めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

メディアに振り回される日本人

2017-04-20 17:15:25 | 日本人

マスコミやネットの情報は、人々の生活を一変させたり、
多くの人々の言動行動をコントロールしてしまう事が多いです。
今や、国民の共通の考え方の多くが、マスコミやネットを通じて
植え付けられた固定観念に根差している事が少なくなく、
物事の判断基準が、自らが熟考して生み出したことではなく、
メディアなどの情報を、そのまま鵜呑みしている場合が
目立ちます。

また、多くの人々と同じ考えを持つと言う事は、生きていく上で
安心感があり、逆に、人と違う事を行ったり考えたりすることに
大きな抵抗を感じる事も有るようです。
その為、社会の主流と成る事が大切で有り、如何にその時代を
支配している人々と近い生活をするかが、豊かな生活に繋がる
方法とも言えます。

いつの世も、支配者たちに都合の良い様に社会は作られ、
人々の暮らしは、その社会にどれだけ迎合できるかで決まります。
日本社会の発展は、時の支配者に依る社会構想によって支配され、
多くの庶民は、生きるために、支配者の言いなりになるのです。

メディアやネットに依る情報は、自由な社会の象徴の様に思えて
人々を啓蒙し洗脳し、この、縦列社会を維持するものと言えます。
産業を発達させ、国民の生活を豊かにすると言えば、聞こえは
良いのですが、基本的な生活が守られないで、支出ばかりを強いる
現在の社会機構は、多くの人にとっては、苦痛であり重荷です。

ならば、楽になるべく、経済的に豊かに成るように頑張れば良いと
言うのは、経済的に満たされている人たちの余裕の言葉であり、
励ますと言うより、自分達の地位から蔑む言葉と変わりません。
自由主義社会に於ける国民の平等とは、同じような経済力を
持つと言うものでは有りません。増して、経済力が優れていると
言うのは、人間の価値を決めるものでもなく、幸せの基準では
無いのです。


問題は、社会の情報の多くが、経済的に豊かな生活をする事が
幸せで在りステイタスと考える人々を作っている事です。
その為、経済的に豊かであっても、人間としては最低の人も多く、
外見だけの、人の上に立つ器が無い人が、社会のリーダーとして
マスコミやメディアに登場している事実です。

連日報道される、政治家の不祥事、教師の裏切り行為、医療過誤
取り上げたらきりが有りません。
たまたま発覚した事が、マスコミに取り上げられているだけで
しょうが、水面下には、星の数ほどの庶民を仰天させることが、
進行していると思われます。


日本は、経済的に豊かになったとは言え、日本国民の、人としての
成長は、至る所で滞っていて、子供たちにとって、一体何を見習い
誰を目指せば良いのかが解らない時代と成っているのです。
何でも手に入る時代になったが故に、誰もが、私欲にまい進
する様に成り、遂には、人の物にまで手を出すのもい問わない
時代となったようです。


今の日本社会で一番の退歩は、人としてのマナーが欠如して
いることです。

人から人への、正しい伝承が無く、マナーを単に、世渡りの
ハウツウとして、利用している人は多く、その陰には、

常に私欲がちらついているのが見えて、例え、礼儀正しい人
と言えど、その行動言動に、相手を心から思う気持ちが
感じられません。
まるで、俳優のセリフの様に、いい人を演じる人も多く、
数々の詐欺事件も、男女のトラブルも、自分の事しか考えない事が
原因と言えます。

海外の方からすると、日本人は礼儀正しく優しいと言いますが、
それは、
旅行者に対する思いやりがそう感じさせるのであって、
利害関係が無ければ、伝統的な外交辞令として、幾らでも優しく
出来るのです。

しかし、一度利害関係が生じると、途端に、態度が冷たくなり、
特に、
日本に出稼ぎに来ている外人に対して、非常に厳しい態度を
示す日本人も少なく有りません。

中でも、経済的に厳しい地域や国からの人々に対し
上から目線の態度で、乱暴な扱いをする日本人もいて、
この差別的な態度は、日本社会に於いても経済的に豊かな人達の
生活苦の人達に対する態度と変わりません。

日本に於いても、海外に於いても、マナーと言うものは、
相手に関わらず、他人に対する敬意と思いやりから

生まれるのものです。
この態度は、経済力の有る無し、社会的な地位の有る無しに
関係無く、人間としての生き方の根源とも言えるものです。



しかし、この人と人との関わり合いが薄れつつある日本に於いて、
人々の価値観は、経済的な部分に関心が移り、あこがれの対象が
メディアで紹介される、経済的豊かな人々と成りました。
この事は、地位や名誉、財産が手に入れば、何でも許されるような
我儘な社会を創り、対人的トラブルの温床とも成っているのです。


この事は、今の社会を創っている人にとっては非常に都合よく、
人々が目指す商品を与えさえすれば、国民は満足し、永遠に増収が
見込まれると言う勝算が成り立つのです。
なまじ、人としての在り方を問題とする社会と成ったりすれば、
数々の不祥事をするにもリスクが高く、甘い汁が少なくなるのです

