういう今後使いそうにないものやヤバイものは、思い切って捨てる。…そうして身の回りをすっきりしておくこと。これが二番目だ。

次に、長年の夢だった英語を勉強すること。自由な時間が沢山あるのだから、気の済むまで英語トレーニングに没頭したい。これが三番目である。

退職1年目は、以上のような目標を立てることにした。
(書くだけですからね、なんとでも書けますわ

社会参加とか、ボランティアとかには、全然関心がないし…。
利己主義の自分をさらけ出して、束縛されない人生を送りた~い。

というようなことで、さて、話を送別会のことに戻します。

2月初旬に「ランナーズ」のメンバーに送別会をしてもらった。
「ランナーズ」とは、僕が勤務先の役所の人間の中で初めてフルマラソンを走ったことがきっかけに結成された同好会で、昔は大いに活動していたのであるが、今は消滅した。だが、その一人が、昔の仲間を募って送別会を開いてくれたのだ。その席では、過去の駅伝大会や各種のマラソン大会、サロマ湖100キロマラソンなど、走る話題に花が咲き、最後にはみんなから「退職しても野山を駆け巡ってください」と、リュックとウエストバッグのプレゼントもいただいた。感謝、感謝。必ずこのリュックをかついで、野山を駆け巡ります。

また、2月にはもう一つ、2人の友人に送別会をしてもらった。
先日このブログでも書いたが、韓国料理店で席を設けてくれたのだ。
一人は現在ECCに通っていて、僕にそこを紹介してくれた女性。もう一人は以前いっしょにハングルを習いに行ったことのある男性である。2人とも、かつて同じ職場で働いたことのある、若い友人である。女性のほうは、仕事をしながら、6年間ECCに通っている。単身で何度も海外旅行をし、旅先から英語で絵ハガキをくれたりする。僕が4月から行く予定のECCの話などで、大いに盛り上がった。楽しい送別会を開いていただき、これも感謝、感謝。

3月も、あちらこちらから声をかけていただいている。
3月は議会があって仕事はかなり忙しいのだけれど、夜も頑張ろうと思う。

手帳に書き込んだ3月の送別会のスケジュールを見ると…。

・今の職場の人たちによる送別会。これはかなり形式っぽい会である。

・今の職場の中の、有志の人たち。特に個人的つながりの深い、30歳代~40歳代の職員の人たちによる送別会。

・何年か前にスキーに行ったメンバーの人たち。僕はスキーへは一度行っただけで、他のメンバーはそれ以後毎年行っている。僕は飲み会だけおつき合いしている。そんなメンバーが送別会を開いてくれる。

・歩く会、のメンバーの人たち。京都から大阪まで歩く大会や、100キロウオークなどにいっしょに参加した人たちである。

・市議会議員のFさん(男性)が個人で送別会をしてくれる。いつもお世話になっている議員さんである。

・市議会議員のHさん(女性)も個人で送別会をしてくれる。よく一緒に飲みに行く、おしゃべりの好きな、楽しい議員さんだ。

・周辺都市の同じ仕事に携わる職員たちで作る会のメンバーたち。これは僕ひとりではなく、何人か、合同で送別会をしてくれる。形式っぽい会である。

・市議会全体がホテルで送別会をしてくれる。これも僕だけでなく、他の何人かと合同。これも形式っぽい会。

…こうして手帳を見ていると、長かった仕事生活の中で、多くの人たちとの出会いとおつき合いがあったことを、改めて実感する。送別会ではなるべく飲み過ぎないようにして、いつまでも思い出に残るような楽しい時間を過ごしたいと思う。
酔って財布を落とす…などは、断じてしてはいけないのだ。

これだけ数多くの送別会をしてもらうのも、きっとこれが最初で最後。
次に送ってもらうのは、自分の葬式の時ぐらいでしょうね。

2月も残すところあと3日。

退職まで、残り34日となった。

 

 

 

 

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 市民病院を閉じるということ

2008年09月12日 | 議会&役所

千葉県銚子市が市民病院を閉鎖すると決定したら、それが日本全国に報道された。
マスコミはこぞって「なぜ市民病院を閉鎖するのか!」と銚子市を責め立てた。

医師不足と、18億円にのぼる累積赤字が閉鎖の理由である。
しかし、その理由については、マスコミは詳しく説明はしない。
とにかく、「なぜだ、なぜ閉鎖するのだ!」の大合唱である。

それに関する「朝ズバ」の報道を見たが、この番組でも、一貫して「入院患者が気の毒だ」とか「まことに非人道的なやり方」という論調を表面に出し、患者の家族らの悲しむ様子などが映し出されていた。このように、公立病院の閉鎖に関するニュースは、ほとんどが批判的な立場からなされているのが実情である。病院側を擁護するつもりはないが、どうも報道が一方的に過ぎるような気がしてならない。

その地域に大きな病院がなかったとしたら、公立病院をなくすわけにはいかないだろう。しかし都市部では救急医療などを行っている民間病院はかなりあるので、昔ほど公立病院が絶対的な役割を果たしている、とは一概に言えなくなってきた。

公立病院は、臨床医制度の実施などにより医師の確保がむずかしくなり、患者は減る一方である。でもかかる経費は同じなので、赤字もどんどん増えてくる。1日数百万円の赤字を出し続け、累積赤字が10億、20億となっていくと、民間会社ならとっくに倒産である。じゃぁ、なぜ倒産しないのか…といえば、それは、借金とその自治体の一般会計からの繰り入れ金があるからである。だから何とか崖っぷちに踏みとどまっていられるのだ。

