風濤社から2017年12月に刊行された単行本で、柏原芳光著『人間 吉村昭』を読みました。著者は元筑摩書房の代表取締役で、吉村昭氏とは担当編集者として接点の多かった人のようです。個人的に知るエピソードを交えながら、作品とエッセイを引いて作家の人間性を探り描いた本と言えましょう。吉村昭ファンの一人として、とくに印象に残り、また共感したのは、次のようなところでした。
作家のエッセイから引用する形で著者が指摘するのは、まずその庶民感覚です。
このあたり、作家との関わりが深かった編集者ならではの視点でしょう。
また、作家の住居が吉祥寺に移ってから、近くのグラウンドで白根の六角凧を揚げていたのを見咎めたなじみの飲み屋の女性から、彼(吉村)がその店に行ったとき、いい人の凧揚げ姿はわびしいからやめてください、と言われ、それから凧揚げをしなくなったそうです。これについて著者は、
と嘆きます。これも同感です。おそらくは、凧を揚げる文士の姿に孤独を感じたのは、飲み屋の女性の境遇の反映であり、作家はそれに同情したのかもしれない、とは思いますが。
筑摩書房が倒産し、再建されるまでの経緯についてはほとんど知りませんでしたが、編集者が代表取締役になって再建に奔走する陰には様々な苦労があったことでしょう。惜しみなく協力してくれた作家夫婦への感謝が感じられる好著で、興味深く読みました。また、吉村昭作品を読んでみたいと感じました。
作家のエッセイから引用する形で著者が指摘するのは、まずその庶民感覚です。
「私(吉村昭)は酒が好きだが、食通とは無縁の男である。どこどこの高級料亭の料理は結構なものだ、などと書いてある随筆を読むと、まず頭に浮かぶのは、その料亭の値段である。一人前何万円とかで、そんな途方もなく高額の金額を払ってまでその料亭の料理を口にする気はなく、反撥する気持ちが湧く。若い人たちが一ヶ月間満員電車にゆられて往復し働いて得る報酬の、二分の一または三分の一にあたる金額の料理を、一時間かそこらで胃の腑におさめては罰があたる、と考える。食物にはそれ相応の代金があるべきで、それをはるかに越えた食物は食物ではない、と思うのである。」(p.223)
このあたり、作家との関わりが深かった編集者ならではの視点でしょう。
また、作家の住居が吉祥寺に移ってから、近くのグラウンドで白根の六角凧を揚げていたのを見咎めたなじみの飲み屋の女性から、彼(吉村)がその店に行ったとき、いい人の凧揚げ姿はわびしいからやめてください、と言われ、それから凧揚げをしなくなったそうです。これについて著者は、
残念である。私はこの女性の意見に賛成できない。一人の老文士が飄々と和凧を揚げている貴重な風景が失われてしまったのだ。(p.206)
と嘆きます。これも同感です。おそらくは、凧を揚げる文士の姿に孤独を感じたのは、飲み屋の女性の境遇の反映であり、作家はそれに同情したのかもしれない、とは思いますが。
筑摩書房が倒産し、再建されるまでの経緯についてはほとんど知りませんでしたが、編集者が代表取締役になって再建に奔走する陰には様々な苦労があったことでしょう。惜しみなく協力してくれた作家夫婦への感謝が感じられる好著で、興味深く読みました。また、吉村昭作品を読んでみたいと感じました。
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