電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治初期の学生たちの大半は士族だった

2014年11月15日 06時02分56秒 | 歴史技術科学
明治初期に、お雇い外国人教師たちに師事した日本人学生は、どういう人たちであったのか。これは、圧倒的に士族が中心でした(*1)。廃藩置県の前は、各藩に貢進生と称して若く有能な青年たちを送り出すように命じますが、やがて廃藩置県によってこの制度も途絶えます。結局は、失業した元武士の子弟が、識字力と漢籍を中心とする教養及び一部は蘭学の知識を土台として、西洋の諸科学を吸収していくことになります。

残念ながら、明治初年のこの時期に、士農工商のうち農工商の身分の人たちには、学問をして立身出世という意識はまだありませんでした(*2)し、東京遊学を支える経済力を持つ中産階級や資産家は、まだそういう意識を持っていませんでした。



工部大学校や司法省法学校など、官立の高等教育機関は、給費生と私費生からなり、給費生は、学費はもとより制服などの諸経費や食費も官費で支給される代わりに、一定の年限を官に奉職する義務を負っていました。天野郁夫『学歴の社会史』によれば、明治9年の駒場農学校入学者の94%、明治13~18年の札幌農学校の卒業者の76%、明治13年の司法省法学校入学者の84%、明治18年の工部大学校在学者の72%が士族出身者であったとされています(同書p.52)。 また、明治11年の東京大学(法・理・文3学部)在学者157名の九割が給費生であり、在学者の4分の3が士族の子弟であるとの記録が残っているとのこと、このとき全人口に占める士族の比率は5~6%であったそうですので、いかに士族から官僚への道が中心であったかがわかります。

(*1):天野郁夫『学歴の社会史』(平凡社ライブラリー,2005)
(*2):明治11年の『日本帝国文部省年報」では「富豪ナル平民ノ子弟ノ未ダ専門学科ヲ攻究セントスル志気充分ナラザル」ため、とのことです。天野郁夫『学歴の社会史』p.48
コメント

明治初期における科学・技術に関する専門的教育の状況

2014年11月14日 06時02分10秒 | 歴史技術科学
ここまで、開成学校と工部大学校を中心に、リービッヒ流の化学研究と教育のスタイルがどのように日本に伝えられたかを見てきました。この際ですので、明治初期の日本国内における科学・技術に関する専門的教育の状況を整理してみたいと思います。

明治維新のあと、国内の体制を固めるのにおおわらわだった明治政府ですが、人材育成に関しても、今で言う省庁ごとにバラバラで、統一的な教育政策のようなものは見られません。

例えば、1870(明治3)年に、民部省の一部が独立して設置された工部省には、山尾庸三の建白によって、殖産興業を担う人材育成のために、1871(明治4)年に工学寮が設置され、1873年に工部大学、1877年には工部大学校となります。残された写真を見る限り、石造りの実に立派な建物で、普通教育を行い留学生を送り出す役割を担う開成学校よりも、格段に立派です。開成学校を現在の東京大学のイメージで見るのは誤りで、工部大学校を大学レベルとするならば、開成学校は高等学校あるいは昔の教養部のような位置づけだったのでしょう。


(東京医学校)

江戸幕府時代の医学所は1868年に明治政府に接収されて医学校となり、1869(明治2)年には英国人医師ウィリスを教師に迎え、教育を開始します。1871(明治4)年には大学校の内紛に伴う閉鎖や、イギリス医学からドイツ医学への転換などがあり、1872(明治5)年の学制により第一大学医学校、次いで1874(明治7)年に東京医学校となります。1877(明治10)年には東京開成学校と統合されて東京大学となります。このあたりの、とくにウィリスの処遇とその後の影響については、吉村昭著『白い航跡』にかなり詳しく描かれており、興味深く読んだものでした(*1,2)。かつての東京医学校の建物は、小石川植物園内に移築されているそうです。

明治19年に官立学校の大合併で帝国大学が成立する以前に、「学士」の称号を与えることができた高等教育機関には、医学校と開成学校が合併した東京大学と、司法省法学校、工部省工部大学校、農商務省駒場農学校、そして開拓使札幌農学校の五つがありました。フランス風の法学を教えたという法学校については知識がありませんので省略しますが、内務省が設立した駒場農学校でも、リービッヒの盟友の門下生がお雇い外国人教師として奉職しておりました。


(駒場農学校)

1876(明治9)年に、英国からエドワード・キンチが来日し、駒場農学校において、化学分析に基づく農芸化学を教え、農学研究と農場における実践的研究を指導します。エドワード・キンチの詳しい経歴は不明ですが、後にA.H.チャーチの『The Laboratory Guide for Students of Agricultural Chemistry(農芸化学の学生のための実験室ガイド)』の編集改訂に携わった経歴からみて、実験室を通じて学生を理論と実験の両面から育てるスタイルを重視していたと考えられ、やはりリービッヒからウィリアムソンに続く流れの中にいた一人であると見て良いだろうと思います。キンチは、日本国内における英国流からドイツ流への転換を受けて、1881(明治14)年には帰国してしまい、かわってドイツからオスカル・ケルネルが来日します。

