今年もこの日がやって来ました。
毎年ニュースに取り上げられ、あの惨事を思い出します。
それにしても、人の運命というのは想像し得ない出来事を生みます。
この時、たまたま搭乗をキャンセルした人、そのキャンセルされた
チケットを手に入れ事故に巻き込まれた人、その運命の糸は
あらゆる歴史のページに取り上げられます。
この世に生かされる人と生きる事を絶たれる人との差は何なんでしょう。
私の高校当時の英語の先生も、広島原爆投下の当日、軍の見張り台番を
同僚に代わってもらい、広島郊外の山の裏にある実家に帰っていたため
原爆の直撃を免れました。
人の生きる長さは長くて100年です。
でも、生まれて間もなく命を絶たれる人もあり、100歳を超え天寿を全うしたと
言われこの世を去る人もいます。
生きる長さに意味を見出すのは、残された人の思いであり、死んでいく人には
長さは何の意味も無いようにも思えます。
とは言うものの、人は人の中に生まれ人と共に生きています。
生きた長さに関わらず様々な思いをお互いに抱き合います。
その思いが強ければ強いほど、その思いが断たれると悲しみは深く増していきます。
私達は多くの人々と沢山の喜びを感じながらも、悲しみをも心に抱きながら
生きていく運命にあるのです。
生まれる喜びと死ぬ悲しみは別の物ではなく、人が生きていく間は常に
心のどこかに存在し、その都度、再確認させられる様にも思えます。
私も、もしかしたら小学生で命を絶たれてしまったかも知れません。
運よく生かされてきた事の意味は未だに解りません。
私達家族の命を救った父は今病床にあり、高齢である事もあって
近い将来運命の扉を開ける事となるでしょう。
そんな父を看護する我々も、いずれ父の後を追います。
幼くして人生を終える事と、今まで数十年生かされたことのどちらが
自分にとって周囲にとって良かったのか、解る術も有りません。
この時期になると、私の歌うカラオケに坂本九さんの歌が増えます。
何故か、上を見上げ歌っています。
様々な思いを突然絶たれ、御巣鷹の山に消えた彼の歌声が
暑い季節になると思い出されます。