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電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

吉村昭『白い航跡』上巻を読む

2009年08月04日 05時37分26秒 | -吉村昭
就寝前に少しずつ読んできた吉村昭著『白い航跡』上巻(講談社文庫)を読了しました。たぶん、五度目か六度目くらいの再読です。何度読んでも面白く、その都度発見があり、飽きることがありません。

第1章、鳥羽伏見の戦いによって開始された幕末の内戦は、戊辰戦争として拡大され、新政府軍は奥羽全域を支配下に置くために、追討戦を展開します。本書の主人公・高木兼寛は、薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍していた、20歳の青年でした。平潟に上陸し、会津若松での激しい戦闘を経験し、戦のむごさを身をもって体験すると同時に、銃創に対し漢方医の無力を痛感します。
第2章、戦が終わり、薩摩での師・石神良策を訪ね、英人医師ウィリスらの西洋医学の優越を痛感した兼寛は、父母の住む故郷に帰ります。
第3章、兼寛は、医師になりたいという希望を叶えてくれた大工の両親に孝養を尽くそうとするのですが、向学の念やみがたく、鹿児島に新設された開成所において英語を学びます。一方、中央では、英国医学ではなくドイツ医学を中心とすることが決定され、戊辰戦争で功績のあったウィリスの待遇が問題となります。そのような事情から、鹿児島に水準の高い医学校の開設が図られるのです。
第4章、開成所で英語の学習に明け暮れていた兼寛は、師・石神良策がウィリスを中心として鹿児島医学校兼病院を開くことを聞き、入学を希望します。幸いにも、従軍歴と英語力を認められ、入学を許可されて、ウィリスの下で頭角を現します。やがて、東京に出ていた石神から、海軍に来いとの誘いを受け、ウィリスにも相談の上、海軍に出仕することになります。それは、故郷と父母への別れでもありました。このあたり、しみじみとした情感にあふれた部分です。
第5章、海軍病院は、実証的なイギリス医学を範とし、東京帝大及び陸軍は、学理を中心とするドイツ医学を信奉しています。兼寛は海軍病院に勤務するかたわら、師の石神から英学者・瀬脇寿人の娘・富を紹介され、結婚します。生活は平穏で、一女幸を得たころ、兼寛は海軍における脚気病問題に注目するのでした。
第6章、海軍病院に軍医学校が併設され、英国人ウィリアム・アンダーソンが着任、ウィリスの下で英語と医学を修めていた兼寛はアンダーソンと親交を結び、その信頼を集めます。故郷の父親の死に驚き帰郷しますが、母は故郷に留まり暮らし続けることを希望します。これは正解ですね。老木を移植しても枯れるばかり。やはり根づいた土地が一番なのでしょう。やがて、石神の勧めとアンダーソンの推薦により、兼寛は英国に留学することになります。行く先は、アンダーソンの母校、セント・トーマス病院付属医学校です。義父の瀬脇寿人も喜び、妻も理解を示しますが、石神良策が倒れ、死去します。海を渡り、ロンドンに到着した兼寛は、生活を切り詰めながら勉学に励み、優秀な成績をおさめます。彼は、目にしたセント・トーマス病院の優れた仕組み、貧困者への医療費無料化や、看護婦養成などの価値を高く評価しますが、日本からの報せは薩摩での西南戦争の経緯であり、故郷の母の死去の報でした。さらに大久保利通の暗殺、義父の瀬脇寿人の死去と続きます。英国におけるフェローシップ免状の授与の栄光を土産に、兼寛は帰国のため船上の人となるのでした。

この物語は、著者が綿密な取材をもとに書き上げたものであり、医学修行における努力と栄光の半面の、家庭的な不幸が、作り事でないリアルな陰影を生み出しています。重厚な物語です。
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吉村昭『私の文学漂流』に見る作家夫婦のあり方

2009年04月28日 06時16分47秒 | -吉村昭
以前、吉村昭氏の未発表原稿が発見されたことを契機に、「小説新潮」誌が特集を組んだことがあり、そのときに、氏の書斎の写真に触れて、夫人の津村節子氏との関係を推測したことがありました(*)。本書『私の文学漂流』(ちくま文庫)で、吉村昭氏による夫婦作家誕生の秘話を読み、これに対する解答を知るとともに、たいへん清々しい感銘を受けました。