ケルネルは、リービッヒの盟友ヴェーラーの門下生であったヘルマン・コルベの下に学んだ化学者で、リービッヒ流の化学教育研究法を正しく日本に紹介した人の一人として知られている人物です。ケルネルは、1892(明治25)年に離日するまで、日本人女性と結婚し日本に永住する覚悟でいたようですが、故国ドイツからのたっての要請でやむなく帰国し、家畜飼料のエネルギー価の評価法を確立するなど大きな業績をあげ、オスカー・ケルネル研究所にその名を残しているとのことです。このあたりも、たんに英国からドイツ流に転換するというだけでなく、人選には英国のウィリアムソン教授の師匠すじの人、という推薦や判断が働いているような気がします。そして、駒場農学校のケルネル門下からも多くの人材が輩出しますが、後世にその名が残る人物としては、足尾鉱山鉱毒事件の関連で名高い古在由直がいます。


(*1):吉村昭『白い航跡(上)』を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月
(*2):吉村昭『白い航跡(下)』を読む~「電網郊外散歩道」2009年8月

コメント

お雇い外国人教師の活動

2014年11月13日 06時09分42秒 | 歴史技術科学
来日したお雇い外国人教師たちは、不案内な東洋の島国の、風俗や習慣もまるで異なる東京の町で、サムライ青年たちが中心となる若者たちに、それぞれの教育を始めます。

福井で実験室を作り化学教育を行っていたグリフィスは、廃藩置県で職を失い、東京に出て来た開成学校に化学実験室はなく、作られるという見通しもなく、途方に暮れたことでしょう。おそらく、まもなく帰国してしまった理由は、そのあたりにあったのではないかと推測しています。

後任として化学を担当したアトキンソンは、ガスも水道もない開成学校で、実験を通じて化学を学ぶという、リービッヒから師ウィリアムソン教授につながる教育のスタイルを実現しようと奮闘します。幸いに、直訴した伊藤博文らの応援などもあって、少しずつ実験室を整備し、教育と研究ができるようになっていきます。開成学校において行った授業は、定石通り定性分析から始めて定量分析に進みますが、当時の鉄鋼業の中心地ニューカッスルに育った人らしく鉄鋼の分析など冶金学の授業も行ったようです。彼の下からは久原躬弦、高松豊吉など36名の化学者が育ち、のちに彼らが中心となって東京化学会が設立されます。1878(明治11)年のことです。


(写真は工部大学校)

一方、工部大学校(*1)のダイアーやダイヴァースらは、近代的工業の存在しない日本で、母国イギリスでもまだ行われていない体系的な工業教育を開始します。とくにダイヴァースは、開成学校と比較して格段に優れた工部大学校の環境と優れた学生たちに恵まれて、1873(明治6)年から1899(明治32)年まで、26年間1度も日本を離れずに滞在しています。彼は、学生たちの間に研究の精神を養うことに努力し、実験を通じて地道に検討していくスタイルと気風を重視しました。工部大学校化学科で卒業した教え子は23名、1886(明治22)年に工部大学校が帝国大学に合体した後は、今風に言えば工学部ではなく理学部化学科に転じますが、ここでの卒業生が36名を数えます。教え子たちの名前の中には、アドレナリンとタカジアスターゼの高峰譲吉、下瀬火薬の下瀬雅允などが見られます。

しかしながら、高い給料を貰っているとはいうものの、故国を離れ、かつての仲間たちから取り残されていくような感覚を、彼らは感じたに違いありません。そんな空虚感をまぎらすかのように、明治初期の日本にいるからこそできるテーマを見つけ、研究をすすめ、発表を行っています。例えばダイヴァースは、次亜硝酸塩の発見やセレンとテルルの分離法など化学史上に残る成果をあげている化学者ですが、セレンやテルルの化合物の研究は下瀬雅允との研究であり、河喜多能達と雷酸塩の研究を、清水鉄と無機硫黄化合物の研究を行い、ロンドンの化学会誌に多数の報告を行っています(*2)。また、日本固有のテーマとして、「草津温泉の硫化水素の量」や「日本に落下した二つの隕石について」など6編の報告を行っている(*3)とのことです。

