自分は、一体何者!?
この問いに答えられる人は、いるのでしょうか。
自分自身が思う事と、人が思う事は違っている事が多く、合っているとしても
客観的評価であり、他人の評価は、幾多も有り、時と場合によって様々に変わり
本当の自分を言い当てているとは言えないのです。
ならば、自己評価が一番正しいと言えるのかと言えば、その評価も、知識や情報によって
自分を評価したに過ぎず、それとて、正確に自分を言い当てているとは言えないのです。
つまり、自己を正しく評価する事は誰も出来ず、例え自分自身で有っても、本当に正しく
規定する事は不可能と言えるのです。
この命題は、とても難しいという事ではなく、これと言った特定の判断評価が出来ないのです。
あなたは誰!?と言われても、自分自身の説明は、生まれてから後天的に定められた、他の人と
区別する為の特徴を示したり名を付ける事に依って他の人との差別をしただけなのです。
自分であろうと他人で有ろうと、自分の事を説明するには、社会的評価であったり、
外見的特徴でしかないのです。
しかし、自分が一体誰なのか、何のために存在しているのか、今後どの様に成って行くのかが
自分で理解できていないと、人間は不安を覚え、前に進む事が出来なくなってしまうのです。
多くの方が、定年退職して肩書きが無くなってしまった途端、急に老化したり、何をして良いか
解らなくなってしまう事からも、自分自身が何なのかを見定める事が重要と言えます。
世の中の様々な事を知ったり、スキルを多く身に付ける事は出来ても、自分自身が、一体何者か、
一体誰であり、何のために生きているのかが解らなくなると、一体どうしていいか解らなくなって
この世に存在する事すら意味が無いように思ってしまう人もいるのです。
多くの人が、悩みと言えば、経済的な事とか、対人的な事を上げますが、それらの悩みは、
悩みの対象が無くなったり、人が変われば、たちどころに解決する事も有り、本当の悩みとは
自分の心の中にいつまでも住み着いているものなのです。
高齢に成っても仕事を続けていて、誰かの為に働いている人は、長生き出来る人が多いです。
逆に、何もしないで、自分の欲望のままに生きている人は、意外と長生きできないと言われます。
誰かに求められて仕事をしていたり、誰かの支えになっていると思えると、人間は、自然と
心も身体も元気でいられると言う調査結果も有るのです。
これらの事は、自分の存在する意味が、人の為に有るとする事で頑張れるとするのですが、
ならば、奉仕活動に終始すれば、皆元気に成ると言えるのですが、そうとも言えず、多くの
高齢のボランティアの方々が特別長生きと言う訳ではないのです。
人は、長寿であれば幸せと言う訳では無く、生きて来た人生が長かろうが短かろうが、
自分自身が己の生き方に納得が出来れば良いのです。
自分の生き様に、幸せを感じられれば、どんな生き方をしていても、本人にとっては
充実した人生と言えるのです。
近年、社会が成熟した先進国家における人々の個々の悩みが増えています。
経済的に豊かに成って、欲しいものが手に入れられる様に成っても、心は満たされず、
自分の選んだ道や人生に対して不信感や挫折感を感じる人が増えているのです。
今年、スペイン人が書いた「生き甲斐」という書籍がベストセラーと成りました。
従来、仕事とプライベートを完全に切り離して考える習慣があった欧米人が
経済的豊かさを求めて仕事をしても心が満たされず、プライベートにも影響が
出ていると言う悩みが在った様で、極めて日本的な感覚が多くの人の心を掴んだ
と言えます。
何のために仕事をしているのか、ただ、経済的に豊かと成って欲しい物を手に入れれば
幸せに成れると考える欧米人が、人として如何に生きて行けばいいのかという
極めて、個人的なメンタルな部分に注目する様に成って来たと言えます。
この生き甲斐と言う言葉は、欧米人にとっては新鮮に感じるのかもしれませんが、
日本人は、太古の昔から、生きがいを求めて歴史を重ねて来ました。
この原点は、やはり、日本人と欧米人の自然に対する感覚の違いであったと思われます。
欧米人が、自然は人間が支配し利用するものと考えるのに対し、日本人は、昔から
大自然と共に生き生かされる事を常としてきたのです。
つまり、人間の利益の為だけに自然を利用するのではなく、人間も自然の一部と考え
お互いに食物連鎖の元で調和して生きる事を目指して来たのです。
とは言え、明治以降、西洋から消費社会文化が伝わって来て、欧米人の考え方が
