日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『冬』から『春』、『春』から『夏』へ」。

2013-03-08 11:15:44 | 日本語の授業
 今日も昨日に引き続き、「春」です。今日は朝から、寒くはなかった…調べてみると、11度とのこと。そして昼は、多分…20度とのこと。こうなると、却ってこの「春」が去った時のことが怖くなってきます。

 一度、ぬるま湯の心地よさを知ってしまうと、なかなか元に戻れません。冬の寒さがぶり返した時には、耐えられないほどの寒さに感じるかもしれません。とはいえ、毎年のように繰り返される、春と冬との鬩ぎ合い。鬩ぎ合いながらも、冬は少しずつ春に道を譲り、春は秘やかに冬の陣地を占めていく。まるで人間の世界のよう。

 ただ自然の畏るべきところは、この地球がある限り、それが繰り返されるということ(おそらくはですが)。春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ、冬から春へ、そしてまた春から夏へと…。気が遠くなりそうです。

 人というのは、この世には、ほんの仮住まい。遠くへ旅立つまでの少しの間、夢を見させてもらっているようなものなのかもしれません。

 で、現実世界でアップアップしている学生達のことです。

 皆、同じ人であるとは言いましても、どうしても「お国柄」とか「民族的な部分」とかいうのは、こういう仕事をしている限り、嫌でも目についてしまいます。地球のどの辺りで生まれ育ってきたか。その地は紛争の多い土地であったかどうか。年中、暖かいのかそれとも四季がはっきりしているのか、あるいは寒さの中でほんの少しの期間、夏を楽しむことができるだけであるのか。その風土から制限を受けて、人は生活を構築してきたわけですから、その制限がある故に却って豊かになった部分はあるにせよ、何万年も経つうちに、人の性格というものにも、風土に根ざした違いが出てくるのは当然です。

 実は、新潟に転勤した友人から、電話があったのです。「寒いところの人達はやはり勤勉である」と、南国生まれの彼女はため息をついていました。

 同じ日本であっても、南と北どころか、雪の多い日本海側と快晴の続く大平洋側では、そこに住む人々の性格も暮らしぶりも異なってきます。冬支度に追われる日本海側では、ボウッとしているうちに、殺人的な「どか雪」がやってきますから、油断している時間などありません。「それ、働け。やれ、動け」になるのでしょう。が、冬でも、何もせずに生きていこうと思えば、どうにかごまかせるような南国で、しかも大平洋側であったなら、それはそういう「ケセラセラ」という根性になったとしても不思議ではありません。

 勿論、これは、「だから、怠け者だ」とか言っているのではありません。寒いところの人達は考えなければならないことが多く、暖かいところの人間は、それほど先のことに心を砕く習慣がないということなのです。何か嫌なことを言われた時、心にグサッとくるのは寒いところの人達でありましょうし、暖かいところの人間は、一見弱そうでも、それほど心に刺さっていかないので、案外平気であるのかもしれません(人というものは、他者にそんなにひどいことを言うはずがないと信じ込んでいるような面があるような…気がするのです)。もっとも、これも想像力の問題であるのかもしれませんけれども。

 雪に覆われることの多い地方の出身であるならば、作家は、あらん限りの力でもって想像力を羽ばたかせ、色彩を多用しようとすることでしょう。けれども、暖かいところでは、年中、花が咲いている(咲き乱れるとまではいかなくても)わけですし、色彩は自然の中に溢れているのですから、人間が殊更に想像力を働かせて創る必要などないのでしょう。見ていて、目の前にある色を写せばいいわけですから。

 色に飢(かつ)えると言うと、ちょっと大袈裟かもしれませんが、そういう学生は、今のところ見当たりません。のんびりと、目の前の光景を楽しんでいる、おっとりした人達がいるだけです。ただ、お金はあるのか無いのかはわかりませんが、あまり払おうとしない人達が多いようです。

 大きな声で「私はお金がない!だから、払わない!」などと騒いでいるのを見ると、心が痛むと言うよりも、「じゃあ、なぜ、留学したの?」と言いたくなります。「留学」という言葉の意味が、日本や先進国の人間が使う意味とは違うのです。そういう人達が多くなると、もはや、学校として存続していけなくなります。そういう人達は来日前に、教材費を一括して払える、そういう日本語学校に行ったほうが、互いに幸せではないかと思うのですが(なんとなれば、それ以上のお金がかかる、レベルの高いことは教えてもらえないでしょうから)。

 「もっと、もっと勉強したい(頑張れるのなら、上のレベルに行かせたいというのは教員皆の気持ちだと思いますが)」というのなら、それに見合った教材が必要になります。2年間、『初級』の教科書だけでいいというのなら、教材費はそれだけで終わりです。ですから、「(そういう学校では)『中級』の教科書を買ってください」とか、「『上級』の教科書を買ってください」とかは言いません。それは当然でしょう(学生のレベルにかかわらず、集めた教材費の範囲内で終わらせてしまおうとするのは。お足が出るようなことはしないでしょう、損になりますから)。教科書代を払う気が無いのなら、普通は勉強なんてできません。これはどこの国でだって同じだと思うのですが、どうして日本でそういうことをしようと思うのでしょう。本当に、不思議なのです。

日々是好日