めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

日本における高齢者の存在

2015-12-12 15:15:30 | 高齢化社会

後30年もしない内に、日本は、世界でもトップクラスの老齢大国となります。
若者の数は更に減り、巷には高齢者が溢れ、国内の生産性は増々低くなり、
人口減少と共に、国力の減退が大きな問題となる事が予想されます。

その為、今や、国を挙げての老人対策に躍起となっていますが、
何をするかという事よりも、一番の問題は、どの分野においても資金不足です。
国家予算が目張りする中、福祉関係への予算は、年々規模を増し、
多くの負担が、日本中の家庭に重くのし掛かって来ています。

若い労働者の減退で、生産性がますます落ちて行く傾向の中で、家族と言う
国の一番土台になる形態すら崩れてくる可能性が高くなって来ました。
多くの国家予算を消費する高齢者を支える為に、国も家族も苦境に立たされ
高齢者の存在は、家族にとって日本国家にとっても大きな負担となって来るのです。

しかし、この問題は、単に、高齢者と言う線引きの元、若い労働者や家族が
負担を負い、国が面倒を看なければいけないと言う考えです。
老人問題を考えるにあたって、杓子定規的に、高齢者は誰かが面倒を見ると言う
従来の考えでは、この呪縛からは逃れられないのです。

おりから、日本は、世界に名だたる長寿国であり、例え還暦を迎えたとはいえ
多くの方が、まだまだ現役で働ける状態なのです。
50年ほど前の60代は、いまでは、80代とも言えます。
確かに、長い間、仕事に励み、家族を養って来た方々に、晩年を楽に過ごさせる事は
大切かも知れません。しかし、数十年働いてきた人が、ある日突然、職を奪われ
一日の目的を失うという事は、例え、生活に支障が無いとしても、本人にとって
良い事とは言えないのです。

仕事から解放されて、元気を取り戻し、悠々自適の生活を送る方も中にはいますが、
殆どの方が、辛い仕事から解放された途端、様々な病気が誘発し、一気に老けて
生気を失い、長い闘病生活に入ってしまう事も珍しくは無いのです。

人は、生きる意味、生きる楽しみ、自分の存在意味を持っていると、いつまでも元気で
充実した人生を送れるものです。
その為に、例え辛い毎日であっても、自分がこの世に存在する意味を感じていれば
どんな環境でも耐えられ、ある意味、健康な毎日を送れるのです。

退職金をもらい、年金を支給されていたとしても、自分の存在意味を失ってしまえば
単に生きて行く為に食べるだけの生活になってしまい、まず、心の中から病が生まれ
いずれ全身に移って行く事は明らかなのです。
老人対策は、食べて行くだけの、病気を治す為だけの融資対策では片手落ちなのです。

老人たちがする言葉の中に、ビンビンコロリ、と言う言葉が有ります。
これは、死ぬ寸前まで元気でいでいる事を理想として言っています。
ピンピンは、健康な身体と思いがちですが、その前に、充実したこの世に存在する
意味を感じている心が有るのです。
ただ食を与えられている家畜ではないのです。

この言葉の真の意味は、死ぬまで、自分が誰かの為に何かの為に役に立っていて
この世に存在する意味を噛みしめられる生活がしたいという事です。
つまり、現役で働いている事なのです。
ただでさえ、国民総生産が低迷しているのに、働けない人を、老人と言う名の元
非生産性の高齢者として扱うのは、敬老ではなく差別としか言いようが有りません。

高齢者が死ぬまで自分の存在を感じられる仕事を数多く考えるのが先決です。
超高齢者まで、議員の椅子でふんぞり返っている狸や狐には解からないかもしれませんが。
高齢者と成ると、国を挙げて厄介者を抱えているような扱いは、国にとっても、非生産性を増し
多くの負担がのしかかって来るだけです。

また、老人だからと、むやみに奉るのも、また、失礼な話です。
若者であろうと、老人であろうと、一人の人間として扱い、敬意を払う事が大切です。
労働力と言うのは、社会に出てから、本人の意思が有る限り、死ぬまでと考えるのが
国民全体を豊かにする一番の方策と思われます。