電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

大野芳『「宗谷」の昭和史~南極観測船になった海軍特務艦』を読む

2012年02月24日 06時01分08秒 | -ノンフィクション
新潮文庫の一月新刊の中から、大野芳著『「宗谷」の昭和史~南極観測船になった海軍特務艦』を読みました。南極観測船「宗谷」といえば、幼少時によく聞いた名前です。残念ながら、第一次観測の年である昭和31~32年頃の記憶はまるでなく、「宗谷」が氷に閉じ込められてオビ号に救出されたニュースなども、後に本や雑誌などで知った程度です。カラフト犬タロ・ジロの生還についても、団塊の世代の人たちほどの思い出はありません。むしろ、高校生くらいの頃に読んだ岩波新書で、西堀栄三郎著『南極越冬記』に描かれた人間模様に、いささか興ざめしたくらいなものです。

しかし、この「宗谷」という船の歴史には驚かされました。はじめは、ロシア(当時はソ連)発注による耐氷型貨物船として建造され、請け負った川南工業と軍とソ連通商部の綱引きで所属が迷走したあげく、結局は大日本帝国海軍の特務艦「宗谷」として、測量等の任務に従事し、幸運にも太平洋戦争を生きのびます。戦後は引き揚げ船として帰国者の輸送に従事し、一段落すると、海上保安庁の灯台補給船「宗谷」として、灯台守たちに親しまれます。

ところが、国際地球観測年を契機に、朝日新聞の矢田記者が企画しレールを敷いた南極観測隊の派遣のため、南極観測船「宗谷」として改装されます。もともと砕氷船ではないのですから、南極の氷に太刀打ちできないのは仕方のないことでした。そして任務を後継船「しらせ」に引き継いだ後は、海上保安庁の巡視船「宗谷」として、北洋の哨戒業務に従事します。どうも、この晩年の「宗谷」がいちばん特質を発揮できて幸せだったみたいです。エピローグに紹介された、流氷群に閉じ込められた稚内港船だまりから41隻の漁船団を脱出させるあたりは、不覚にもうるうるしてしまいました。



オゾンホールの発見や地球の年代を明らかにするなどの地球科学的な業績は大きなものがありますが、南極観測の初期には、ゴールドラッシュに群がる山師たちのように、功名心にはやる人々が多かったことでしょう。資源の少ない日本で、南極にウラン鉱石を求め、原子力エネルギーを夢見た人もいたに違いありません。まさか、福島原発事故のような事態になるとは思わずに。

南極は、今は夏の盛りを過ぎて、ペンギンたちも忙しいのでしょうか。ドイツのマーチン基地に設置されたライブカメラ(*)が、真冬の北国のデスク上に置いたモニターに映し出す風景を見ると、奇妙な感覚を覚えます。

(*):南極のペンギンはただいま抱卵中?~「電網郊外散歩道」2007年12月

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