日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

すでに日本風の味付けをしながら、他国の文化の話を聞いている私。彼等がそうであっても責められない。

2019-06-07 08:17:14 | 日本語学校

曇り。

直に、雨が降り出しそうな、実際、降るとのことですが。もしかしたら、「梅雨入り宣言」が、今日にでも出されるかもしれないとのこと。そうでしょうね、これから雨の日が続くのでしょう。

今日は、まだ、予報されたようにムシムシはしていません。冷やっこい風が吹いているだけです。窓は開けた方がいいですね。閉めてしまうと、ムシムシが始まるかもしれませんし。

この「ムシ」ですが、「○○さんが何か変なことを言った」。「先生が『ムシ(無視)』しなさいと言った」。「漢字で、『ムシ(虫)』を習ったばかりだったので、『虫????』となった」。だいたい、こういう流れででしょうね、「無視」の意味が入るのは。

ちょうど「虫の漢字」を教えたか教えるかする頃に、「そんなの無視しなさい」という言葉を遣うような仕儀になり、で、遣う…。それを面白がって、四六時中、遣っているうちに、「無視」という漢字を学ぶ。

「同音異義」の漢字があるというのは、この頃には判っているのですが、この「虫」と「無視」なるものが同じ音というのが面白いらしく、虫を見つけると、すぐ「虫を無視しました」と言うので、これがまた、結構、面白い。わざわざ、私を呼び立てて言うのです。もう、判っていますよというところなのですが、そこはおつきあい。はい、はいと言って聞いています。

小学校の時に、「学校で虫を育てていた」などと言おうものなら、彼等の頭には、「日本人も、ある国の人達のように(虫を食べるために)育てている」というイメージが湧くらしく、「好きだから育てる」、「『カブトムシ(甲虫)」や『クワガタ(鍬形)』は、かっこいいから人気がある」というのが、なかなか、スウッと入っていかないのです。

でも、確かに、中国にいた時、「スミレ(菫)」などを見かけた時、中国人の友人に「中国語で何というのか」と聞くと、たいてい「野草」という答えが返ってきました。あまり「虫」に関心がないので、「人気がある」とか「好き」とかのが、よく判らないのでしょう。「虫は虫」「草は草」なのです。

今週、「ラマダン」の終わりの、お祭りの日に、イスラム教徒の学生が休んだので、「あまり(教科書が)進めないな」と思っていた時、何からか忘れてしまったのですが、「蛇」の話になりました。

ネパール人学生曰く「ネパールの蛇はだいたい、毒蛇」。「大きい(太い)」と腕くらいの大きさだと言います。中には一人、「うちに蛇が来たことがあります」。これで、みんなが大爆笑。「遊びに来ました」。「お客さんです」。次から次に言葉が出てきます。言われた学生は、「違います。違います」と、真っ赤になっています。大丈夫、みんな判って言っているだけですから。

一人が「お母さんが噛まれて、入院しました」というと、また一人が「私のお父さんも噛まれました。大変です」と言います。彼等のところでは、別に特別なことではないらしい。それに驚いている私の方が、珍しかったのかもしれません。

思わず、「カトマンズにもいますか」と聞いてしまいましたが。曰く「いるのは、山の方。カトマンズは…さあ?」、カトマンズでは見たことがないのでしょうね。

「ベトナムも大きい蛇がいます。山の方です」。「スリランカにもいます」。すると、誰かが「(スリランカの蛇は)コブラです」。睨まれていましたけれども、コブラもいると言います。きっと、あのあたりの国には普通に見かけられるのかもしれません。

南インドには、蛇が多いのでしょうね。それも日本人が言うところの「蠎」が。しかも、色も、緑のやら白いのやら黒いのやら赤いのやら、いろいろ…というのが彼等の答えです。色も大きさも多種多様なのでしょう。

「蛇は神様です」という学生がいたので、「どんな蛇でも神様ですか」と聞くと、ある学生は「コブラだけ」と答え、また、ある学生は、「他にもいる」と言います。ネパールでも、地域によって、いろいろな姿の神様がいるのでしょう。で、日本でも、「蛇を崇め、神として祀っている神社がたくさんある」と言うと、すぐにまた「大きさ」を訊く。

彼等にしてみれば、蛇は「大きいから尊い」のであり、また「猛毒であればあるほど、畏れられてしかるべき存在となる」のであり、日本のように、小さくて細くて、しかも、毒を持っていないのに、神として祀られているというのが、どうも、ピンと来ないようです。

学生達を見ていると、もちろん彼等の背後には、それぞれの国の習慣や考え方などがあり、それが、私たちの考えとぶつかるということも、よくあるのですが、それにしても、こういう話を聞いていると、(彼等の国の)文化の豊かさに圧倒されることがあります。

様々な生物がいるからこそ、多種多様な存在が創られ、また話が膨らんでいき、文化の豊穣さに繋がっていくのかもしれません。

確かに、日本古来の神々の様子と、ヒンズー教の神々のそれとは違いますもの。日本人は、淡泊で清浄なそれを連想し、南インドの人々は、湿気が纏わり付くような、こってりとした神々を創造した。風土が育てたと言ってもいいのかもしれません。

その中にどっぷりと浸かってしまうのは、ちょっと…とも思われるのですが、日本にいて話を聞く分には、それなりに日本の色をつけて聞いていますから、なんということはない。安全圏にいて楽しんでいるようなもの。

多分、こうやって、日本の先人達は、海を隔て、お話として、異文化を取り入れ、取り入れた段階から既に日本の色に染めていった…と言ってもいいのかもしれません。

それぞれが、自分に都合のいいように話を聞きますもの。そして時間が経つうちに、日本的なとか、日本風のとか言われるものになっていったのかもしれません。

彼等の話を聞きながら、既に日本の味付けをしている自分に気づいて、そんなことを考えてしまいました。

日々是好日
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