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もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

深刻な話

2015年03月02日 | 雑記

 高校の2年生のとき、親が学校に呼び出されお宅のお子さんは商業学校に通っているのに、簿記、そろばんの商業科目の成績が悪いのはどういうわけだ・・・と言われて来た。

 美術系の学校に行きたかった私を「お前は男の子だから末は商人になれ」という親の希望で無理やり商業高校に行かせたのアンタではないか・・・と頭の中で反論しつつも、そんなことを口にしたら、小言が罵倒に変わることを承知していたから、じっと頭を下げて小言が通り過ぎるのを待つだけだった。

 卒業後50年も経ったころのクラス会でふと思い出して、そんな話をしてみると、俺も、私も・・・と同じように無理やり商業高校に進学させられていたクラスメイトもいた。
 *高校の同期会が終わり、クラスの仲間で2次会はどこで・・・と相談中。
 一世代を30年とすれば二世代前は、まだまだ親には逆らえない時代だった

 ただ、私と同じように親の希望で商業学校に進学してきたにもかかわらず、私以外のクラスメイトたちは簿記もそろばんも苦手とせず、すんなりクリヤーしていて、親が学校から呼び出されたのは私一人だけのようだった。

 冒頭から回りくどい話を始めたが、何が言いたいのかというと、毎年いまどきになると悩まされるのが、税金の申告書だ。

 私は税金が嫌なのではなく、申告書を書くための前段階としての帳簿の記帳が少年期から大の苦手だったのだ。

  ここで前フリで書いてきた親が学校から呼び出された話がやっと効いて来るのだが、17~8歳のころから嫌いだった簿記が今になって好きになるはずもなく、10円+20円+50円+80円・・・と延々と誰がやってもやってみても同じ結果にしかならない帳簿付けの作業は、どう見てもクリエーティブな要素はなく、空き箱+がらくた×ラッカースプレー=宇宙船になるような面白さはまったくない。
  * 左の空き箱がどうして右の写真のような宇宙船になるのかはホームページ「本家おもしろ工作」のがらくた宇宙船をご覧ください。
 
 この面白くもないというより、私にとっては苦痛以外の何物でもない記帳という作業は遅々として進まない。
  YouTubeで懐かしの映画音楽を聴いて、気を紛らし、後藤散のど飴をなめて気分転換をし、などなど自分をだまし騙し10日ほどかけてやっと1年分の記帳を終えた。

 *「後藤散のど飴」というのは、学研のスタジオで工作の撮影をしているときに見つけたもので、カメラマンが四国の高速道路のサービスエリアで買ったものだというが、関東地方では売っていないようなので、九州の飴メーカーから取り寄せたものだが、のど飴の漢方の処方をした人の名が後藤という人であったことからつけられたネーミングが後藤散で、他に佐藤散、鈴木散というのど飴があるわけではない。
 かくして、苦労の末に仕上げた申告書は、一時でも手元に置いておくのも嫌で、3月1日は日曜日だったが、申告期間は日曜日でも開いていますということで、雨の降る寒い日だったが大和市の税務署まで届けてきた。

  
 一年の内で一番憂鬱な仕事を乗り切ったが、今日はその反動からか、開放感からか何も仕事に手がつかなかった。

 明日から、通常運転に戻ろう。

 ところで、タイトルの深刻な話と言ってのは何だい?
 えっ! あ、深刻な話ではなくて、申告の話の間違いだった。 
 ごめん! 


もーさん2

2015年01月25日 | 雑記

 工作教室で子どもたちからセンセイと呼ばれたくないから、まず冒頭でもーさんと呼んでください・・・とお願いをして、もーさんと自分で敬称までつけた名札を下げている。

  もーさんというのは外国の方ですか?

