日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」が、判るようになるかな…。

2019-06-05 08:53:39 | 日本語学校

曇り。

皆の話題は、そろそろ「梅雨入り」に入っています。

小学生達の運動会の練習の声が聞こえなくなったと思ったら、鳥の雛たちの騒ぎです。思えば、「ツバメ(燕)」が巣を作るといいことがあるとか、「ツバメ」には、福鳥のような響きがあるのに、他の鳥たちには、そういうことがありませんね。

他の鳥たちが、皆、森や河原に住み、自然のものを利用して住処としているから…というわけではありますまいにね。

さて、学校です。

「Aクラス」では、⒘日から「日本語能力試験対策」のため、特別カリキュラムでいくことになり、「N2対策」と「N3対策」とに別れてやることになっています。午後のクラスの中からも二人ほど、参加する予定です。

非漢字圏の学生にとっての「N3」は、漢字圏の学生の「N2」に相当すると言ってもいいでしょう。ヒアリングや単語(漢字を含む)・文法は必死になって覚え、どうにかなっても、読解力だけは一朝一夕にはつきません。まず、読書量が違うように思われるのです、東アジアの学生達とは。

日本人の中にだって、本が嫌いという人はいます。しかしながら、学校(小中高)という、(嫌いでも)いろいろな文章を読まざるを得ない「環境」がある。

それに比べ、それほど「紙の文化」が、あるとは思えないような国から来た人達は、聞いて覚えれば、それで済んできたらしく、本を繰り返し読んで理解しようとする習慣なんて、それほどないように思われます。だから、「文章を読んで理解する」という授業の時でも、一度読んだら、それで終わりで、こちらの質問に答えるため、読み返すなんてことはしません。読んだときの記憶、その時の音の記憶に頼って答えようとするのです。

「どこに書いてあったか」と聞くと、もうパニックです。「何段落の、何行目か」なんて聞くと、必死になって探すのですが、これに思いの外、時間がかかる。

もっとも、やっと「~思った」とあった時、「誰が『思った』のか」という質問にどうにか答えられるようになりました。けれども、文は短いですね。せいぜい、1、2行です、探せるのは。少しでも、質問が「まとめ」めいたもの(筆者の言いたいこと)になりますと、また、目が泳いでしまいます。それらしいところを読めるまでにはなったのですが、その、彼等が読んだ2、3行に亘る部分の、「どこか」が言えないのです。

とはいえ、こういう「作業」を通して、漢字が読めなければ、文は読めない。つまり聞いていた音と文字が一体にならなくては、いくらペラペラ流暢に話せていても、いざというときには役に立たないということが判ってくるでしょう。どうしても、学生達は、アルバイトでそれなりに通用するようになってしまうと、「もう、日本語で学ぶものは何もない」みたいな感覚に陥ってしまうようですから。

インド圏(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール等)の学生には、話せればいいという考えの人達が少なくなく、なかなか「書く」「読む」という作業ができない人が多くて、本当に大変でした。それでも、実際、努力していなくても(漢字が書けない、読めない)、「N2」くらいなら、二年(1年半ほど)で、合格する人が何人も出てくるので、感覚として、やらなくても大丈夫となっていたのです。

その都度、「君たちが目指しているものは何か」とか、「10年後の自分を思い描いてごらん」とか言って、今のアルバイトと同じ仕事をしていたいのかと、問い詰めていけば、大概の学生は嫌だと言います。もちろん、深夜の仕事は嫌でしょうね。

それでも、「N2」に合格すれば、こちらでは、「エー!(文章が読めないはず)」というほかありません。漢字がそれほどわからなくとも、「読解」など、読めなくてもわかるというのです。四択ですから、その問題だけ見て、「常識的に考えれば、二番だろう」とかで答えているのかもしれません。ただ、「日本留学試験」には、作文があるので、これを通して、実際の力は判ってしまいます。

とはいえ、この「実際」というのが、実際、「曲者」で、日本で生活をし、外国人として仕事をしていくには、生真面目に、漢字を覚え、コツコツ文章を読んでいかなければならないかというと、そうでもないのでしょう。