結核療養歴のある若い大学生の青年が、短大を出て女流作家を目指す若い女性と同人雑誌で知り合い、やがて正式に結婚を申し込みます。先輩夫婦作家の離婚を例に、小説を一生書きつづけていくために結婚はしないつもりだと断られますが、氏は妻が生涯の仕事と考えているものをはばむつもりはないと答え、やがて二人は結婚します。若い二人の貧乏暮らしはあぶなっかしく、病気をしなかったのが不思議なほどです。

職業作家として暮らしを立てるのは難しく、しばらく奮闘した後に、夫は生活のために再び会社勤めに戻り、作品の発表数は激減します。そんなとき、妻の津村節子さんが芥川賞を受賞。妻は夫に、「会社を辞めたら」と言います。夫が生活のために会社の仕事に追われ、このまま小説が書けなくなってしまうことを恐れての言葉でした。氏もそのことを痛感しており、やがて会社勤めを辞める決意をします。このあたり、単に夫婦の関係というよりも、なんとなく同志を気遣うような気配もあります。

それにしても、夫人の受賞をきっかけに取材に訪れた婦人雑誌の記者のインタビューには恐れ入ります。

「芥川賞候補に四回なられて落選し、奥さんが受賞されて、どんなお気持ちですか」

ここまでは仕方がないかも。しかし、

「離婚するのではないか、という噂がもっぱらです。離婚なさるのではないですか」

というのは、婦人雑誌のインタビューとしては核心なのだろうとは思いつつ、雑誌記者というのは腹立たしく因果な商売だなぁと思ってしまいます。これに対する氏の対応は率直で明快ですが、記者は納得していないようです。たぶん、「芸術(文学)と夫婦生活は両立しない」と考えていたからでしょう。

昔の人は、とくに明治~大正期に生を受けた世代の人たちは、芸術を生活よりも上に置き、芸術のためならば生活を犠牲にすることも厭わず、という覚悟を是とする人が少なくなかったような印象を持っています。しかし、吉村昭氏や藤沢周平氏の作品などに見られるのは、日々の生活こそが大切なのであり、芸術はその中で営まれるものの一つだ、という感じ方です。肺結核との闘病生活や、戦争と敗戦期の苦しい生活、あるいは家庭的な不幸や不遇などの共通点もありますが、「芸術(文学)のために離婚も辞さず」という人たちとは異なる価値観を感じます。

夫婦で一緒に生活している。そして夫婦ともに作家であって、生活上の工夫はするが、どちらかが一方的に犠牲になるのではない。そういう作家夫婦のあり方が、この雑誌記者には、おそらく理解できなかったのでしょう。



(*):小説新潮が吉村昭特集~「電網郊外散歩道」2007年4月の記事
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吉村昭『夜明けの雷鳴~医師 高松凌雲』を読む

2008年08月19日 05時07分50秒 | -吉村昭
少し前に購入していた文春文庫で、吉村昭著『夜明けの雷鳴~医師 高松凌雲』を読みました。USBメモリーで持ち歩いている、1989年頃からのテキスト備忘録を、「夜明けの雷鳴」で検索すると、

2002/08/15 『夜明けの雷鳴』読了 吉村昭著(文芸春秋社)『夜明けの雷鳴』を読了した。徳川慶喜の弟でパリ万国博覧会に参加した徳川昭武に随行した幕末の外科医、高松凌雲を描く。幕臣として榎本武揚に従い函館戦争に従軍、敵味方の区別なく負傷者の治療に当たる。明治初期の東京に、貧民を救うために同愛社を設立、ヨーロッパの赤十字思想を日本にもたらした貢献者の一人。

とあります。ちょうど6年ぶりの再読です。当時は、たしか図書館で単行本を借りて読んだはずです。

全体は三つに分けられます。はじめは、生い立ちからフランスでの医学修行です。次が明治維新により急ぎ帰国し、徳川幕府に義理立てして箱館戦争に従軍しますが、フランスでの経験から、箱館病院で敵味方の区別なく治療にあたります。そして最後が、箱館戦争終結後、東京で医師として活動し、同愛社を育てる経緯です。波乱に満ちた、しかし重厚な物語は、じゅうぶんに読み応えがあります。
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吉村昭『大本営が震えた日』を読む

