電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(2)

2019年09月12日 06時03分23秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」の連載「やまがた再発見」に、三週連続して藤沢周平が特集されました。筆者は、鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の万年慶一氏。その第2回です。



■9月1日(日)付け、「途切れなかった師弟の縁」、「句、詩がだれのものか知りたい、と。教え子の成長を推し測るのが楽しみだったのだろう。」

1951(昭和26)年の春、三年生の担任になるはずだった学校に、小菅留治先生の姿はありませんでした。昔も今も、中学三年生で担任がいなくなるのはよほどのことでしょう。学校の集団検診で肺結核が発覚、鶴岡市内の病院に入院します。20人の教え子が自転車で病院まで見舞いに行ったそうです。よほど慕われていたのだろうと推測されますが、それだけではありません。同年の初冬、三年生の補習授業が開始される前に、学芸会が開かれます。おそらくはクラスを解体して別々の補習授業クラスを編成する関係で、最後のクラス行事となったはずです。この出し物が、前年の放送劇「しらさぎ」の舞台化に決まります。この放送劇は、担任だった小菅留治先生が脚本を書き、生徒が演じて放送したもので、これをアレンジして舞台劇にすることとなったらしいです。その相談のために、何度も先生の元へ伺ったとのこと。たぶん、「用がないなら行くな」と言われていた生徒たちと大人たちの間に、「劇の相談があるから行く」というようなやりとりがあったことでしょう。中学校卒業は、1952(昭和27年)の3月になります。

1953(昭和28)年、小菅留治先生の病状は一進一退で、復職の見込みは立ちません。医師のすすめで上京し、都内の療養所に入ります。ここで、句誌「海坂」へ投句し、入選を重ねます。このあたりは、師範学校時代の同人誌に詩人的才能の片鱗を見せていた作家の姿が見えるような気がします。一方、卒業生は就職と進学に分かれ別々の道に進み始めるのですが、高校卒業を前にして、おそらくは1954年から55年にかけて、文集「岩清水」を計画・発行し、恩師の元へも送ります。これに対し小菅先生は、「師弟の縁はなかなかに消えないものだ」「句、詩がだれのものか知りたい」と書き、返信します。この「岩清水」は単年度では終わらず、第3集まで発行されたとのことです。

こうしたつながりの深いクラスは、決して「よくあるケース」ではないでしょう。生徒に慕われ信頼された先生と、やはり信頼を集めるまとめ役の生徒と、両方があってのことではなかろうか。こうした経緯から、「先生が有名作家だからまとまった」のでは決してないことがわかります。


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