電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

文具と書斎とパソコンの60年〜その1:平成初期まで

2024年10月08日 06時00分05秒 | 手帳文具書斎
文具と書斎とパソコンに関して、記憶に残る限り最も古いものは、鉛筆と鉛筆削りです。昭和30年代の半ば、トンボや三菱やコーリンの鉛筆はしっかりした品質のものでした。教室の鉛筆削りのハンドルを回し、ガリガリと削ると、芯は軸の中央にあって均等に削ることができました。ところが、何やら寄付をした時にもらう鉛筆は安物なのか、鉛筆削りで削ると芯が軸の中央になく、片方だけがやけに長く削られてしまうのでした。

小学校から中学校に上がると、シャープペンシルや色ボールペンを使い、カラフルな図解をしたノートを取るのが流行しました。当時のシャープペンシルは0.9mm芯で、メーカーは記憶にありませんが、ノック式と回転式があったようです。また、ビックの透明軸のボールペンは記憶に残ります。赤や青の他に緑も発売され、ノートを彩りました。ただし書き味はお世辞にも良いとは言えず、力を入れて書くために指が痛くなってしまうのでした。当時は上向き筆記がダメだとは知らずに、書けなくなるとペン先を遠火で熱してぐりぐりすると書けるようになることがあるなどという「裏技」を開発したものです。



中学生の頃、亡父から入学祝に万年筆をもらいました。パイロットのルーフ型のペン先を持ったタイプの製品(*1)でした。使う場面はあまりなく、ハガキや手紙を書くのに使うくらいでした。むしろ、科学部の研究発表の資料を印刷するために、謄写版印刷を覚えました。ヤスリ版の上に置いたロウ原紙の上に鉄筆を走らせ、文字や図表を刻んでいきます。文字は留めやハネを使わず、均等な力で書く必要がありました。おかげで、ゴシック体のような独特な書体のほうが書きやすいことを知りました。書き損じた時に修正することができる朱色の修正液は、最後の必殺技でした。





高校生になると、万年筆を使い始めました。これは、65分間、口述筆記を要求する世界史の先生のノートを取るには0.5mmのシャープペンシルよりは万年筆のほうが疲れないことから、とにかく早く書くことを優先して使い始めたものです。これに味をしめて、物理などでも万年筆を使うようになりました。先生の中には、生徒が万年筆を使ってノートを取ることを嫌う人もいましたが、万年筆だと早く書けるということから、紙質の良いコクヨのフィラーノートとの組み合わせで、複数科目で使っていました。英語の時間は、辞書をよく使いました。三省堂の英和とホーンビーの英英辞典でした。持ち運びに便利な小型の判型のもので文字が細かく、今なら虫眼鏡がないととても読めません(^o^)/




大学生になる時に、岩波新書の『知的生産の技術』を読み、影響を受けました。英文タイプライターを購入してタイピングを練習、目的もなく文献カードを作り始めました。また、ゼロックス・コピーは経費がかかるのでタイプライター用のカーボン紙を使って提出レポート等の控えを残すことを覚え、手書きの手紙のやり取りにもカーボン紙を使って控えを残すようになりました。学生時代のノートは、教養科目はB4上質紙を2つ折にして万年筆で書き、フラットファイルに綴じていましたが、専門科目は大学生協のツバメノートを用いて0.5mmのシャープペンシルで筆記していました。当時、愛用していた生協の手帳は能率手帳の学生版だったことを知り、万年筆でも裏抜けしない紙質に感心していました。

社会人になると、はじめはガリ版と鉄筆の洗礼に新採用仲間の同僚は四苦八苦していましたが、こちらは昔取った杵柄であまり苦労せず、むしろ1980年頃から普及しだした謄写ファックスに驚きました。これは、鉛筆や製図用インクに含まれるカーボンを赤外線?で発熱させ、ロウ原紙に焼き付けるもので、謄写版印刷の進歩形だと感じました。特に、手書きの図面を含む文書の作成には強力で、トレーシングペーパーと製図用インク、デスクペンを愛用しました。また、手帳は学生時代からおなじみの能率手帳を使ってスケジュール等を管理し、B5判の大学ノートに備忘録を書き始めました。


  ( Wikipedia より )

1983年に職場でNEC社の8ビットのパソコンPC8001MKIIに接し、BASICプログラミング教本をもとに、プログラミングを始めました。少々苦労しましたが、3ヶ月ほどで表集計ソフトを完成し、職場の定型的業務の苦労をだいぶ改善することができました。同僚もこれは便利だと喜んでくれて、何度も計算し直さなければいけない苦労がなくなったと感謝されました。ただし、8ビットのパソコンに10インチのドットインパクトプリンターを用いていましたので、アルファベットと半角カタカナしか使えず、漢字を使えるようになることを夢見ていたものです。

昭和末から平成の初期、自宅の一部を改築する時に、書斎(*2)を作りました。壁面に作り付けの書棚を配し、書籍類とブックシェルフスピーカーを埋め込み、テレビとオーディオ装置とピアノを配置して、デスクに座ったまま音楽を聴ける環境としました。同時に、16ビットに進歩していたパソコンを導入し、MS-DOS上のワープロ・表計算を中心に利用するとともに、ご近所の知人の影響でパソコン通信を始めました。プリンタは15インチ、180dpiのドットインパクト型でしたので、連続用紙を用います。この頃、具体的には1989年から、コンピュータやソフトウェア関連のノウハウを中心にテキストファイル備忘録をまとめるようになりました。

やがて32ビットになった頃に、FM-TOWNS というおもしろいパソコンのDOSエクステンダー上にTeX/LaTeXという電子組版システムが日本語化され、使えるようになったことを知り、早速これを導入、複雑な数式や化学式も満足できるレベルで、当時人気があったパーソナルタイプのインクジェットプリンタやレーザープリンタを用いて印刷所に版下を持ち込めるレベルに近づきました。ただし、全般にコンピュータ用紙やコピー用紙の紙質の問題から、にじみやすく裏抜けしやすい万年筆の使用が激減し、筆記具はボールペン利用が中心(*3)になりました。

(*1): 亡父からの入学祝は万年筆だった〜「電網郊外散歩道」2013年11月
(*2): この20年で、書斎のイメージはどう変わったか〜「電網郊外散歩道」2007年5月
(*3): 昔はノートに何で書いていたのだろう?〜自分の40年を振り返る〜「電網郊外散歩道」2015年4月

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