電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

芥川仁・阿部直美『里の時間』を読む

2021年02月20日 06時00分11秒 | -ノンフィクション
図書館から借りた岩波新書で、芥川仁・阿部直美著『里の時間』を読みました。2014年秋に刊行されたもので、季刊新聞「リトルヘブン」で取材した日本各地の「里の暮らし」を身近な自然の風景をバックに撮影したカラー写真つきルポルタージュとなっています。カバー表紙に記された紹介がいいですね〜。


「都会は、玄関から一歩出っと金かかるべ。ここは一歩出っと、晩のおかずが採れるんだ。」------古来、素朴な自然が残る各地の集落を訪ね、自然と共につつましやかに暮らす人びとの日々の営み、身近にある「幸せ」の姿をさり気ない写真、飾り気ない言葉でそっと伝えます。」

全く、そのとおりの内容です。書かれているのは「ふつうの田舎の暮らし讃」であり非常に魅力的なのですが、ではあるのですが、どこかに同調しきれない気分が残ります。

それは何なのだろうと考えてみると、都会人が「これこそふつうの田舎のやり方」だと考えていることがどうにもステレオタイプだからなのかも。例えば伝統的な料理を作るのに、あれが足らん、これをもう少し、という具合に、しばしば勘と経験でやっているところが描かれますが、我が家の元気老母はキッチリ量を量って味を決めていましたし、ご近所の料理自慢の婆ちゃんも計量する派でした。きちんと量るのは都会風スタイルで、田舎は「人間らしく」適当に、とは限らない。それは単なる個人の性格の違いなのではなかろうか。

「玄関から一歩出ると」の違いで、都会の美観や便利さのためにかけられている労力や経費の大きさを見なければ都会の一面しか見えていないように、「玄関を一歩出ると晩のおかずが採れる」ほどになるまでに払われている維持管理の労力を見ないのは不公平でしょう。ユートピア的田舎観みたいなものがちらほらと垣間見えるところに、田舎在住の者として違和感を感じるのかもしれません。

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