晴れ。
今朝もいい天気です。夜から雨になるというのが、信じられないくらい。こういう天気だと昔の人は傘を持たずに出て、難渋したことでしょうね。今は天気を予報してくれる人たちがいて、お天気だけでなく、洗濯やら、雨具やら、朝昼晩の服装のことまで、痒いところに手が届くように心配をしてくれています。
昨日、北京時代の友人から葉書が届きました。ちょうど姉を亡くしてどうにもならない頃に、もう何十年ぶりでしたろう、「お久しぶりです。自由になりました」という葉書をもらったのです。が、そのときは返事が書けずにいて、数日後に、やっと無沙汰を詫び旁々、遅れた理由を書き添えたのですが。それからすぐにまた連絡があり、返事はいらないからと書いてあったのをいいことに、ずっとそのままにしていたのです。
実際、書こうとすると、姉のことしか頭に浮かばず、本来書くべきこと、書かねばならぬことが何も浮かんでこないのです。生活は二重の顔でできても、こういうことは無理でした。
絵はがきは、「渡月橋」の写真だったのですが、面白いことに、文には「嵐山」の写真と書いてありました。私は橋を見、水を見ていて、「嵐山の紅葉」には目がいっていなかったのです。改めて、嵐山かァ、紅葉かァと思いながら、さりげなく、ささくれ立った心に傷がつかぬようにと書いてくれている文面に何となく当時の様子が思い出され、慰められました。
人は一人では生まれて来られないけれども、死ぬときは一人でだと、思い定めていたつもりでしたが、いざ、一人になってしまうと、親しかった人のことしか思い浮かびません。鏡を見ていると、自分の顔のどこそこに、父母や姉の名残を見つけてしまうのです。情けないこと。
欧米の無神論者のような強さは無理ですね。
私の初めての海外はドイツでした。当時、東西に分かれていた頃でしたが、そこで初めて「西洋」というのを実感しました。最初は信仰のこと。次は一人であると言うこと。
宗教を問われて…、問うた人は、無信教者だということであったので、ちょっと用心して、「さてさて、仏教徒というほどでなし、また、信じているのは神道かと問われれば、困ってしまう。本当になんと言っていいのやら…」。相手はそれをごまかしと思ったのでしょう。それを許しません。口調から、かなり私を非難しているなということが感じられました。
こういう人と出会ったからといって、ドイツ人皆がそうであるというわけではないのでしょうが、日本人ではそういう人と出会ったことがなかったので、ドキンとするくらい驚いたのです。いえ、襟を正さずにはいられなかったと言った方がいいのかもしれません。宗教について考えるきっかけを与えられたような気がします。
彼らの場合、最初にキリスト教があって、「謀反人」はそこから激しい葛藤の末に、神を捨てる。ダラダラと信仰しているように見える人でさえ、日本人のダラダラとは、ちょっとか、あるいは全くか、違う(ように見えました)。
一神教の人たち、また、かつて一神教徒であった人たちと、どうも私たち(といっていいかどうかはわかりませんが)は、そりが合わない。自然に対する畏敬の気持ちはもっていても、それを一柱の神に委ねるというのとは違う。人を介しての話ですから、かみ合わないのも当然と言えば当然のことながら、日本人は切り捨てずに、みんなひっくるめて何事かを思おうとする、けれども、彼らはすっきりした姿で割り切ることを望む(ように思われました)。かつては古代ギリシアの神々を信じていたのに、リルケの『流刑の神々』の世界だってまだあるだろうに。
この感覚は中国で一緒にいた、中近東の人たちにも感じました。普段はヘラヘラしている人たちでさえ、こういう所は妥協なしでしたね。説明すればするほど、すれ違うというか、ゆがみは増していきます。地殻変動でも起きない限り、わからないし、わかってもらえないだろうな、みたいな感覚です。
この学校の近くにも、イスラム教を信じる人たちが少なからずいます。マンションの一室を借りたようなモスクもいくつかあるようです。彼らとイスラム教の話をすることはあまりありません。中国にいたときに、こういう人たちといろいろな話をしたことがありましたから(もちろん、こちらは芯に触れるような話は避けました。岩盤に触るか触らないかのところで、さっと避ける感じと言ったらいいのでしょうか)。
ただ、その経験から、彼ら(ここで学んだことのある人)にはこう言ってあります。日本人は異国の神について、どうのこうの言うつもりはない。ただ、日本人が昔から守ってきたルール、また現在の法律で決められたことは守ってくれ。宗教というのは、優れて心の問題だから、人の心にズカズカと入っていくことを日本人は避ける。だからあなた方も避けて欲しい。もとより、「宗教上の決まりなどは、きちんと言った方がいい」とも言います。日本人はイスラム教のことをほとんど何も知らない。故に、無意識のうちにあなた方の心を傷つけ、また傷つけられするかもしれない。それがお互いの心のしこりとなってしまうのはいかにも残念だから。
とは言いながら、普段は至極平穏無事です。こういう宗教がもとで、何事かが発生したことはありません。問題が出ることがあっても、それは宗教とは全く関係のないことが原因です。学校では、身なりに多少の違いがあるくらいで、ほかは聞かれなければ、誰がどの宗教かなんて気になりません。私が文句を言うのも、うるさいかうるさくないか、声が小さいかどうかくらいのことで、だから、皆も気にならないのでしょう。教師が気にしないことが一番だと思います、平時は。
日々是好日
