曇り。
皆の話題は、そろそろ「梅雨入り」に入っています。
小学生達の運動会の練習の声が聞こえなくなったと思ったら、鳥の雛たちの騒ぎです。思えば、「ツバメ(燕)」が巣を作るといいことがあるとか、「ツバメ」には、福鳥のような響きがあるのに、他の鳥たちには、そういうことがありませんね。
他の鳥たちが、皆、森や河原に住み、自然のものを利用して住処としているから…というわけではありますまいにね。
さて、学校です。
「Aクラス」では、⒘日から「日本語能力試験対策」のため、特別カリキュラムでいくことになり、「N2対策」と「N3対策」とに別れてやることになっています。午後のクラスの中からも二人ほど、参加する予定です。
非漢字圏の学生にとっての「N3」は、漢字圏の学生の「N2」に相当すると言ってもいいでしょう。ヒアリングや単語(漢字を含む)・文法は必死になって覚え、どうにかなっても、読解力だけは一朝一夕にはつきません。まず、読書量が違うように思われるのです、東アジアの学生達とは。
日本人の中にだって、本が嫌いという人はいます。しかしながら、学校(小中高)という、(嫌いでも)いろいろな文章を読まざるを得ない「環境」がある。
それに比べ、それほど「紙の文化」が、あるとは思えないような国から来た人達は、聞いて覚えれば、それで済んできたらしく、本を繰り返し読んで理解しようとする習慣なんて、それほどないように思われます。だから、「文章を読んで理解する」という授業の時でも、一度読んだら、それで終わりで、こちらの質問に答えるため、読み返すなんてことはしません。読んだときの記憶、その時の音の記憶に頼って答えようとするのです。
「どこに書いてあったか」と聞くと、もうパニックです。「何段落の、何行目か」なんて聞くと、必死になって探すのですが、これに思いの外、時間がかかる。
もっとも、やっと「~思った」とあった時、「誰が『思った』のか」という質問にどうにか答えられるようになりました。けれども、文は短いですね。せいぜい、1、2行です、探せるのは。少しでも、質問が「まとめ」めいたもの(筆者の言いたいこと)になりますと、また、目が泳いでしまいます。それらしいところを読めるまでにはなったのですが、その、彼等が読んだ2、3行に亘る部分の、「どこか」が言えないのです。
とはいえ、こういう「作業」を通して、漢字が読めなければ、文は読めない。つまり聞いていた音と文字が一体にならなくては、いくらペラペラ流暢に話せていても、いざというときには役に立たないということが判ってくるでしょう。どうしても、学生達は、アルバイトでそれなりに通用するようになってしまうと、「もう、日本語で学ぶものは何もない」みたいな感覚に陥ってしまうようですから。
インド圏(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール等)の学生には、話せればいいという考えの人達が少なくなく、なかなか「書く」「読む」という作業ができない人が多くて、本当に大変でした。それでも、実際、努力していなくても(漢字が書けない、読めない)、「N2」くらいなら、二年(1年半ほど)で、合格する人が何人も出てくるので、感覚として、やらなくても大丈夫となっていたのです。
その都度、「君たちが目指しているものは何か」とか、「10年後の自分を思い描いてごらん」とか言って、今のアルバイトと同じ仕事をしていたいのかと、問い詰めていけば、大概の学生は嫌だと言います。もちろん、深夜の仕事は嫌でしょうね。
それでも、「N2」に合格すれば、こちらでは、「エー!(文章が読めないはず)」というほかありません。漢字がそれほどわからなくとも、「読解」など、読めなくてもわかるというのです。四択ですから、その問題だけ見て、「常識的に考えれば、二番だろう」とかで答えているのかもしれません。ただ、「日本留学試験」には、作文があるので、これを通して、実際の力は判ってしまいます。
とはいえ、この「実際」というのが、実際、「曲者」で、日本で生活をし、外国人として仕事をしていくには、生真面目に、漢字を覚え、コツコツ文章を読んでいかなければならないかというと、そうでもないのでしょう。
漢字をたくさん覚え、文章をきちんと読みこなそうとする人は、往々にして、アルバイト先では、「日本語が上手」なんて言われません。学校の勉強はあまりせずとも、ヒアリングのいい人はアルバイトに関係のある言葉はすぐ覚えられますし、そこでの会話には適当に応じられますから、テストなど「ドンと来い」です。四択ですし。これが、答えを書き写せだの、書けだの言われると、そうはいきません。だいたい写すにしても、見ても正しい漢字は書けない人だって少なくないのですから。それに時間がかかりますから、時間内には終われないでしょう。
試験というものは、その時の世情というか、社会が欲している能力を見るためのもの。そう考えていけば、文章を幾度も読んで熟考するタイプを、日本の雇用者は、それほど欲してはいないのかと思うこともあります。
人の能力には限りがあり、暗記や記憶力がいくら優れているといっても、限度はあるでしょう。そのためにメモを、人はするのでしょうし。
書物にしても、一度でわかるものはすぐに廃れていきます。何度も読み返さねば判らぬという本は少なくないはず。それに、日本語の文章を読むことに慣れていなければ、何度も読み返さねば意味が掴めないということだってあるはず。そういうことを欲していないとなれば、それができなくてもいいということになるのではありますまいか。
もちろん、外国人から「興味がないから読まない」と言われてしまえばそれまでですが。
ただ、授業でも、暗記するくらい読む(朗読)、何度も何度も読むを、今は繰り返させています。ゲーム感覚でやっていれば、楽しいし、そのうちに、読めるようになったことに気づくでしょう。こういう練習をするとしないとでは、読みの速さが違ってくるものです。読めないのが変だなと感じ始めれば、しめたものです。
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「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」が、判るようになればいいのですが。
日々是好日