漢字をたくさん覚え、文章をきちんと読みこなそうとする人は、往々にして、アルバイト先では、「日本語が上手」なんて言われません。学校の勉強はあまりせずとも、ヒアリングのいい人はアルバイトに関係のある言葉はすぐ覚えられますし、そこでの会話には適当に応じられますから、テストなど「ドンと来い」です。四択ですし。これが、答えを書き写せだの、書けだの言われると、そうはいきません。だいたい写すにしても、見ても正しい漢字は書けない人だって少なくないのですから。それに時間がかかりますから、時間内には終われないでしょう。

試験というものは、その時の世情というか、社会が欲している能力を見るためのもの。そう考えていけば、文章を幾度も読んで熟考するタイプを、日本の雇用者は、それほど欲してはいないのかと思うこともあります。

人の能力には限りがあり、暗記や記憶力がいくら優れているといっても、限度はあるでしょう。そのためにメモを、人はするのでしょうし。

書物にしても、一度でわかるものはすぐに廃れていきます。何度も読み返さねば判らぬという本は少なくないはず。それに、日本語の文章を読むことに慣れていなければ、何度も読み返さねば意味が掴めないということだってあるはず。そういうことを欲していないとなれば、それができなくてもいいということになるのではありますまいか。

もちろん、外国人から「興味がないから読まない」と言われてしまえばそれまでですが。

ただ、授業でも、暗記するくらい読む(朗読)、何度も何度も読むを、今は繰り返させています。ゲーム感覚でやっていれば、楽しいし、そのうちに、読めるようになったことに気づくでしょう。こういう練習をするとしないとでは、読みの速さが違ってくるものです。読めないのが変だなと感じ始めれば、しめたものです。

「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」が、判るようになればいいのですが。

日々是好日
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単語や文法の説明。「(彼等の)身近なこと」を用いての例文作り。

2019-06-04 08:30:35 | 日本語学校

晴れ。

どうしてでしょうね。梅雨と聞くと「つゆのひぬま」という言葉が浮かんでくるのです。ずっとそのようなことはなかったのに…。浮かんでくるようになったのは、この3,4年のことなのですが。

それが、本屋さんへ行ったときに、山本周五郎の段の本を手にとって見ていると、ありました。何のことはない「書名」だったのです。山本周五郎の本をよく読んでいたのは、もう数十年も前のことです。それがあるとき、ふっと浮かんできたのでしょうね。内容もすっかり忘れていましたが、何かきっと心に引っかかるものが、この言葉にあったのでしょう。人というのは本当に不思議な生き物です。

さて、学校です。

2年目のクラスになりますと、単語の説明などが日本語でどうにかなるようになってきます。もちろん、同国人が二人でもいれば、母国語で確認をとっていることもあるようですが。

その説明の折に便利なのが、例文。一発で決まることもあれば、不発弾に終わることもあってなかなかうまくは行きません。もちろん、これを避けるために必要なのが、敵を知ること。判らせられるか、られないかという見地から見れば、学生達は皆、敵。失敗に終われば、こちらは沈没するだけです。

ある程度、学生達の国情は調べていますし、これまでためてきたものもありますから、満を持して臨んでも、不発に終わった場合は、考えてくる…。と、これまでやっていました。ところが、最近は、スマホというのがあって、彼等が調べられると来ている。ただ直接に日本語から彼等の国の言葉へというのではなく、日本語から英語に、英語から母国語にというのらしいのですが。

それで、調べても、曲がりくねった道を通っているわけですから、角を曲がれば曲がるほど違ってくるのが悲しいところ。違う場合も少なくないのです。ですから、今でも単語の説明は欠かせません。もちろん、日本語でです。