経営が悪化している病院は、すでに瀕死の状態にある。このまま病院経営を続けていくと、病院の赤字を補填するために住民の税金がますます大量にそちらへ投入され、本来の行政運営……福祉や教育や生活環境や道路・下水道の整備などへ向けなければならない資金がどんどん流出していく。その結果、自治体そのものが財政破綻を来たし、夕張市のような赤字債権団体に陥る。そして行政サービスは悪化し、公共料金の値上げなども招き、住民全体に大きな不利益を与えてしまう。それを防ぐために、やむなく病院を閉鎖する…という苦渋の選択を強いられた、というのが実情であろう。

病院にも大きな責任があることは言うまでもない。ここに至るまでの病院経営の甘さが指摘されよう。しかし、民間病院のように、利潤を上げるために不採算部門を切り捨てたり、入院患者を半ば強制的に短期で退院させたりすることは出来ないという公立病院特有のハンディは避けられない。赤字を出しても、診療科目を縮小したり、救急部門を廃止したりすることはむずかしい。治療費を支払わない患者、退院を促されても病院に居座る患者、そしていわゆるモンスターページェントと呼ばれるような患者は、民間よりも、公立病院に圧倒的に多い。おまけに、公立病院は給料が民間病院より安いので、医師は来たがらない。そんな、ありとあらゆる不利な条件を引きずりながらも、とにかく経営を続けなければ、公立病院としての使命は果たしていけない、というジレンマの中で、常にもがいているのである。

病院経営がとことん悪化すると、立て直すのはほぼ不可能と言っていい。

最近、知人の方から「医療は再生できるか」(杉町圭蔵・著)という本を送っていただき、それを読んで、公的病院を改革するのは本当に難しいことだとつくづく思った。著者は九州中央病院の院長なのだけれど、赤字続きだった同病院を画期的な手法で一大改革をした経験をもとに、この本を書かれた。公務員的感覚でやる気のない仕事ぶりが蔓延していた病院内で、思い切った手法を断行し、活気のなかった病院を見事に再生させた人である。しかし、大学の医学部と密接な関係を保っていた分、医師の確保には苦労しなかったことは、恵まれていたといえる。ここのところが、最も大きなポイントになる。

僕は今年の5月、ウチの市の病院再建問題で、市議会議員団が長崎市民病院へ視察に行ったときに同行して、長崎市の病院建て直し対策の一部始終を聞いた。ここも、大変苦しい経営状態ではあったが、長崎大学の医学部と太いパイプを持っていたので、医師の確保だけは困らなかった。だから再建もうまく行ったのだろう。

医師が市民病院に来てくれない…というのが、公立病院の致命傷となっている。

銚子の市民病院の閉鎖は、過去の経営努力不足はむろん猛省しなければならないが、やはり、臨床医制度などをきっかけに医師が来なくなり、大きなダメージを受けたようである。事がここに至ってしまったからには、閉鎖は、止むを得ない選択であったと思う。市長は、まさに断腸の思いであったろう。

病院をこれ以上続けると、銚子市自体がもはや取り返しのつかない財政危機に直面しなければならない。その影響をまともにかぶるのは、銚子市民だ。病院を存続すると、そこが日々生み出していく赤字によって、他の政策が実現できないということを、マスコミもある程度理解してやらねばならないと思う。そこへ、銚子市長が、病院閉鎖の議決がされる直前に、ある議員に肉を贈ったとかなんとかというニュースでまたマスコミが騒ぎ立て、話の本質がそんな瑣末なことでボヤかされているのは、悲しいことである。

とにかく世間は、病院を閉鎖するということは「悪いこと」という観念が強い。
閉鎖は好ましくないが、市が生き残るためにはやむを得ない側面が大きいのだ。
(病院を持たない市町村には、そんな悩みはない。気楽なものだ)。

先週の日曜日に最終回を迎えたTVドラマ「Tomorrow」も、テーマは市民病院の閉鎖をめぐる話だった。しかし、実際のドラマでは、植物状態になった人間に、人工呼吸器をはずすかどうかという、尊厳死みたいなものが大きなテーマの一つとなっており、なぜ市民病院を閉鎖するのかという問題のほうは、今ひとつわけがわからなかった。病院をつぶして、そこを一大リゾート地域にしようという代議士の野望の下で画策されたことのように描かれていた。そんな理由で市民病院を閉鎖するような市長や代議士は、おそらくこの世には存在しないだろう(それと、代議士には市民病院を閉鎖する権限はない)。

ドラマのラストでは、ある事故をきっかけに医師や看護師、住民たちが結束して、閉鎖が決まった市民病院を再び復活するというあまりにご都合主義なハッピーエンド。その「いい人たち」に対して、「悪人」は、その代議士と、病院閉鎖を議決した市議会、ということになっていた。肝心の市長というのがほとんど出てこなかったし、副市長の陣内孝則は「善人」だったのがちょっと不思議であったが…。

まあ、銚子市民病院の一件や、こういうドラマを見ていると、病院を閉鎖することはとんでもない悪事で、中でもそれを決める市長や市議会は悪人中の悪人…みたいな印象を与えるけれども、そんな皮相的な見方だけで終わらせることのできる問題ではない…ということを、銚子市を超える累積赤字を抱えている病院を持つ市で働く者の一人として、僕は痛切に感じているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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