アトキンソンもまた、1878(明治11)年に「The Water Supply of Tokio」という報告を発表しています。これは、大都市東京の上水道の水質を化学分析して科学的報告にまとめあげた(*3)もので、木製の樋を継ぎ合わせ、縦横に引いた水路の腐食により、上水の水質が雨水や下水等の混入によって悪化する理由と実態を明らかにしようとするものでした。江戸時代にしばしば流行したコレラや赤痢などの伝染病の経路を考えれば、実に重要な研究と言えます。これらの研究の進展を目の当たりにした学生たちの意識は、確実に変化していったことでしょう。時代的な条件を考えれば、化学技術は主として殖産興業のために用いられたことは確かでしょうが、現実を重視し実地に行われる化学研究と教育は、当初の目的にとどまらず、別のリアルな現実認識をも生み出してしまうという性格があるからです。この点、渡良瀬川流域の鉱毒調査を行った古在由直のところで、再び取り上げることとしましょう。

(*1):工部大学校~Wikipediaの記述
(*2):井本稔『日本の化学~100年のあゆみ』(1978,化学同人),p.29
(*3):塩川久男「お雇い外人教師ーグリフィス、ダイヴァース、アトキンソンー」、『科学と実験』1978年11月号、p.40-43,(共立出版)


コメント

顔料ゲルインク・ボールペンに着目した経緯と使ってみた感想

2014年11月12日 06時03分13秒 | 手帳文具書斎
ボールペンと言えば三菱のジェットストリームとパワータンク以外には考えられない生活を送っていたのに、最近は何を血迷ったか、顔料ゲルインク・ボールペンを手にしております。これは、次のような経緯によります。

  • 封筒の宛名書き用に購入した太字のシグノSignoが、途中で書けなくなってしまい、沈殿しやすい顔料ゲルインクの宿命なのか、それとも発売後ずいぶん経っていたための経年劣化によるものか、文具魂が騒ぎました(^o^)/
  • そういえば、職場で使っているキャップ式の三菱シグノSignoGP(細字)は書きやすく鮮やかです。では、ブルーブラックではどうだろう?
  • 三菱シグノSignoRTのブルーブラック(0.5mm)を購入、使ってみましたが、書き味はあまり感心しませんでした。では、他社の顔料ゲルインク・ボールペンは?
  • ゼブラのサラサSarasaClip(0.7mm)のブルーブラックと、気まぐれでブラウンも購入、使い始めました。0.7mmでも、なんだか太いぞ。油性ならば1.0mmなみの太さではないか。
  • パイロットのジュースJuice(0.5mm)のブルーブラックを購入、書き味は三菱のシグノSignoRT(0.5mm)と比べて、大してかわりばえしないなあ。




で、当座の結論は:
(1) インクの色は濃く鮮やかで、ハッキリしている。他人に渡すメモ書き用には適している。
(2) 線の太さは、やや太めに出る。顔料ゲルと油性とを比較すると、0.7mmと1.0mm、0.5mmと0.7mmが同じくらいか。
(3) インクの減り方が速いように感じる。
(4) 同じ0.5mmのブルーブラックで見ると、色の傾向は多少違いがあるが、書き味は各社とも似たようなものだ。お値段も1本100円、デザインも似たり寄ったりで、どれを使っても同じに思える。クリップの違いで、ゼブラとパイロットが便利か。
(5) 演奏会の記録メモなど、速く書くことが必要な場合は、やっぱりジェットストリームに優るものはない。寝床で上向き筆記をするには、パワータンクに優るものはない。



ところで、1本100円の顔料ゲルインク・ボールペンのリフィルは、一部交換できるのですね。これはありがたいような、間違えやすいような(^o^)/
リフィルのしっぽのインクがないところに、マーカーで購入年月と種類と太さを書いておきました。これで、経年劣化について観察する際には、目安にできるでしょう。

ちなみに、パイロットの G-knock BB は顔料ではなく、染料ゲルインクのようです。2007年に購入したもの(*1)ですが、七年目の現在も沈殿したり詰まったりすることもなく、未だに現役です。これもまた、立派なことです。

(*1):初めて知ったゲルインクのボールペンの書き味~「電網郊外散歩道」2007年3月

コメント

ブログには日付順表示の機能がほしい

2014年11月11日 06時04分24秒 | ブログ運営
ブログでは、最新の記事がトップに表示されます。この仕様は、日誌の性格上から言っても、たいていは便利なものです。ところが、あるカテゴリーに連載されている記事を、日付の古いものから新しいものへ、順を追って読んでみたいという場合、逆に不便なものです。できれば、日付順に表示するように切り替える機能がほしいと思ってしまいます。

あるいは、がらりと発想を変えて、ブログ記事を日付順に読むために、簡単に電子書籍を作成する方法があれば(あるいは方法を考えれば)良いのかも。ふーむ。それは読者のためと言うよりも、自分自身にとって意味があるなあ。

コメント (3)