2008年06月13日 05時09分51秒 | -吉村昭
単身赴任を始めたときに持参した本のうち、新潮文庫で吉村昭著『大本営が震えた日』を読了しました。

太平洋戦争の開戦を指示する極秘文書を携えた航空機が中国奥地で遭難します。12月8日に向けて緻密に組み立てられた奇襲のシナリオが一気に瓦解してしまいかねない重大な事態です。奇跡的に生存していた杉坂少佐と久野曹長の二名は、極秘文書を処分したのですが、その事実を伝えようと逃亡を続けます。
続いて、南方派遣作戦と真珠湾奇襲作戦の緊迫した姿が描かれます。開戦前夜、隠密船団の動きを英国に悟られてはならないとする緊迫感や、タイ進駐にまつわる 謀略なども、乱暴な話です。
悪天候の中の上陸作戦のさなか、海中に落ちてしまう兵士が続出しますが、机上の作戦の犠牲者でしょう。これらの描写からも、作者の視点がどこにあるかがわかります。作戦司令部から一歩も動かない視点ではありません。
真珠湾を目指し、北方ルートをたどる隠密艦隊の動きや諜報活動もまた、12月8日に向かって収斂していく動きの一つでした。

 庶民の驚きは大きかった。かれらは、だれ一人として戦争発生を知らなかった。知っていたのは、極くかぎられたわずかな作戦関係担当の高級軍人だけであった。
 陸海軍人230万、一般人80万のおびただしい死者をのみこんだ恐るべき太平洋戦争は、こんな風にしてはじまった。しかも、それは庶民の知らぬうちにひそかに企画され、そして発生したのだ。

という棹尾の作者の言葉は、この戦争の本質をよく言い表していると思います。
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吉村昭『間宮林蔵』を読む

2007年11月04日 07時17分45秒 | -吉村昭
野暮用で出かけた東京往復の車中、講談社文庫で吉村昭著『間宮林蔵』を読みました。間宮林蔵というと、樺太と大陸との間に間宮海峡を発見した、江戸時代の北方探険家というほかに、幕府の隠密としてシーボルト事件では悪役となっていることくらいしか知りませんでした。でも、吉村昭氏が取り上げているのだから、きっと面白いだろうと信じて読み始め、その期待は今回も裏切られませんでした!

物語は、文化四年、エトロフ島でロシア軍艦の襲撃に遭遇するところから始まります。激しい砲撃の中、戦闘らしい戦闘もせずに、恐怖にかられて退却する武士たちの弱腰を批判する間宮林蔵は、百姓の子ながら測量助手を経て下級武士となっていました。林蔵は、責任を問う幕府の取り調べに対しても、撤退に反対したことを主張し、責任を問われることなく、かろうじてお構いなしとされました。この一件は、後々まで彼の自己防衛的な姿勢のもとになったようです。

さて、北方の防衛には地図が必要となることから、林蔵は北方探検の必要性を訴え、認められます。アイヌの生活を研究し、彼らの言葉を知り、厳しい冬を乗り切る食生活にも慣れて、樺太北部の調査に向かい、成功するまでが第一部です。これは、ただ単に樺太北部を踏査しただけではなく、海峡を越えてギリヤーク人や山丹人の住む東韃靼に渡り、清朝に貢納する状況も詳細に報告しています。

その後、伊能忠敬に師事して北海道の地図を完成し、伊能の日本地図とあわせて日本全図を完成します。北方の専門家として重用されるようになったことに加えて、幕府の隠密として働くようになります。シーボルト事件は、一面識もないシーボルトからの贈り物を上司に報告したことが発端となり、幕府がひそかに内偵を進めていたところへ、折からの台風で座礁した外国船内から、国禁の物品や日本地図等が発見されたことから、大きな事件へと発展したものでした。このあたりは、間宮林蔵側からの見方を知ることができます。

はじめは外国船打ち払いを主張する強硬派だった間宮林蔵も、経験と認識を深めるにつれて柔軟になり、江川太郎左衛門や渡辺華山らと交わり、開明的な理解を示すようになります。蛮社の獄を推進した鳥居耀蔵の走狗のような理解は、どうも誤りのようです。

伊能忠敬にしろ間宮林蔵にしろ、家庭的に恵まれない晩年を送ります。長い年月をかけて歩いて地図を作るという仕事の性格上、家庭的な役割を期待することはできません。地域に定着し、ローカルな域内で暮らす私には考えられないような生活。本書により、間宮林蔵のイメージがだいぶ変わりました。
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幕末の英和対訳辞書草稿の発見と吉村昭『黒船』を読む

