もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

続・普通の人のお葬式

2015年06月19日 | 不思議

 阿奈井さんが起き出す昼過ぎになってメールの内容を伝えると・・・。
「おー!懐かしいなぁ、是非教えてやってください、あ、それから住所だけでなく電話番号も・・・」と寝起きにもかかわらず、明るい声が帰ってきた。

 そして私がY・Gさんに返信をしたその日のうちに、サイゴンのYさんから電話があり、後日東京に来るときには彼と会うことになったと阿奈井さんから電話があった。

 阿奈井さんと旧友の中を取り持てたことはそれなりに嬉しかったが、期待をしていたドラマチックな内容ではなかったことは少し残念だった。

その②モランボン料理学校
 月刊面白半分という雑誌は、当時人気作家が半年交代で編集長を務める雑誌だったが、開高健さんが編集長のとき、当時地下鉄の四谷3丁目にあったモランボン料理学校に通い、かの地の料理を学びながら、戦後朝鮮半島からの引揚者だった阿奈井さんの思い出を語るという企画が立てられ、阿奈井さんの他にその絵を担当する私と、編集部のTさんの男ばかりの3人が半年間料理学校に通うこととなった。
 

 前置きが長くなったが、当時阿奈井さんは毎年同志社の学生たちと韓国へボランティアのワークキャンプに参加をしていたが、モランボン料理学校に通うようになった年には、これまで何の障りもなく出されていたビザがワークキャンプの日程の直前まで発給されなかったということがあった。
 ちなみに、モランボンというのは北朝鮮の地名で、いわば品川料理教室と言う程度に軽く思っていたが、韓国側から見れば、私たち3人は料理を習うという口実で、何らかの裏の指令を受ける役だと、笑い話のような疑いをもたれていたようだった。

 そして、それが笑い話のような話はモランボン料理学校の方も同じようだった。

 阿奈井さんの朝鮮料理入門の連載が回を重ねて終わりに近づいたとき、学校の理事長が「今日はあなた方にお詫びをせねばならない」と私たちのところにやって来た。

 実は、私はこれまで、あなた方は取材と言う名目で、ここに何かを探りに来ていると思っていた・・・。
 今日はその失礼のお詫びにと、コリアンバーに案内された。

 つまり、私たち3人は結果的にはその疑いは解けたようだが、韓国側と北朝鮮側のどちらからも怪しい存在として、おそらく料理学校に通いだしてから私たち3人はずっと双方から(まったく無駄な)監視の対象になっていたようだった。

 この学校では料理の他に南北問題のシビアさを学ばせてもらった。

その③面白半分臨終号
「面白半分」という雑誌が倒産によって廃刊になるのは当然だったが、面白半分というタイトルを掲げていた以上、倒産でハイオシマイというわけにはいかないだろう。
 面白半分は面白半分的な終わり方をしなければ読者の納得は得られないのではないかと、これまで出版界に前例のなかった「臨終号」を発行することになった。
  

 細かい経緯を書くと、短編小説くらいの量になってしまうので、ここでは書くゆとりはないが、結果だけを言えば臨終号はスーパーの閉店セールのような大入り満員となった。

 そして、この企画?を実行したのは阿奈井さんと私、それに編集部のTさんという期せずして例のモランボン料理学校に怪しい人物としてマークされていた3人だった。
 


 阿奈井さんと私のエピソードはここまでだが、最後に彼の姪が語った阿奈井さん(伯父さん)像が面白く、ちょっと気になった。

「伯父は普通の人ではなかった・・・」彼女は冒頭からそう切り出して、追悼会の席は爆笑に包まれた。

 伯父さんに始めてあったとき、小学校の先生や両親などの私の周りの大人たちとは違っていました・・・と。
 
 私自身は阿奈井さんを普通の人と言う認識だったし、今日の追悼会の客たちの誰もが見慣れた普通の常識的な作家と見ていたのだが、そういう人種?と始めて出会った子どもの眼には新鮮な驚きがあったのだろう。

 ヤクザ稼業の仲間うちでは誰もが自分は普通の人だが、外部の人間にとってはやはりそれは普通の人ではない(異物)ように・・・。

 私自身、これまでまったく普通の人間のつもりで生きてきたが、甥や姪の眼から見ればやはり私は異物なのだろうか?
 そして、近所の人も眼から見てもちょっと変なオジイさんという存在なのだろうか。
 明日からはどんな顔をして生きて入ったらいいのだろうか。 

 阿奈井さんのお別れ会でそんなことを教わり、複雑な気分で帰ってきた。     合掌



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