時には、彼等の習慣や国情などを聞きながら、説明のための例文を作る場合もある。しかし、そんな目的が吹っ飛ぶこともあります。

二年生は、「Aクラス」が、ネパール、ベトナム、バングラデシュ、スリランカ、中国からの学生。「Bクラス」が、ベトナム、ネパール、スリランカ、中国、インドネシアからの学生たちからなっており、共通語は日本語ではありますが、宗教は、それぞれ、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などで、お祭りや習慣、また結婚や離婚など、どの一つをとってみても、一人が言い出すと、「いや、いや、私たちは、云々」となってしまい、てんやわんや状態。

二年生というのは、一年以上を既に日本で過ごしており、「自分たちは~」と、ちょうど主張したい時期にあたるのでしょう、一つでも振ってやると、たちまち、口が動き始めます。

「相手に判ってもらいたい」というよりも、ただ単に「自分たちのことを話したい」だけだなと、思われることもあるのですが、「初級」が終わってしまうと、なかなか「口」を使う時がありませんから、こういう機会に、互いの「違う」部分を知り合うという意味も含めて、ある程度、時間をとって自由にさせることもあります。

同じ国でありながら、一人が、「こう、こうだ」などと言い始めると、「そうじゃない」とか、「そんなことはない」などと脇合いから声が出るときもあり、それはそれで面白いのです。彼等の説明では判らないときには、「わからない」とか、話の順序を変えて言ってやったりするときもあり、それはまたそれで、授業の一環ともなりますから、こういうことも、あながち、無意味というわけではありません。

それに、もう十分だなとこちらが思えば、「はい、本に戻る」と言えば、済むことです。たいていの場合、すっと活字の方にもどってくれます。

ただ、二年生というのは、言いたいことが多すぎて、整理がつかない状態の人が少なくないのです。「一番、言いたいことは何か」というのが掴めないのです。あれもこれもと、同じ分量で並べてしまい、物事の軽重がつけられないのです。

しかも、相手によっては「こういうときにはこっちを先に言った方がいい」という判断もできませんから、「一番、言いたいことは?」とこちらが問うて、整理してやらねば、「箇条書きの言いっ放し」ということにもなってしまいます。中には、「(一番大切なことは)一つじゃありません」という学生もいます。その時は、「では、その六つなり、五つなりを挙げてみて(書いてみて)。それから、さあ、考えてみよう。どれが一番大切だと思う?」

また、自分なりの考えを相手に伝えたいときでも、「そう言って相手が納得してくれると思う?」とか、「それで相手を説得出来る?」と訊くと、それは(彼等にも)判りますから、はっとなって、「できませんね」などと言う。

よく、教えることは、学ぶことだと言われますが、彼等と付き合っていると、彼等に判ってもらうためには、自分がどういう言い方をすればいいか、それを考えさせられます。

もとより、「初級」の人、「中級」レベルの人にはそれは当然でしょうが、すでに「N2」や「N1」レベルの日本語力がある人にでも、同じことが言えるのです。単語の意味を聞きに来られて説明出来るか、その一点からでも、おそらく教師の力量というのが問われてくるでしょう。

判らせようと努力しているか、あるいは日本人だからという、ただそれだけに頼って日本語でペラペラしゃべっているだけなのか。判らせよう、判ってもらおうとして説明をしていれば、いずれ、時が解決して、その部分の力はついてきます。教師の方にです。相手は変わるのですから。それに同じ相手であっても、1か月前の彼等と今の彼等とでは違います。把握の仕方も違えば、読みや感じ方さえ異なっている場合があります。彼等の方は「判りたい」故に聞いているのですから、何も思っていない人に説明を繰り返すのとは違います。そして、こちら(教師の方)は判らせたいと思い、あれかこれかと試行錯誤を繰り返しながら答えているのです。そうやって共に、経験と共に、知識の蓄積が出来ていくのでしょう。

共に成長すると言うと、ちょっときれい事に過ぎるかもしれませんが、多分、これに尽きるのでしょう。まあ、これは教育分野に限らず、どの分野でも同じことが言えるのでしょうけれども。