ウェーバー「序曲集~四手のためのピアノ編曲」を聴く

2014年11月10日 06時04分32秒 | -独奏曲
以前、たまたま購入したナクソス盤(*1)で、ウェーバーの「序曲集~四手のためのピアノ編曲」を聴いています。歌劇「魔弾の射手」序曲や「オベロン」序曲等の、夢幻的で香り高いオーケストラの響きを聴き馴染んでいるものですから、こうした四手のためのピアノによる序曲集には、はじめだいぶ違和感がありました。ところが、聴き慣れると、音楽の骨格があらわになるようで、これはこれでたいへんおもしろい。また、ふだんはあまり馴染みの薄い曲目も集めた選曲もあって、なかなか興味深いCDになっています。例えば「トゥーランドット」序曲などは、もちろんプッチーニの音楽ではありません。

  1. 歌劇「アブ・ハッサン」 J. 106 - 序曲
  2. 歌劇「ペーター・シュモルとその隣人たち」 J. 8 - 序曲
  3. 歌劇「リューベツァール」 J. 44-6 - 序曲
  4. 歌劇「シルヴァーナ」 J. 87 - 序曲
  5. 劇音楽「トゥーランドット」 Op. 37, J. 75 - 序曲
  6. 劇音楽「プレチオーザ」 Op. 78, J. 279 - 序曲
  7. ジャベル序曲 Op. 59, J. 245
  8. 歌劇「魔弾の射手」 J. 277 - 序曲
  9. 歌劇「オイリアンテ」 J. 291 - 序曲
  10. 歌劇「オベロン」 J. 306 - 序曲

歌劇「トゥーランドット」といえば、フィギュア・スケートのバックに流れるように、今ではプッチーニのそれをすぐに思い出しますが、実はウェーバーもこのお話に付随音楽をつけていた(*2)のだそうです。それも、プッチーニのいささか大げさなほどのロマンティックな音楽ではなくて、滑稽味あるいは剽軽な味を持つ音楽です。もともとは、ルソーの音楽辞典からとった中国の音楽を題材にしたものだそうですが、これは西欧が中国を見る目を表したものなのでしょうか。聴き慣れると、ピン・ポン・パンのようなユーモアも感じられるようです。



演奏は、アレクサンダー・パレイ(Alexander Paley)とブライアン・ゼガー(Brian Zeger)の2人で、NAXOS 8.553308 (*3)という型番で1999年に発売されたものだそうです。



いや、本当は独奏曲じゃないのだけれど、他にカテゴリーがないので、とりあえずここに入れておきましょう(^o^)/

(*1):春の陽気に誘われて音楽CDを二枚購入~「電網郊外散歩道」2014年3月
(*2):これはすごい~Wikipediaの「トゥーランドット」解説~「電網郊外散歩道」2006年3月
(*3):NAXOSの本CDの紹介ページ~一部を試聴可

コメント

付箋の使い方

2014年11月09日 06時03分49秒 | 手帳文具書斎
1980年に3Mがポストイットを発表して以来、貼って剥がせる付箋が一般的になりました。大小さまざまな付箋が市販され、実際に便利に使っております。クリアフォルダはいつ頃から使われるようになったのか、貼って剥がせる付箋とともに、比較的近年になって普及定着した文具ではないかと思います。

その付箋を、どんなふうに使っているのか。私の場合は、こんなふうです。

  1. ワークショップ等でアイデア出しのツールとして
  2. 読んだ本や文献等で後で見直し転記するための覚え見出しとして
  3. ダイアリー上で仮にスケジュールを押さえるための、移動できる予定のタグとして
  4. 書類綴りの中で利用する頻度の高いページの見出しとして
  5. 今日の ToDo をディスプレイに貼り、業務の進行状況を見える化するため
  6. その他、机上に書類が散乱するときに優先度の高い書類を目立たせるため等


ここで、ワークショップ等でアイデア出しのツールとして使用するというのは、例えばこんなふうです。
(例)「組織に所属するとは」というテーマで考える場合、



イラストで描いていますが、テーマに基づいてグループで考えていくとき、それぞれの考えや思いつきを付箋に書いて、1人1枚ずつ貼り付けながら順に説明していく中で、なるほどと納得したり思いがけない気づきがあったり、メンバーに共通の理解が得られたりするところ等が、効果としてあげられるでしょうか。

2.では、いったん読み直し、備忘録等に転記してしまったら、付箋は剥がしてしまいます。剥がした付箋は備忘録ノートの表紙の次の扉あたりに貼り付けておけば、いつでも再利用できます。こういう用途なら、薄手のフィルム型の付箋が適するかもしれません。

3.は、例えば「忘年会」という付箋を12月下旬に貼っておき、日時と場所が確定したらダイアリー中に書き込んで確定します。

4.は、本当に何度も参照して利用するものならば、丈夫な見出しタックを付けるか、別途そのページをコピーして手許に用意しておくべきでしょう。貼って剥がせる付箋は、あくまでも「仮のもの」であるはずです。