 横浜こども科学館での工作教室でそう訊ねられた・・・というところまで前回のブログに書いた。

 私はペンネームではゴトー孟という字を使っているが、戸籍上の本名は後藤(たけし)というが、このという文字を音読みするとモウと教わったのは小学校の5or6年生の頃だったと思う。

  その音読みを教わったときから、同級生たちは私のことをモウと呼ぶようになって、以来どこに行ってももーちゃんもーさんもー君などが私の愛称となり、もーさんの歴史は60年以上にもなり、私の中ですっかり定着してしまった。
  
 
もーさん、もうさんと二通りの表記を使い分けているのには私なりの理由はあるにはあるが、大した問題でもないし書くと長くなるのでここでは省きます。

  そんなわけで、著書などにはよりストレートにもーと読めるをペンネームとして使うようになった・・・という話を宇宙船を作りの指導をしながら子どもたちにしてきた。

 余談だが、寺門ジモンというタレントさんがいるが、多分あの人も子どものころに寺門という文字を友だちからジモン、ジモンと音読みで呼ばれていたのだろうと勝手に推測している。

  ただ、高校の3年間だけだが、出身地の愛知県の一部に〇〇さんという敬称のを省いて、豊サみっツア源サなどと呼ぶ地域の同級生がいて、その友達が私のことをモーサと呼び、さらに私が柔道部にいたことから、柔道の猛者(モサ)にひっかけて高校ではモーサという呼び方が広まり、今でも高校の同期会、クラス会だけはモーサと呼ばれている。


  名古屋でのクラス会の後は、懐かしい婆―ルフレンドたちと、懐かしい味噌煮込みうどんを食べるのが私の楽しみである。


75/75

2015年01月15日 | 雑記

 「もーさん、今どれくらいですか?」唐突に尋ねられた。

 「その日によって多少は変わるが、大体75(kg)だね」

「またまた、もーさん、日によって変わるってのはもーさん流のユーモアだろうけど、とても75歳とは見えないね」

 てっきり体重を訊ねられた思って75と言ったが、先方は私の年齢を訊ねていたようだった。

 「何、年齢を尋ねたの? それなら・・・あ!やっぱり75だ

 自分でも気がついていなかったが、今の私はたまたま年齢と体重が同じ数値だった。

 メデタイ!

 いや、別にメデタイことでもない、この符合は今だけのことではなく、来年だってもう少し体重を増やせば76歳で76kgにもなれるし、90歳で90kgもあり得る・・・。

イヤイヤ、前には90kgあった体重を苦労の末にやっとここまで下げてきたのだからまた元に戻りたくはない。

でも、遠い昔に似ているようで似てはいない話だが、まったく偶然から見つけた家族の年齢の符合のエピソードがあった。

子どもたちがまだ小学生の頃だったが、家族4人の年齢の合計がちょうど100歳であることを発見した。

 その話は、別のブログ「遊びの歳時記/もーさんの子育て日記」(第5話)に書いているので興味のある方はご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/mo-3


この写真は今から約10年位前、息子と娘の家族が揃ったときの記念写真だが、このときの全員の合計年齢はおよそ300歳になっていた


後期高齢者は高貴高齢者ー2

2014年11月29日 | 雑記

 本業、アルバイト、ボランティア、展覧会と10・11月の無茶苦茶なスケジュールも今週は木曜日の横浜の磯子区幼稚園協会の先生方の工作研修と昨日の孫が通う地元の小学校での工作教室を終えて一段落・・・。

 仕事の忙しいときにアルバイトやボランティアなんぞはしなけりゃあいいのに・・・。

 そうはいっても、アルバイト仲間の一人にとうとう入院、手術という事態が起きて人手不足が判っているのに、自分も本業が忙しいからと抜けるわけにもいかなかったし、ボランティアだって、私を頼りにしてくれるところがあればやはりこれも断れないからね。

 でも、やっとその混乱から抜け出せた、ところで、今日は前回の続きで、私が後期高齢者になるのをカウントダウンをして待っていたもう一つの理由をお話します。
*今回の話の合間に箸休めとして挿入する写真は、本文とは関係がありませんが、間もなく打ち上げが予定されている小惑星探査機はやぶさ2のミニチュアで、今年の夏の横浜子ども科学館での工作教室のために私が開発をしたがらくた工作です。
 