日々是好日
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「梅雨」が、始まりそうな空の様子です。

2019-06-03 08:53:10 | 日本語学校
曇り。

空模様が、だんだん怪しくなってきました。ぽつり、ぽつりと来るかもしれません。そして列島の下の方にある前線は、「梅雨前線」らしい。今週末にはこの前線が上がってきて、いよいよ梅雨の始まりとなるかもしれません。

まあ、空梅雨だとか、今年は夏がなかったとかで騒がれるよりは、梅雨前線下にあって、例年通り、雨が降り、例年通り、雨に誘われるように「ドクダミ(蕺)」や「アジサイ(紫陽花)」の花が街を彩った方がいい。

ところで、すぐ近く、呼べば答えるといったところに、「スズメ(雀)」がお宿を見つけたような。朝早くはことさらに賑やかで、これが親鳥が飛んでくるたびに、一斉に小雀たちが騒ぎ始めるので、日に何度も大騒ぎが始まるということになる。

数年前でしたか、三階の窓から手を伸ばせば届きそうな、電信柱(電信柱といっても、昔のように木製ではありません)の上の、三味線の糸巻きが交差したようなところというか、そこにちょうど「スズメ」が二羽ほども出入り出来るような空間があったのですよね。そこがお宿になったことがあって、授業で学生達が大声を張り上げて暗唱しているのに、平気で出入りしていました。

もっとも、私と一度目が合ったことがあって(試験中だったのです。それで見るともなしに見ていたのですが)、しまった…と思ったが、それが遅かった。ぱっと目が合って、途端に睨まれたような気がしたのです。それで、ちょっと警戒されたことがあったのですが、ガラス窓があったことで安心したのでしょう。そこはいつも閉めていましたから。それ以後も、巣立つまでしばらくそこに住んでいました。

ひと頃、驚かれた、「スズメが、絶滅危惧種になった?」というのも、本当だったのでしょう。言われてみると、確かに「スズメ」の姿を見かけることが減っていました。いやそれどころか、ますます事実となっていきそうな予感がします。実際、なんであれ、見慣れたものがいなくなるのは、寂しい。だいたい連鎖というのは繋がっているものですから、「スズメ」の数が減っていけば、いろいろなところにその影響は広がっていくことでしょう。

しかしながら、小さいものたちに餌をやろうとすると、必ず大きめの「ヒヨドリ」とか、果ては「カラス(烏)」までが飛んでくるんですものね、なかなか簡単なことではありません。もとより、「ゴキブリ」であれ、「カラス」であれ、命には変わりないのですが。

さて、学校です。

二年生のクラスでは、多少、学生の入れ替えがありました。「ゆっくりクラス」から、「普通クラス」へ、あるいは「普通クラス」から「ゆっくりクラス」へ。これが案外難しい。このクラスにいると、教科書やら、問題集やらを買わねばならないので、お金がかさむのです。勉強しないし、見ても判らないのに、それでも、このクラスの方がいいのかしらん。それがよくわからない。

在日の人の場合、お子さんの保育園の時間とか体調とかで、午前のクラスに行くことは難しいという場合があるのですが、留学生の場合は、アルバイトの時間を変えてもらえばそれで足りることも少なくありません。その場合は、こちらが大丈夫と思えば、午後と午前を移るように勧めています。もちろん、本人が言いに来ることもありますし、授業中眠ってしまう学生の場合は、相談して、午前と午後を変わらせることもあります。これは本人の気持ちが一番大切なので、よほどのことがない限り、無理強いはしません。

ただこれも、「日本語能力試験」に合格したい、今回は「N3」を、次は「N2」をと思っている学生はということになるのですが。

学生の中には(もちろん、非漢字圏の学生達です)、「N3」が取れたら、本当に安心してしまう人達もいて、お尻を叩いて勉強させるのが難しい。勉強に関して、欲をかいたことのない人達が少なくないのです。

もっとも、これも経験でしょうかしらん。一回「ああ、よかった」を経験すると、もうそこが安住の地めいて見えてしまうらしく、「次は、『N2』だ」とお尻を叩くと、本当に困ったような顔をされてしまうのです。

これも困りものですね。

日々是好日
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