5.については、昔、実務の中心にあった頃は、ディスプレイの端に、やるべき仕事(ToDo)の項目を付箋に書いて、ペタペタと貼り付け、用件が済むと剥がして捨てる、という形で「見える化」しておりました。付箋がどんどん減っていくときは達成感がありますが、付箋がどんどんたまっていく時は、ゲンナリしておりました(^o^;)>poripori

6.は、やむを得ず席を離れなければならない人に、優先度の高い書類を渡す時に、目立つようにする、という目的の利用です(^o^;)>poripori



ああ付箋。たかが付箋、されど付箋。
あんなにハードな日々には戻りたくないけれど、そういう時代もあったことは、ヒソカに満足しております。

コメント

あちこちの小型ノートに書き散らすと

2014年11月08日 05時51分09秒 | 手帳文具書斎
小型のメモ帳やノートを身のまわりに置くと、思いついた時に書き留めるには便利ですが、ブログの記事にするとか依頼原稿のネタにするとか、何かに利用しようとすると、分散してしまったメモはまとめにくいものです。これが一種類のノートならば、確実にどこかのページにあることがわかりますので、付箋をするなどして参照すればよいだけです。原則として、書き込みの量によらず、わずか数行のネタでも、同じ一冊のノートにまとめるというのが大切なようです。

ただし、これを金科玉条に徹底しようとすると、妙な事になってしまいます。いくらなんでも、A5判の備忘録ノートをトイレの中まで持ち込むのはどうもなあ(^o^)/
いくらアイデアを生み出す「三上」の一つ(*1)とはいえ、結局はメモ帳を置き、良いアイデアがあったときは、ちぎって転記するか貼り付けておくくらいがよろしいのでしょう。

(*1):ボールペン片手に、寝床で~「電網郊外散歩道」2008年12月

コメント

「キジも啼かずば撃たれまい」とは

2014年11月07日 06時01分16秒 | 季節と行事
裏の畑に長年住みついているつがいのキジ(*1,2)、今の季節になると、よりによって夜明け時分に、ガラガラ声をはりあげて人の家の近くで「ケーッ、ケーッ」と啼きわめきます。まことに傍若無人で、安眠妨害に腹が立ちます。人畜無害を自称する私でも、思わず石でもぶつけたくなります(^o^)/

「キジも啼かずば撃たれまい」という慣用句は、ただひたすら自分を抑えて黙っていればよい、という意味ではないのですね。せっかく姿が良いのだから、もう少し大人しくしていれば、あるいはもう少し声が小さければ、猟師に狙われたりしないですむだろうに、というような感覚なのでしょう。人間社会であれば、外見はきれいで立派だけれど、喋り出すと腹立たしいヤツ、というような感じでしょうか。別に自己主張が悪いわけではない、もう少し言い方を考えろ、ということなのでしょう。

(*1):畑でよく働き、妻と帰省した娘と老母と夕食を囲む~「電網郊外散歩道」2011年5月
(*2):きょ、恐竜の足跡か?!~「電網郊外散歩道」2012年1月

写真は、山形市内から見た11月初旬の月山です。山頂付近は、すでに白く雪化粧しています。

コメント

文化の日までに取り入れを終える、という言い伝え

2014年11月06日 06時02分47秒 | 週末農業・定年農業
例年、11月3日の文化の日は晴れることが多いのですが、今年はあいにくの雨模様となってしまいました。老母によれば、11月3日の文化の日までに稲などの取り入れを終えないと、長雨にたたられる、と言い伝えてきたのだそうな。

文化の日でなくて、○○節とかなんとかいう別の名前で呼ばれていたように、呼び名は時代によって変わってきたのでしょうが、天候の区切りを明確に伝えているものと感じます。さて、当方の週末農業は、干し柿用の柿の収穫がまだ終わっていません。週末の休日に、なんとか晴天となることを祈りましょう。

コメント

寒さへの対策

2014年11月05日 06時05分33秒 | 季節と行事
当地・山形では、10月の下旬頃になると、気温は一桁にまで下がります。涼しさ、すごしやすさを通り越し、寒さ対策が必要になってきます。今年は10月22日からレッグウォーマーをして出勤し、24日からはFF式の温風ヒーターを使い始めました。11月に入り、本格的な寒さを前に、当面は18℃設定のヒーターだけでスタートしていますが、レッグウォーマーやウールのベストのせいか、18℃でもだいぶ暖かく感じておりました。でも、さすがに11月ともなると、田舎家の自宅では、じっとしていると寒さを感じます。とうとう、月はじめから、自宅では薄手のセーターを着るようにしました。



2006年も、同じような時期に温風ヒーターを使い始めています(*1)。毎年同じような時期に稼働を始めており、加齢のせいで特に寒がりになってしまったわけではなさそうです(^o^)/