 あまり真面目に読まれると困るが、ま、またも~さんのヨタ話・・・程度に読み流してください。

 私が中学校1年生のときに父親が亡くなった。
 父親の年齢は45歳だった。
 そのとき、母親が私にある話をした。
「話の源はわからないが、我家の先祖が祖先の霊を粗末に扱ったから、その恨みで当主を10年づつ若く死なせて、家系を絶やす」
 ・・・と、そしてさらに「そういえばオジイサンも50何歳だったかねぇ」と付け足した。

 しかし、叔母からの話は少し違っていた。
「先祖の恨みではなくて、昔、女を騙したご先祖様がいて、その騙された女の恨みで、後藤家の当主を10年づつ若く死なせて家系を絶つ」という内容だった。

 どちらにしても、私が35歳までしか生きられないという結論は同じだった。
 *大きさがわかるように手のひらの上に乗せてみました。
 中学生の私にとっては、ただの笑い話だったが、30歳を過ぎるころになると、たまたまの偶然にしろ、交通事故か何かで、ポーンと車にはねられて遠ざかっていく意識の中で、あ、やっぱり・・・と思いながら息絶えるなんてことがあるかも知れないナ、などと思うようになってきた。

 ここから先の私の心の中に芽生えたある変化が本当はとてもいい話なのだが、ここでそれを書いているととても長い文章になってしまうので、割愛して本題の寿命の話を急ぐことにする。

 結論だけを言えば、めでたく後期高齢者の称号を得ることが出来たのだから、35歳で死ななかったらしい。

 だが、ひょっとしたら・・・
 私自身が自分が死んだことに気がつかなくて、その朝起きてきてしまったのではないだろうか?

 
 そっと女房や子どもの顔を見るが、その表情には何の変化もなく、普通の朝だった。
 そうか家族も気がついていないのなら、このまま私自身も死んだことに気がつかないことにしておこう。

 そのころは、生活感のある絵を描くように努めていたころで、仕事にも油が乗ってきて、都筑道夫さん、半村良さん、田辺聖子さんなどの作家から、小説の挿絵は牛坂に描いてもらって欲しいと指名をいただくようになっていたので、まだここでは死にたくないという執念も出てきていた。
 ただし、ある女性の評論家からは「牛坂の絵はあまりにも日本人的だからイヤだ」という拒否反応を示されたこともあったが・・・。
*牛坂浩二というのは当時イラストレーションを描くときとエッセーなどの雑文を書くときに使っていたペンネームで、ゴトー孟の名前は後になって工作おじさんとしての仕事をするときのペンネームです。

 こうして私は35歳のときから、倍の70歳になったときも素知らぬ顔をして過ごし、とうとう誰にも気がつかれぬまま後期高齢者に到達してしまった。

 恨みを持ったご先祖様か先祖に騙された女か知らぬが、その時代には後期高齢者などという言葉もなく、人生50年と言われた時代だったが、私はその祟りとやらを乗り越えてしまったのか、あるいはその祟りどおりに35歳に一度死んでしまったのだが、それに気がつかないだけでけなのか判らないが、それならそれで、もうしばらくの間このまま死んでしまったことに気がついていないことを続けていよう。
れまでのお見せしたはやぶさ2の化粧前の元の姿は実はこれです。
 本隊の空き箱は、名古屋市に本社のある風船ガムの丸川製菓株式会社からご提供をいただき、他のメカっぽいものは食パンのクロージャー、ビーズ、マクドナルドのマドラーなどを使用し、二つの平面アンテナはゴルフのマーカーを使用するなどをしています。
 太陽電池パネルには、ホログラムの折り紙を利用しました。
 
 そして、いまや私のライフワークとなった子どもたちへの遊びの提案を発信し続けよう。 
 後期高齢者=高貴高齢者といわれる日まで。

*最後に見ていただくはやぶさ2は、横浜子ども科学館のエントランスで、やはりがらくたを貼り付けて公開制作をした実物の2分の1サイズのはやぶさ2です。