今朝もいい天気です。夜から雨になるというのが、信じられないくらい。こういう天気だと昔の人は傘を持たずに出て、難渋したことでしょうね。今は天気を予報してくれる人たちがいて、お天気だけでなく、洗濯やら、雨具やら、朝昼晩の服装のことまで、痒いところに手が届くように心配をしてくれています。
昨日、北京時代の友人から葉書が届きました。ちょうど姉を亡くしてどうにもならない頃に、もう何十年ぶりでしたろう、「お久しぶりです。自由になりました」という葉書をもらったのです。が、そのときは返事が書けずにいて、数日後に、やっと無沙汰を詫び旁々、遅れた理由を書き添えたのですが。それからすぐにまた連絡があり、返事はいらないからと書いてあったのをいいことに、ずっとそのままにしていたのです。
実際、書こうとすると、姉のことしか頭に浮かばず、本来書くべきこと、書かねばならぬことが何も浮かんでこないのです。生活は二重の顔でできても、こういうことは無理でした。
絵はがきは、「渡月橋」の写真だったのですが、面白いことに、文には「嵐山」の写真と書いてありました。私は橋を見、水を見ていて、「嵐山の紅葉」には目がいっていなかったのです。改めて、嵐山かァ、紅葉かァと思いながら、さりげなく、ささくれ立った心に傷がつかぬようにと書いてくれている文面に何となく当時の様子が思い出され、慰められました。
人は一人では生まれて来られないけれども、死ぬときは一人でだと、思い定めていたつもりでしたが、いざ、一人になってしまうと、親しかった人のことしか思い浮かびません。鏡を見ていると、自分の顔のどこそこに、父母や姉の名残を見つけてしまうのです。情けないこと。
欧米の無神論者のような強さは無理ですね。
私の初めての海外はドイツでした。当時、東西に分かれていた頃でしたが、そこで初めて「西洋」というのを実感しました。最初は信仰のこと。次は一人であると言うこと。
宗教を問われて…、問うた人は、無信教者だということであったので、ちょっと用心して、「さてさて、仏教徒というほどでなし、また、信じているのは神道かと問われれば、困ってしまう。本当になんと言っていいのやら…」。相手はそれをごまかしと思ったのでしょう。それを許しません。口調から、かなり私を非難しているなということが感じられました。
こういう人と出会ったからといって、ドイツ人皆がそうであるというわけではないのでしょうが、日本人ではそういう人と出会ったことがなかったので、ドキンとするくらい驚いたのです。いえ、襟を正さずにはいられなかったと言った方がいいのかもしれません。宗教について考えるきっかけを与えられたような気がします。
彼らの場合、最初にキリスト教があって、「謀反人」はそこから激しい葛藤の末に、神を捨てる。ダラダラと信仰しているように見える人でさえ、日本人のダラダラとは、ちょっとか、あるいは全くか、違う(ように見えました)。
一神教の人たち、また、かつて一神教徒であった人たちと、どうも私たち(といっていいかどうかはわかりませんが)は、そりが合わない。自然に対する畏敬の気持ちはもっていても、それを一柱の神に委ねるというのとは違う。人を介しての話ですから、かみ合わないのも当然と言えば当然のことながら、日本人は切り捨てずに、みんなひっくるめて何事かを思おうとする、けれども、彼らはすっきりした姿で割り切ることを望む(ように思われました)。かつては古代ギリシアの神々を信じていたのに、リルケの『流刑の神々』の世界だってまだあるだろうに。
この感覚は中国で一緒にいた、中近東の人たちにも感じました。普段はヘラヘラしている人たちでさえ、こういう所は妥協なしでしたね。説明すればするほど、すれ違うというか、ゆがみは増していきます。地殻変動でも起きない限り、わからないし、わかってもらえないだろうな、みたいな感覚です。
この学校の近くにも、イスラム教を信じる人たちが少なからずいます。マンションの一室を借りたようなモスクもいくつかあるようです。彼らとイスラム教の話をすることはあまりありません。中国にいたときに、こういう人たちといろいろな話をしたことがありましたから(もちろん、こちらは芯に触れるような話は避けました。岩盤に触るか触らないかのところで、さっと避ける感じと言ったらいいのでしょうか)。
ただ、その経験から、彼ら(ここで学んだことのある人)にはこう言ってあります。日本人は異国の神について、どうのこうの言うつもりはない。ただ、日本人が昔から守ってきたルール、また現在の法律で決められたことは守ってくれ。宗教というのは、優れて心の問題だから、人の心にズカズカと入っていくことを日本人は避ける。だからあなた方も避けて欲しい。もとより、「宗教上の決まりなどは、きちんと言った方がいい」とも言います。日本人はイスラム教のことをほとんど何も知らない。故に、無意識のうちにあなた方の心を傷つけ、また傷つけられするかもしれない。それがお互いの心のしこりとなってしまうのはいかにも残念だから。
とは言いながら、普段は至極平穏無事です。こういう宗教がもとで、何事かが発生したことはありません。問題が出ることがあっても、それは宗教とは全く関係のないことが原因です。学校では、身なりに多少の違いがあるくらいで、ほかは聞かれなければ、誰がどの宗教かなんて気になりません。私が文句を言うのも、うるさいかうるさくないか、声が小さいかどうかくらいのことで、だから、皆も気にならないのでしょう。教師が気にしないことが一番だと思います、平時は。
日々是好日