2007年08月06日 05時28分28秒 | -吉村昭
しばらく前の山形新聞夕刊に、「開国への息遣い」と題して、幕末の「英和対訳袖珍辞書」草稿の発見を解説した記事が掲載されました。「近代化示す超一級史料」と評価されたのは、名古屋学院大学の堀孝彦名誉教授です。氏は、幕末の通詞・堀達之助の玄孫でもあります。この発見は、すでに3月に共同通信等を通じて報道されていましたが、このほど第一人者の手により解説されたことで、その意義が理解できるようになりました。

堀達之助は、幕末の長崎オランダ語通詞であり、吉村昭『黒船』の主人公です。ペリーの来航に際し、首席通詞として交渉にあたります。しかし、オランダ語から英語へと移り変わりつつあった時代に、英会話に長じた森山栄之助らにその役をゆずっただけでなく、ドイツ商人リュドルフの私的な文書の取扱いをめぐって罪に問われ、伝馬町の獄につながれます。安政の大獄に際し入牢した吉田松蔭の手紙の中に、堀達之助への感謝が記されているのは、この時期のものだそうです。
獄中に救いの手を差し延べたのは、蕃書調所の頭取であった古賀謹一郎でした。西洋の文献書籍を系統的に翻訳する役割を果たしていたこの役所で、堀達之助は英和辞書の編纂を命じられます。オランダ語には熟達していた堀も、英会話については自信がありませんでした。しかし、英蘭辞書を底本としてオランダ語を日本語に直すだけでなく、品詞名を確定し、用例を追加するなど、独自の工夫が盛りこみました。たとえば、

any, adj. 一。一二ノ。或ル。或ル人。尚。
any thing, 或ル。総テノ物。少シ。
any where, 或ル所。
any one, any body, 或ル人。各々。
take any, 汝ノ気ニ入ル物ヲ取レ。
any how, ドノ仕方ニテモ頓着セヌ。

という熟語なども追加されたとのこと。現代の英和辞書の基礎となる、貴重な業績と言えましょう。

この『英和対訳袖珍辞書』は、英字の部分が鉛活字、日本語の部分は木版で、洋紙を用いて印刷され、200部を製本し、価格は2両で頒布されたとのこと。しかし、当時の洋学の必要度から言ってこれではとても足りず、市中ではついに20両まで高騰したそうです。

さて、堀達之助の晩年は不遇の一言に尽きます。恩人の古賀の依頼で蝦夷に渡りますが、獄中生活で会話から離れ、すっかり苦手となってしまっていた英語での通訳の仕事は苦痛に感じるばかり。おまけに、英国領事の不法な人骨収集事件の対応という難しい国際事件に遭遇し、屈辱を覚えます。

不遇な時代にも、たまたま出会った美也という美しい未亡人と正式に再婚し、家庭の幸せを得ますが、美也さんも病没してしまうのですね。本当にお気の毒です。端正で充実した内容の本作品(写真左上)は、堀達之助の子孫が丹念にほりおこした資料に基づいて書かれたものだそうです。その子孫が、先の新聞記事にあった英語学者というわけです。なんとも不思議な因縁です。

(*):日本初の英和辞典、原稿発見=オランダ語から英語へ-群馬の古書店~「一言語学徒のページ」より

写真は、私の手元にある黒船関係の本や雑誌類です。
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吉村昭『史実を歩く』を読む

2007年07月04日 06時41分25秒 | -吉村昭
文春新書で、吉村昭著『史実を歩く』を読みました。
本書は、言ってみれば吉村昭氏の取材ノートのようなもので、作品の取材にあたって経験した興味深いエピソードを集めたものです。それだけに、すでに読んだ作品については周辺の理解が深まり、未読の作品については、どんな内容の本か、たいへん参考になります。

第1章、「破獄」の史実調査
第2章、高野長英の逃亡
第3章、日本最初の英語教師
第4章、「桜田門外ノ変」余話
第5章、ロシア皇太子と刺青
第6章、生麦事件の調査
第7章、原稿用紙を焼く
第8章、創作雑話
第9章、読者からの手紙