日本人の考え方と置き換わってしまったのです。
確かに、明治以降、日本は、資本主義国家として欧米社会を見習い、自然を利用し
豊かな経済社会を目指したのですが、日本人の苦しみは、この時から始まったとも
言えるのです。
それまで、自然と対峙する事で、自分達人間の役割を感じ、人の気持ちを察する事で
調和のある社会を築いてきたのですが、生活が欧米並みに豊かに成ったものの
人々の心は常に癒されず、どんなに経済的に豊かな暮らしをしても心が満たされず
生きる事の苦しみを感じる日本人が増えてしまったのです。
私たち日本人の命の糧である大自然は、高度成長に伴い破壊され、日本人が常に
日常的に感じていた自然の息吹や豊かさを感じる事が無くなってしまったのです。
この事は、私達の心の指針が失われてしまったと同じで、そこに入り込んだ
経済的豊かさが、人々の心を癒すどころか、様々な問題を生む事と成ったのです。
世代が進むにつれ、若い人達は、最初から消費経済社会に慣れて育っている事から
日本人の持っている豊かな感受性や人間同士の思いやりが感じられず、唯与えられた
便利で豊かな物にしか魅力を感じる事が出来なくなって、常に消費される品々に
振り回せれて一体何を求めているのかが解らなくなっている者も少なくないのです。
自然に対してだけでなく、対人的にも、利益享受で繋がっている場合が多く、
人の心深く他人を理解する事が出来ず、お互いに勝手な思い込みでトラブルを生む事が
とても多くなっているのです。
欲しいものが与えられている時は従順ですが、得られなくなると、切れたり過激に
感情を表している者も少なくなく、消費経済社会が生んだ不幸と言えます。
欧米人が新鮮な感覚として捉えている生き甲斐とは、人や自然に対する感謝の気持ちが
底辺にある事は言うまでも有りません。
自分達が生きていられるのは、大自然のお陰であり自分を生かしてくれている周囲の
人達のお陰でも有るのです。当然、この関係は、相互作用が働きますから、自分からも
他人から喜ばれる行いや言動が出来る事が大切です。
自然に対しても、ただ利用するだけでなく、自然の摂理が滞る事無く、人間社会が
破壊したり傷つけたりしない様に努力する事が前提と言えます。
人は、他人から存在を認められ生かされ、人類は、自然の中の大切な存在である事を
地球に示していかなければならないのです。
今や、人類は自然にとって悪魔のような存在と言えます。毎日数万の種が絶滅しています。
そして人々は、お互いに自分の利益だけ考え、常に争う事から免れません。
自分達の存在を示すために、膨大なる利益を持って主張する人々がいる一方、
多くの人達が、日々の暮らしもままならず、中には飢餓に苦しむ人達も増えているのです。
この現実は、人々が、本当の喜び豊かさを、経済力に求め、人の心の豊かさを育てる事を
忘れてしまった結果とも言えます。
人間は、生まれた時、誰もが、一人では生きては行けず、両親だけでなく多くの人の力で
育てられているのです。この事は、人として生きる原点でもあり、いつの間にかに、
自分だけの利益や欲望の為に生きるように成って、様々な争いやトラブルが生れたのです。
多くの人々が、自分自身の存在を感じられず、一体何のために生きているのか解らず、
ただ、社会的な豊かさを持って自分の喜びとした事で不幸が始まったと言えるのです。
経済的な豊かさは、あくまで、人々の心を豊かにする為の手段であるべきなのです。
人々の心とは、誰しも同じではなく、違っているからこそ、お互いに認め合って助け合って
生きて行かなければ、幸せな人生は送れないのです。
自分自身の存在意味を感じる為にも、人々と自然に対する豊かな心を育てる事が大切です。
大都会にいる多くの人々が、自分自身に対してどれ程の喜びを与えてくれているか
自分の身の回りにある経済的に豊かな品々が、どれ程自分の心を癒してくれるのか
数や量では無い事は解ると思います。
自分自身の存在価値を知らせてくれるのは、自分自身の唯一無二の心を認めてくれる人と
いつでも命の糧を与えてくれて自分を受け止めてくれる大自然でなのです。
他人に喜びを与える事が出来れば、他人は、自分の存在を認めて癒してくれるのです。
自然を慈しみ、命の繋がりを無くさない様にすれば、私達に豊かな糧をもたらしてくれるのです。
自分を発見するには、まず、他人を認める事から、そして、自然の糧を得る為には
身近な自然を復活させる事から始めなければならないのです。