(*1):寒~い!~「電網郊外散歩道」2006年10月

コメント

山寺に登る

2014年11月04日 06時02分21秒 | 散歩外出ドライブ
三連休の中日となる日曜日、前日からの雨もあがりましたので、妻子連れ立って山寺に出かけました。散歩というにはいささかハードな階段上りコースですが、山寺・立石寺は、平安初期に慈覚大師円仁により開かれたとされる天台宗の古刹(*1)です。午前中は晴天に恵まれ、紅葉・黄葉を眺めながらひたすら石段をのぼり、体を動かして来ました。人出はずいぶん多く、老若男女で賑わっておりましたが、なんとか五大堂まで登ってきました。














下山してから、車で「風雅の国」のレストラン「馳走舎」に移動しましたが、ここもずいぶん混み合っており、少々待たされました。そのかわり、「冷たい肉そば」(980円)と美味しい「胡麻豆腐」(400円)を食べて、大いに満足してきました。








午後からは曇ってきましたので、午前中に登ったのは正解でした。その後は、某図書館に本を返却し、用を済ませて自宅に戻りました。ドライブのお供は、ケニー・ドリュー・トリオの「Standard Jazz Piano Vol.2」を。いつもクラシック音楽ばかり聴いているわけではありませんで、時にはこういうのも聴いております(^o^;)>poripori

(*1):立石寺~Wikipediaによる
コメント

スメタナの弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」を聴く

2014年11月03日 06時05分55秒 | -室内楽
いつも聴いていたいというわけではないけれど、時折むしょうに聴いてみたくなる音楽というのがあります。ドヴォルザークの「新世界」交響曲などはその好例でしょうが、私の場合、スメタナの弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」などもその一つです。このところ、通勤の音楽として繰り返し聴いております。本日は文化の日でもありますので(^o^;)アホ猫記事などではなく、この曲を取り上げることといたします。

この曲は、2007年の夏に山形弦楽四重奏団の第24回定期演奏会(*1)で聴いておりますが、最初に聴いたのは高校生の頃にNHK-FMで、後にLPを購入しました。それが写真のスメタナ四重奏団による演奏で、1976年にチェコのスプラフォン・ジシコフ・スタジオで行われたDENONのPCM録音です。OX-7049-NDという型番でした。後にこれをCDで買い直し(COCO-75544)、通勤の音楽としてよく聴きました。また、購入時期は不明ですが、1984年にニューヨークで録音されたグラモフォン盤でエマーソン弦楽四重奏団によるCD(POCG-7074)も入手し、これも好んで聴いております。
一方、この曲のオーケストラによる演奏を考えたジョージ・セル編曲によるオーケストラ版「わが生涯より」の存在を知り、聴いてみたいと念願していたところ、ジェフリー・サイモン指揮ロンドン交響楽団による1985年のデジタル・ステレオ録音のシャンドス盤(CHAN8412)CDに出会いました。さらに、インターネットの時代に入り、本家本元のセル指揮クリーヴランド管弦楽団による1949年のモノラル録音(パブリック・ドメイン)をストリームで、あるいはダウンロードして、聴くことも可能(*2)となりました。まことにありがたい時代です。



DENON盤に添付のリーフレットは佐川吉男氏によるもので、LP/CD共通の内容になっています。それによれば、スメタナは1876年の6月にこの曲の作曲を始め、同年暮れに完成したけれど、全体に、とりわけ第3楽章が、演奏が難しすぎると不評で、ようやく1978年の私的初演が行われ、この時には若いドヴォルザークがヴィオラを受け持ったのだそうな。公開初演は1879年まで待つことになりました。添付リーフレットによれば、友人にあてた手紙の中で、作曲者自身がこの曲の表題的な解説をしているといいます。主としてそれによりながら、でも素人音楽愛好家らしく、印象を整理してみると:

第1楽章:アレグロ・ヴィーヴォ・アパッショナート、ホ短調、2分の2拍子。「青年時代の芸術にひかれた気持ち、ロマンチックな雰囲気、自分ではよくわからない何かへの名状しがたいあこがれ、将来へのある種の不吉な予感」を描いているとのこと。曲はffで始まり、他がppで奏する中でヴィオラがエスプレッシーヴォで主題を奏します。「タター・タ」というこれ、思わずベートーヴェンの「運命」の主題「タタタ・ター」を連想します。楽聖が突然襲われた聴覚の障碍という運命に自分の身を重ね合わせたものでしょうか。その後、ヴァイオリンが情熱と激しさを持って歌い始めます。
第2楽章:アレグロ・モデラート・ア・ラ・ポルカ、ヘ長調、4分の2拍子。「心に楽しかった青春の日々をよみがえらせてくれるもので、当時はダンス音楽を作曲し、熱烈なダンス狂だった」とのこと。なるほど、楽しさ、懐かしさなどを感じさせる音楽です。ダンスといってもたぶん社交ダンスではなくて、民族的なものなのでしょう(^o^)/
第3楽章:ラルゴ・ソステヌート、変イ長調、8分の6拍子。「のちに忠実な妻となる少女(カテジナ・コラージ)との初恋の幸福な思い出をよみがえらせるもの」であるとしているそうな。チェロの雄弁なエスプレッシーヴォの後で第1ヴァイオリンが優しく、しかし表情豊かに歌い、第2ヴァイオリンとヴィオラがこれを支えます。音楽はやがて厳しい表情に転じますが、静かに回想するような後半は、思わず聞き惚れてしまうほどで、ほんとうに素晴らしいものです。
第4楽章:ヴィヴァーチェ、ホ短調~ホ長調、4分の2拍子~4分の4拍子。ここは「民族的な要素を音楽で扱う道を見出し、仕事が軌道に乗り出して喜んでいるところへ待ったがかかり、聴覚障碍に見舞われるという悲劇」と、「悲惨な先の見通しや一抹の回復への希望など」を描いているとのこと。実際、晴れやかで活発な音楽が奏される中での、途中の暗転。キーンというノコギリ波のような音です。これがスメタナの聴覚障碍、高音の耳鳴りを表すものでしょう。少し希望を持たせたピツィカートで曲を閉じます。



どちらかといえばハードボイルドなスメタナ四重奏団の演奏と、高い技術に裏付けられた柔軟さと清新さを併せ持つエマーソン四重奏団の演奏は、どちらもたいへん説得力があります。カルテットの演奏の、速いテンポと鋭い切れ込みを、四管編成の大オーケストラに望むのはいささか無理があるでしょうが、一方で、たとえば終楽章の例の「キーン」をピッコロで表したり、ホルンや木管やハープが登場したりするなど、多彩な楽器の音色を楽しむことができるという面もあります。あのジョージ・セルによる編曲という、好事家心理をくすぐる要素もあり、オーケストラによる演奏も、なかなかおもしろいものです。




参考までに、演奏データを示します。
■スメタナ四重奏団(LP)
I=7'40" II=5'31" III=8'33" IV=5'59" total=27'43"
(CDでは IV=6'04" と5秒ほど表記に違いが見られます)
■エマーソン弦楽四重奏団
I=6'31" II=5'18" III=8'30" IV=5'28" total=25'47"
■ジェフリー・サイモン指揮ロンドン響
I=8'27" II=5'47" III=9'28" IV=6'25" total=30'07"
■ジョージ・セル指揮クリーヴランド管(1949)
I=7'40" II=5'13" III=8'55" IV=6'05" total=27'53"
※「Blue Sky Label」より(*2)。MP3音源を Ubuntu Linux 上のプレーヤーで再生し、タイム表示を読み取ったものですので、若干の誤差があります。それでも、1949年のセル指揮クリーヴランド管の録音が、室内楽なみのテンポで演奏されるのを聴くと、驚いてしまいます。その表情も、真摯で硬派で、また大オーケストラらしい輝かしさもあり、このステレオ録音があったらなあと思うことしきりです(^o^;)>poripori

この編曲というかオーケストレーションは現在も演奏されているようで、YouTube には現代のチェコでの演奏がありましたが、権利関係の問題があったのか、現在は見られないようです。代わりに、ジェフリー・サイモン指揮のロンドン響による演奏がありました。
Smetana String Quartet No.1 orchestrated by George Szell


(*1):山形弦楽四重奏団第24回定期演奏会を聴き、文翔館を満喫~「電網郊外散歩道」2007年7月 この記事の前半はこちら
(*2):スメタナ「わが生涯より」(ジョージ・セル編曲による管弦楽版)~「クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label」より
コメント (2)

野口晴巳『能率手帳の流儀』を読む

2014年11月02日 06時01分31秒 | -ノンフィクション
高校生のときに生徒手帳のダイアリーとメモ・ページを実用に使い始め、学生時代には大学生協の手帳を愛用しました。これが、実は「能率手帳」だと気づいたのは、いつ頃だったでしょうか。紙質のよさ、時間目盛の入ったレフト式ダイアリーの便利さなど、その後も愛用しました。

ところで、この能率手帳について、発行元の親分が書いた本があるとのことから、本書『能率手帳の流儀』を探しておりましたが、書店にも見当たらない。偶然、某図書館に所蔵されていることを知り、借用して読みました。

本書の構成は、次のようになっています。

序章 私の成長はすべて手帳が支えてくれた
第1章 手帳にしかできないことがある
第2章 「書く」習慣が人生を変える
第3章 「振り返る」から未来が見える
第4章 絶対時間で大樹をめざせ
第5章 手帳を生かす仕事術
第6章 元祖能率手帳の「こだわり」と「これから」