第1章は、小説『破獄』の取材の際の、立派な刑務官に関するエピソード。ちょいとじんと来るものがあります。
第2章は、小説『長英逃亡』の取材ノート。出羽の国米沢まで行った高野長英の逃亡行の経路を立証するくだりや、四国宇和島に潜んだ家の隠し部屋を訪ねる場面は、知的な興奮を呼び起こします。
第3章、小説『海の祭礼』の取材ノート。こちらは、取材に関わった土地と人の話。蝦夷に漂着したラナウド・マクドナルドが、長崎で日本最初の英語教師として、森山栄之助らに英会話を教えますが、当時は埋もれていたこの史実を、ずっと丹念に研究していた人々の努力に、頭が下がります。
第4章、小説『桜田門外ノ変』の取材ノートであるとともに、多くの資料や関係者の証言を集めた余話の体裁を取っているが、内容は実に興味深いものです。
第5章、小説『ニコライ遭難』は未読ですが、ロシア皇帝ニコライが巡査に切り付けられた事件の取材ノートです。ロシア皇太子ニコライが、龍の刺青をほどこしたことや、その他のエピソードを内務大臣当て報告していたことがわかり、原作を読んでみたいと思わせられます。
第6章、小説『生麦事件』の取材ノートです。この時代になると、写真が残っているのですね。当時の生麦村の事件の現場写真や、リチャードソンの遺体の写真など、貴重な歴史的写真が掲載されており、生々しさを感じます。文庫で上下二巻からなる物語は、題名の素っ気なさに反して、歴史の転換点となった事件を契機とした大きなうねりを描いており、見事な傑作。これはぜひ再読したいところです。
第7章、小説の書き出しを誤り、途中で投げ出した経験を語りながら、小説『落日の宴』の主人公、川路聖アキラ(ごんべんに莫)の女房運の悪さや、側女という言い方をしたかどうか、などを考えています。
第8章、文字どおり創作雑話なのですが、セーター姿の著者と、書斎の写真が掲載されており、普段着の姿が自然に感じられます。
最後の第9章、必ずしもありがたいものばかりではなかった読者からの手紙の多面性を書いています。そうでしょうね。伝承や口伝には誤りや記憶違いも固定されやすく、後の人はそれを頭から信じてしまうこともあるでしょう。資料をいくら提示して説明しても、なお全く信じようとしない性癖の人もいるだろうと思います。

新書サイズの小著ですが、中身はたっぷりで、吉村昭氏のファンならば、じっくり楽しめる本です。
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小説新潮が吉村昭特集

2007年04月05日 06時18分40秒 | -吉村昭
小説新潮誌が、「矜持ある人生」と題して、吉村昭の特集を組んでいます。未発表原稿が二本発見されたので、それを掲載すると同時に、夫人の津村節子さんと瀬戸内寂聴さんなどが、対談を行っています。

新発見のエッセイは、連載「わたしの普段着」のために書かれたらしい、「男と女」「郷土史家への感謝」の二篇。

表紙が、書斎で本を広げる氏の写真です。たしか、夫人の津村節子さんの机も、この隣にあったはず。背中側には、火鉢のような和風の接客コーナーがあったように記憶しています。作家夫婦が、一緒の仕事場で仕事ができるか。これは、興味深いテーマです。わが家では、できません。始終音楽が鳴っているのと、キーボードを打つ音がうるさくて気が散るのだそうで、子供たちも逃げ出しました。では、吉村昭・津村節子夫婦の場合はどうだったのだろうか。

ここからは推測です。夫人のほうが先に世間に評価されたために、吉村昭氏は一時夫人に嫉妬します。しかしそれを恥じ、六畳間の一緒の部屋で、夫人に負けずに世間に認められる作品を書こうと、自分に言い聞かせるのです。有名作家となっても、別々の仕事室を持たなかったのは、もしかすると、そんな類の夫婦の約束があったのかもしれません。
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世界ふしぎ発見、森山栄之助の番組を見ました。

2006年12月03日 17時33分13秒 | -吉村昭
12月2日、土曜の夜、本当は9時から始まるはずの「世界ふしぎ発見」、珍しくテレビを見ようと待っていたら、なかなかバレーボールが終わらない。30分近くたってからようやく始まりました。この番組、例によって「山形時間」で一週間遅く放送されているのかもしれませんが、この日は幕末の通詞であった森山栄之助を取り上げていました。
吉村昭の『海の祭礼』(*)で描かれた物語は、こんなストーリーです。

