日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

単語や文法の説明。「(彼等の)身近なこと」を用いての例文作り。

2019-06-04 08:30:35 | 日本語学校

晴れ。

どうしてでしょうね。梅雨と聞くと「つゆのひぬま」という言葉が浮かんでくるのです。ずっとそのようなことはなかったのに…。浮かんでくるようになったのは、この3,4年のことなのですが。

それが、本屋さんへ行ったときに、山本周五郎の段の本を手にとって見ていると、ありました。何のことはない「書名」だったのです。山本周五郎の本をよく読んでいたのは、もう数十年も前のことです。それがあるとき、ふっと浮かんできたのでしょうね。内容もすっかり忘れていましたが、何かきっと心に引っかかるものが、この言葉にあったのでしょう。人というのは本当に不思議な生き物です。

さて、学校です。

2年目のクラスになりますと、単語の説明などが日本語でどうにかなるようになってきます。もちろん、同国人が二人でもいれば、母国語で確認をとっていることもあるようですが。

その説明の折に便利なのが、例文。一発で決まることもあれば、不発弾に終わることもあってなかなかうまくは行きません。もちろん、これを避けるために必要なのが、敵を知ること。判らせられるか、られないかという見地から見れば、学生達は皆、敵。失敗に終われば、こちらは沈没するだけです。

ある程度、学生達の国情は調べていますし、これまでためてきたものもありますから、満を持して臨んでも、不発に終わった場合は、考えてくる…。と、これまでやっていました。ところが、最近は、スマホというのがあって、彼等が調べられると来ている。ただ直接に日本語から彼等の国の言葉へというのではなく、日本語から英語に、英語から母国語にというのらしいのですが。

それで、調べても、曲がりくねった道を通っているわけですから、角を曲がれば曲がるほど違ってくるのが悲しいところ。違う場合も少なくないのです。ですから、今でも単語の説明は欠かせません。もちろん、日本語でです。

時には、彼等の習慣や国情などを聞きながら、説明のための例文を作る場合もある。しかし、そんな目的が吹っ飛ぶこともあります。

二年生は、「Aクラス」が、ネパール、ベトナム、バングラデシュ、スリランカ、中国からの学生。「Bクラス」が、ベトナム、ネパール、スリランカ、中国、インドネシアからの学生たちからなっており、共通語は日本語ではありますが、宗教は、それぞれ、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などで、お祭りや習慣、また結婚や離婚など、どの一つをとってみても、一人が言い出すと、「いや、いや、私たちは、云々」となってしまい、てんやわんや状態。

二年生というのは、一年以上を既に日本で過ごしており、「自分たちは~」と、ちょうど主張したい時期にあたるのでしょう、一つでも振ってやると、たちまち、口が動き始めます。

「相手に判ってもらいたい」というよりも、ただ単に「自分たちのことを話したい」だけだなと、思われることもあるのですが、「初級」が終わってしまうと、なかなか「口」を使う時がありませんから、こういう機会に、互いの「違う」部分を知り合うという意味も含めて、ある程度、時間をとって自由にさせることもあります。

同じ国でありながら、一人が、「こう、こうだ」などと言い始めると、「そうじゃない」とか、「そんなことはない」などと脇合いから声が出るときもあり、それはそれで面白いのです。彼等の説明では判らないときには、「わからない」とか、話の順序を変えて言ってやったりするときもあり、それはまたそれで、授業の一環ともなりますから、こういうことも、あながち、無意味というわけではありません。

それに、もう十分だなとこちらが思えば、「はい、本に戻る」と言えば、済むことです。たいていの場合、すっと活字の方にもどってくれます。

ただ、二年生というのは、言いたいことが多すぎて、整理がつかない状態の人が少なくないのです。「一番、言いたいことは何か」というのが掴めないのです。あれもこれもと、同じ分量で並べてしまい、物事の軽重がつけられないのです。

しかも、相手によっては「こういうときにはこっちを先に言った方がいい」という判断もできませんから、「一番、言いたいことは?」とこちらが問うて、整理してやらねば、「箇条書きの言いっ放し」ということにもなってしまいます。中には、「(一番大切なことは)一つじゃありません」という学生もいます。その時は、「では、その六つなり、五つなりを挙げてみて(書いてみて)。それから、さあ、考えてみよう。どれが一番大切だと思う?」

また、自分なりの考えを相手に伝えたいときでも、「そう言って相手が納得してくれると思う?」とか、「それで相手を説得出来る?」と訊くと、それは(彼等にも)判りますから、はっとなって、「できませんね」などと言う。

よく、教えることは、学ぶことだと言われますが、彼等と付き合っていると、彼等に判ってもらうためには、自分がどういう言い方をすればいいか、それを考えさせられます。

もとより、「初級」の人、「中級」レベルの人にはそれは当然でしょうが、すでに「N2」や「N1」レベルの日本語力がある人にでも、同じことが言えるのです。単語の意味を聞きに来られて説明出来るか、その一点からでも、おそらく教師の力量というのが問われてくるでしょう。

判らせようと努力しているか、あるいは日本人だからという、ただそれだけに頼って日本語でペラペラしゃべっているだけなのか。判らせよう、判ってもらおうとして説明をしていれば、いずれ、時が解決して、その部分の力はついてきます。教師の方にです。相手は変わるのですから。それに同じ相手であっても、1か月前の彼等と今の彼等とでは違います。把握の仕方も違えば、読みや感じ方さえ異なっている場合があります。彼等の方は「判りたい」故に聞いているのですから、何も思っていない人に説明を繰り返すのとは違います。そして、こちら(教師の方)は判らせたいと思い、あれかこれかと試行錯誤を繰り返しながら答えているのです。そうやって共に、経験と共に、知識の蓄積が出来ていくのでしょう。

共に成長すると言うと、ちょっときれい事に過ぎるかもしれませんが、多分、これに尽きるのでしょう。まあ、これは教育分野に限らず、どの分野でも同じことが言えるのでしょうけれども。

日々是好日
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