社会保障制度が次第に充実するようになって、日本社会も、
高齢者や
子供達に対する様々なサポートが誰でも受けられる様に
なったのですが、今の日本社会の弱者に対する態度は、

良く見られたいが為の態度は有っても、本当に高齢者達の
気持ちを理解しないで、親切の押し売りを優しさとしている場合も
目立ちます。


年寄りがバスや電車に乗って来たから、席を譲るという、
決められたルーティンを行っているだけの人も多いのです。
それでも良いのではと思われる方も多いかとは思いますが、本当の
思いやりとは、その人が具体的に発する身体的状況を見て
行うべきなのです。

しかし、席を立つ事が、年寄りに対する正しい行いと思っている
人にとって、
席に座った人の立っている時、座った時の思いは
感じられません。

年寄りだから、身体が不自由だからと言って、席を代わる
だけでは、
席を代わられた人も、代わった人も、
人としての関わり合いから得られる、人としての心の成長が
無いのです。

人の行動には、必ず理由があり、何故、その様な態度を
行ったかは、それ相応の理由があるのです。
増して、対人的な行為は、相手の心と自分の心の触れ合い
によって生じます。

どれだけ相手の気持ちを察する事が出来るかで、正しい、
対応やマナーが生れるのです。
ハンバーガーショップの応対の様に、単に、機械的な応対を
するのではなく、
本当に相手が望んでいる事を感じながら、
自分の態度を示す事が重要です。


もちろん、親切な行為を受けた人も、相手の気持ちを
しっかりと察する事で、
その場に相応しい態度と言葉に
成るのです。

所が、様々な場所で、老人と若者たちの間に交わされる
一連の動作に、いささか寂しさを感じる事が有ります。

特に、席を譲る側が、老人に対するエスコートが全く無く、
言葉も動作も無いがままに、
逃げる様にその場を立ち去ろうと
します。

すると、譲られた側からすると、何か悪い事をしたように
思えてしまうのです。

この事は、普段の生活においても、同じような意思の疎通が
感じられない、
義務的な態度で、その場の空気が悪くなって
しまう事が有ります。


心の籠らない、表向きの態度に、慇懃無礼と言う言葉が
有りますが、
最近の日本社会には、この手の外面だけの人々が
結構多いです。

若者たちの言葉の問題もありますが、立派な大人の言葉遣いに
相手の事を本当に理解し思いやっていない、実は、自分の事しか
考えていない言動が少なく有りません。

日本人が太古の昔から培ってきた最も素敵な態度とは、
人を含め、万物に対する感謝と思いやりです。
いかなる時も、自然に生かされ人に育てられていると
考えることで、日本人特有の繊細な奥ゆかしさと優しさが
生れたのです。

今の日本社会に一番足りないもの、それは、資本主義経済が
成せるものか、人々が、自分の周囲の他人に対しての
思いやりに欠け、更には、私達を育てている日本の大自然に対し
無頓着であることです。

人々の心は、潤いを失い、餓鬼の様に、ただ私欲に任せて
何でも欲しがる、世界にはとても誇れない人種となりつつある
のです。

連日報道される著名人の不祥事や蛮行は、正に、日本人の
礼節が乱れ、ただ、上だけを見てつま先立ち、己の欲望しか
見えなく成っている人が多くなっている事を示しています。

ざっと、自分の周囲を見回してみましょう。
沢山の生活用品が所狭しと部屋を占拠しているでしょう。
どんなに高価なものでも、自分の心からの思い入れの
有る物は、本当に少ないと思います。
古くなれば、悪くなれば、捨てれば良いと言う、
消耗品ばかりです。

何年も何十年も、はたまた子孫に伝えたいものは、
少ないと言えます。

日本人の生活は、殆どが、消費の為の生活と言って良いのです。

テレビでは連日新商品が並び、今ある物を捨て去る事を
薦めます。

生活用品でも食品でも、使い捨てを推進する社会といえます。
品物だけでなく、人間関係も、興味ある時は意気投合しても、
興味が無くなったり、自分にとって利益が無くなれば、
簡単に、縁を切れる関係が多くなっています。

対人関係と同じく、相手にとって自分にとって、本当に相応しい物
価値の有る物を感じる力が無いと、あらゆる生活の場で、
社会の流れに簡単に押し流されて、本当の幸せを見失って
しまうのです。


高齢者だから、身体が不自由だから大切にしなければな
ならないのでは無いのです。
人間として、お互いに幸せを分かち合えるから大切に

しなければならないのです。
物の様に、使えなくなったら棄てれば良いと言う物ではなく、
更には、新たに求めれば良いと言う物でもないのです。

お互いに深く相手の事を感じることが出来れば、人間として、

より豊かで幸せな人生を歩めることが出来るのです。
連日、溢れる程の情報が目に飛び込んできますが、例え便利で
経済的であったとしても、それで幸せになるとは
言えないのです。

現代の日本人の不幸は、便利で経済的を幸せと勘違いしている事

であり、勘違いさせる社会に生きている事です。
もちろん、経済的に社会が発展する事は重要です。しかし、
人としての本質を見失ってしまっては、単に、食べすぎの
裸の王様になるだけなのです。