ネイティブ・アメリカンの血を引くラナルド・マクドナルドは、幕末の鎖国日本へ渡航を企て、とらえられて長崎へ送られる。片言の日本語を紙に書いて覚えようとしていることを知り、オランダ語通詞・森山栄之助は、彼に生きた英語を学ぼうと決意する。次第に意思が通じあえるようになると、ラナルドと森山らの間には不思議な友情が生まれるが、鎖国日本には彼の居場所はなく米国に送還されてしまう。やがて、英語に堪能な森山らは、開国を迫る米国海軍の提督ペルリや総領事ハリスらと厳しい交渉を重ねることとなる。いわば、幕末の日米交渉の全経緯は、鎖国日本にただ一人たどり着いた青年ラナルドと森山栄之助との友情がまいた種の上に成り立っていたのだった。

この骨格だけを取り出し、本筋とはあまり関係のない薀蓄をクイズにした番組でしたが、日米和親条約の原本をテレビカメラがとらえ、そこに「Moriyama Einosuke」という署名があるのを実際に見ると、不思議な感動を覚えます。

この物語を題材に、別の記事(*2)にしたこともありますが、再読するたびに発見のある、興味深い小説だと思います。

ところで、番組で紹介していたペルリの肖像が、まるで宇宙人のようにとらえられている話は、鎖国日本の情報伝達のしくみを考える必要があると思います。つまり、中央から回付されてきた文書や絵図をそっくり写し取り、原本は次の村に回し、写しを村人に伝える形で情報が伝達されたというのです。それならば、写しを取る人の技量が伴わず、伝言ゲームのように異国人の姿が妖怪のように描かれる場合もあったことでしょう。

黒船来航の地から遠く離れた出羽国に伝えられた水師提督ペルリの像は、いささか歌舞伎役者ふうですが、だいぶいい男に描かれておりました。これはたぶん、かなり原本に近いのでしょうか。

(*):吉村昭著『海の祭礼』
(*2):なぜ英語を学ぶのか?
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吉村昭『アメリカ彦蔵』を読む

2006年08月08日 21時34分03秒 | -吉村昭
新潮文庫で、吉村昭著『アメリカ彦蔵』を読みました。本作品は、親を亡くした播磨の国の少年が、炊事見習い夫として船に乗り組み、嵐のために太平洋を漂流してアメリカ船に救助されます。仲間とともに帰国を望みますがかなわず、親切なサンダース夫妻の援助により米国の教育と洗礼を受け、米国に帰化してアメリカ市民となり大統領にも面会した最初の日本人となります。やがて、日本語と英語の会話力を買われて米国領事ドール付の通訳として日米交渉にのぞみます。このあたりは、『海の祭礼』に描かれた日本側の通訳である森山栄之助とはまったく逆の立場です。
井伊大老の暗殺に見られるような世情不安の中で、身の安全を不安に思った彦蔵は、いったん米国に戻り、海軍の物資補給係の職を得ようとしますが、米国は南北戦争に突入し、アメリカ政府の日本への関心が低下した時期にあたるのでした。彦蔵は求める職をなかなか得ることができず、日本に戻り領事館の仕事を続けることとなります。その頃、南北戦争の終結に伴う武器の供給過剰が、生麦事件を契機にした薩英戦争から薩長同盟を経て明治維新への激動が始まるのでした。(以下略)

「明治維新は南北戦争のおかげでござる」と喝破した西郷隆盛の言葉の背景がよくわかる物語です。特に、『黒船』や『生麦事件』などは日本を舞台に描かれますが、この物語は日米をまたにかけ、南北戦争を視野に入れた点が、日本近代史に弱い理系にとって目からウロコでした。
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初めて読んだ吉村昭作品は

2006年08月02日 20時57分40秒 | -吉村昭
吉村昭氏が亡くなった。79歳。すい臓ガンだったという。おそらく、腰が痛い、背中が痛い、といった症状が出ていたと思われるが、作家特有のデスクワークに伴う持病だと思われていたのではなかろうか。まことに惜しまれる。