ノウハウ本というよりは、著者自身の回顧の中に手帳の果たした役割を位置づけ、ビジネスマンとしての成長のために一般化した本だと言えそうです。

例えば、仕事ができる人はどうやってつくられるのか?という疑問に対し、まわりに優秀な上司や先輩がいたことを共通点として指摘しますが、著者の観察と考察はそれだけにとどまりません。優秀な上司・先輩の下にいた部下の全員が「できる人」になるとは限らないことから、仕事の経験やまわりの人から学べるかどうかの差だととらえ、「振り返りをしているかどうか」の差であると考えます。「読み・書き・考える」ことを根幹に置き、書く、考える、振り返る、気づくための有用な道具として、手帳を位置づける、というわけです。

日本能率協会という性格から、どちらかといえば教育研修的な視点からの言及が多く見られます。例えば、人間国宝・茂山千作さんの言葉

「上手に育てたかったら、まず好きにさせることです。自分の仕事が好きになって、本人が努力するのが一番大事だと思います。」

を紹介し(p.59)、お爺さんが孫を指導するやり方を、親子だとできないが孫だと根気よくできる、としています。また、

飢えている人に魚を与えてはいけない。魚の捕りかたを教えるべきだ」という格言があります。研修教育のプログラムを実施するうえで、とても示唆に富む言葉だと思います。

などという指摘もあります(p.158)。これも、著者の仕事がらに由来するものでしょう。

一方で、手帳に書く習慣の大切さを述べる、「食べたい・行きたい・読みたいリスト」という節では、こんなことも書いています。

 行きたいリストにしても同様で、藤沢周平のファンなせいか、いつか山形県の鶴岡に行ってみたいと手帳に書いていました。この町は、彼の時代小説の中で「海坂藩」という架空の城下町としてしばしば登場するのです。
 そうしたら、先日、出張で行く機会がありました。仕事の合間に町を散策すると、老舗の料亭、町を流れる川や橋、路傍の草花までが小説の世界とダブって見えました。既視感というのでしょうか、じつに楽しい経験でした。(p.94~95)

功なり名遂げた社長さんには、司馬遼太郎のファンが多く、藤沢周平のファンは少ないのではないかと思っていましたが、どうも著者は、その少ない方の実例なのかもしれません(^o^)/

最近、ある手帳を使えば夢が叶うとか、そんな夢のようなキャッチコピーを帯に大きく書いたノウハウ本を見かけますが、著者は「絶対時間で大樹を目指せ」という章で、絶対的に時間の積み重ねが必要であることを重視し、時代の花は枯れやすいことを指摘しています。これは同感です。逆に、『能率手帳の流儀』ここがヘン、という箇所もありました。例えば、

  • 「気づき、アイデア、リスト、誰かの言葉、本の引用」などの書き込みで、「6月が終わった時点で早くも満杯になり、7月からは二冊目を使う」ため「手帳が上下二巻に分かれている」(p.172)といいますが、それは単に、手帳の大きさ(判型)か厚さ(ページ数)が合っていないんじゃないか。
  • 携帯電話の普及で毎年使わずに残ってしまうアドレス帳の意外な活用法として、行きたい店や泊まってみたい旅館、観たい映画のリストアップに使う(p.165)とありますが、それはアドレス帳じゃなくて補充メモ帳のほうが良いのでは。

などと思ってしまいます。

きっと、著者には著者なりの流儀があるのでしょうが、手帳を上手に工夫して使うことの大切さを説いた本として、最近の「一見実用的に見える」ノウハウ本と比較して、かなり普遍性を持った有益な内容が多いと感じました。


コメント

ボールペンで「こんな製品がほしい」

2014年11月01日 06時03分44秒 | 手帳文具書斎
本日は、愛用のボールペン、三菱ユニの「パワータンクPowerTank」に関する夢想・空想のお話です。

  • ジェットストリームJetstreamラバー軸に、パワータンクPowerTankのリフィルが入ればいいのに。
  • パワータンクPowerTankスマートに、バインダークリップのバージョンがあればいいのに。
  • パワータンクPowerTankで初めて実現した油性インクで新色ブルーブラック!
  • パワータンクPowerTankのリフィルの太さを逆手にとった、ダブルサイズ・増量インク。「太いのがどうした!文句あるか!」的な居直りバージョン。
  • パワータンクPowerTankの芯そのものに、取り外しのできるゴム製グリップと金属製のクリップを付けて、軸のいらないボールペン、究極のリフィル。

うーむ、実現性は低いかもなあ(^o^)/

いずれも、油性ボールペンとは思えないスムーズな書き味と、上向き筆記や水濡れ筆記も可能な多用途性がありながら、たぶんコスト削減のために、伝統的にクリップが弱いと感じるパワータンクPowerTank への見果てぬ夢というか、願望です。

コメント