電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治初期の学生たちの大半は士族だった

2014年11月15日 06時02分56秒 | 歴史技術科学
明治初期に、お雇い外国人教師たちに師事した日本人学生は、どういう人たちであったのか。これは、圧倒的に士族が中心でした(*1)。廃藩置県の前は、各藩に貢進生と称して若く有能な青年たちを送り出すように命じますが、やがて廃藩置県によってこの制度も途絶えます。結局は、失業した元武士の子弟が、識字力と漢籍を中心とする教養及び一部は蘭学の知識を土台として、西洋の諸科学を吸収していくことになります。

残念ながら、明治初年のこの時期に、士農工商のうち農工商の身分の人たちには、学問をして立身出世という意識はまだありませんでした(*2)し、東京遊学を支える経済力を持つ中産階級や資産家は、まだそういう意識を持っていませんでした。



工部大学校や司法省法学校など、官立の高等教育機関は、給費生と私費生からなり、給費生は、学費はもとより制服などの諸経費や食費も官費で支給される代わりに、一定の年限を官に奉職する義務を負っていました。天野郁夫『学歴の社会史』によれば、明治9年の駒場農学校入学者の94%、明治13~18年の札幌農学校の卒業者の76%、明治13年の司法省法学校入学者の84%、明治18年の工部大学校在学者の72%が士族出身者であったとされています(同書p.52)。 また、明治11年の東京大学(法・理・文3学部)在学者157名の九割が給費生であり、在学者の4分の3が士族の子弟であるとの記録が残っているとのこと、このとき全人口に占める士族の比率は5~6%であったそうですので、いかに士族から官僚への道が中心であったかがわかります。

(*1):天野郁夫『学歴の社会史』(平凡社ライブラリー,2005)
(*2):明治11年の『日本帝国文部省年報」では「富豪ナル平民ノ子弟ノ未ダ専門学科ヲ攻究セントスル志気充分ナラザル」ため、とのことです。天野郁夫『学歴の社会史』p.48

コメント    この記事についてブログを書く
« 明治初期における科学・技術... | トップ | ドヴォルザーク「ヴァイオリ... »

コメントを投稿

歴史技術科学」カテゴリの最新記事