私が最初に吉村昭氏の作品を手にしたのは、たぶん『漂流』か『黒船』だと思う。『黒船』は、幕府のオランダ語通詞であった堀達之助が、英語学者の草分けとして英語の辞書を編纂したが、晩年は不遇な生活を送った経緯が、淡々と語られる物語だった。まるで理系の論文の総説を読むような感覚を覚えるほどに、綿密な実証の裏づけのある記述が多かったが、その中にも人間らしい情感が脈々と流れているのが感じられた。
その後、『アメリカ彦蔵』『光る壁画』『白い航跡』『長英逃亡』『海の祭礼』『夜明けの雷鳴』『海馬』『日本医家伝』『零式戦闘機』『月下美人』『島抜け』『陸奥爆沈』『プリズンの満月』『仮釈放』『生麦事件』『大黒屋光太夫』『海の史劇』『深海の使者』『ふぉん・しいほるとの娘』『落日の宴』『大本営が震えた日』『戦艦武蔵』『三陸海岸大津波』などを読んできた。何度も読み返すほどに、味わいのある作品が多いと思う。
中でも、『アメリカ彦蔵』『白い航跡』『生麦事件』『海の祭礼』などは、好んで繰り返し読んでいる。こういう作品が読めるということに対して、故人となった作者に心から感謝したいと思う。
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吉村昭『漂流』と『ロビンソン漂流記』の差はどこからくるか

2005年05月31日 22時02分55秒 | -吉村昭
吉村昭『漂流』は、ある種、凄惨な物語だ。鳥島に漂着したとき、彼らの所持品はわずかに一個の桶、割れた船材とそれから引き抜いた12本の五寸釘、であった。大型のアホウドリの肉を主食に、雨水を受けてなんとか生きのびるが、おそらくビタミン不足と思われる病気で仲間は死亡していく。しかし、同じように漂着する者達と力をあわせ、わずかの道具を使い、漂着する船材を集めて船を作ることにした。船材が漂着すると喜ぶ自分たちの姿は、まるで地獄の餓鬼のようだと思えた。

これに比べると、デフォーの『ロビンソン漂流記』は、同様にたった一人の孤独な漂流物語だが、難破船から多くの道具や物資を運び、快適な生活を作り上げる前向きな姿と、聖書に基づく信仰と労働が描かれ、それほど凄惨な印象は受けない。この差は、どこからくるのだろうか。
思うにそれは、自然の恵みと、所持していた文明の差だと思う。『漂流』の物語も、一組の火打ち石の到来で火が使えるようになると、生活の中に人間らしい様子が増してくるし、大工道具の存在が、彼らの帰国の意志を支えることになる。ロビンソン・クルーソーが、もし鉄砲を持っていなかったら、生活の様相は一変していたであろうし、後半の冒険もありえなかっただろう。
自然の恵みと漂着したときに持っていた文明の質と量。これが、二つの漂流記の違いの理由であろう。
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吉村昭著『海の祭礼』

2005年02月01日 22時01分32秒 | -吉村昭
吉村昭著『海の祭礼』の文庫新装版が出たので、再読した。ネイティブ・アメリカンの血を引くラナルド・マクドナルドが、幕末の鎖国日本へ渡航を企て、とらえられて長崎へ送られる。そこで通詞の森山栄之助らに生きた英語を教えることとなった。やがて、森山らは開国を迫る米国のペルリやハリスらと厳しい交渉を重ねることとなるが、それは鎖国日本にただ一人たどり着いた青年ラナルドとの友情がまいた種がもとになっていた、というお話。
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吉村昭著『三陸海岸大津波』

2005年01月04日 21時44分31秒 | -吉村昭
昨日、書店で文春文庫版の吉村昭著『三陸海岸大津波』を見つけ、購入してきた。2004年の3月に文庫化されたばかりの本だが、スマトラ沖地震にともなう巨大津波の被害の映像を見ているものだから、災害の実情がやけにリアルに見えてくる。
現在、私たちは、小さな地震があるとすぐにテレビをつけ、震源地、地震の規模、津波の可能性の有無などを知ることができる。そしてそれを当たり前のことと思っている。だが、この小さな本を読み、津波警戒警報システムが、いかに多くの犠牲の上に成り立っているか、ということを実感する。
読み終えて印象に残ったのは、次の三陸海岸における津波による死者数の変遷だ。
□明治29年大津波 26,360名
□昭和 8年大津波 2,995名
□昭和35年チリ地震津波 105名
この変化は、住民の津波に対する意識の高まり、津波防止の施設や警報システムの整備などによるところが大きいというが、救いがある締めくくり方になっている。
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