電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

同曲異演を楽しむ

2006年08月11日 09時56分16秒 | クラシック音楽
LPやCDなどの音楽録音を集めていると、演奏者は異なるけれど同じ曲の録音が複数あることに気づくことがあります。意図的に集めたわけでもないのに、同曲異演が集まってしまう現象は、音楽CDの激安ブームとともに加速しました。

高額のLPが貴重品だった時代は、潤沢な資金を持ったマニアは別として、どれか一枚を購入しなければ聞くことができませんから、普通の愛好家は同曲異演の優劣をすぐ考えてしまったのだと思います。ところが、年月が過ぎ、有名無名の多くの演奏に接し、日本語解説のついていない激安の音楽CD等も先入観なく聞いているうちに、それぞれの演奏家の方向性や趣味嗜好の違いに興味が移行してしまいました。

今では、管弦楽作品については、ジョージ・セルの録音を一つの軸にしながら、できるだけこれと異る演奏にも接するよう心がけています。以前「精妙なリズムのセル、豊麗なレガートのカラヤン」と書きました(*)が、不足するものに目を向ければ不満が出ますし、美質に目を向ければその達成の素晴しさに感嘆します。数学や自然科学とは違って、(幸いなことに)音楽の抽象性はこのような曖昧さや多様さを許す面があります。

素人音楽愛好家の私には、楽譜の版の問題や、表現の技術的な側面などはわかりかねますが、少なくとも権威ある大家の古い録音だけが絶対で、現代に生きる若い人たちの演奏の評価が低いとは思えません。晩年のベートーヴェンの深さは理解できるつもりですが、その一方で若いベートーヴェンが持っていて晩年の彼が失ってしまったものの価値も理解できるつもりでいます。同様に、ある演奏家の若い時代の録音よりも晩年の録音が常に良いか、というと、これもまた一概に言えない気がします。私たちの人生と同様に、経験を通じて得たものと失ったものとは、かなり相補的なものなのではないか。

その時代、その年代にベストを尽くしたかどうかは問われるでしょうけれど、少なくとも単純に優劣で決められるようなものではない、ように思います。不揃いのトマトもやっぱり畑で取れた完熟トマトの味です。幸運にも入手できた音楽録音の同曲異演、音楽が好きで演奏家を志したこの人は、こういうことを目指していたのかな、と素人なりに想像して、あるがままに楽しむことといたしましょう。

(*): チャイコフスキー「弦楽セレナード」を聞く
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