日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「卒業式」。「卒業パーティ」。「『卒業式』は終わったけれど、まだ追い出されてやらない」

2010-03-09 07:45:04 | 日本語の授業
 さて、昨日、「平成22年の『卒業式』」は、晴天の下、何事もなく行われ、何事もなく終了いたしました。「式」の途中から目がウルウルの学生がいたり、また「卒業パーティ」では、卒業生の一言や涙に、もらい泣きしてしまったり、慌てて後ろを向いてしまう在校生がいたりで、近年になく涙っぽい卒業式になってしまったようです。

卒業式パーティ

 そのくせ(普通ですと、泣くのに忙しい年度には、料理が残ってしまうという傾向にあります)と言っては何ですが、「卒業式パーティ」のために、用意した料理は、きれいさっぱりなくなっていました。「涙も出すし、騒がしいし…」と思っていたら、その分のエネルギーはため込んでいたのですね。

 その上(食い物の恨みは怖い)、卒業生が一人、パーティが終わってから、「先生、私はケーキが食べられなかった」と訴えに来ました。(どうも、後で聞くと皆に訴えていたらしいのですが)実際に彼女の行動を見ていた人によると、切り分けられたケーキを後ろの人に手渡したりしていたのは事実らしいのですが、ただし、他の料理もぱくぱくと食べていた…らしいのです。他の料理に手を出しているうちに、どうも(ケーキを食べる)チャンスを逸したらしい…。

 もう、何でもすぐに訴えに来るんだから…とはいえ、ケーキ如きに目くじらを立てるななどとも言えません。こういう習慣をつくらせたのはこちら側なのですから。何でもかでも「先生、こうだった」とか「ああだった」とか言いに来るようにさせたのは、実際のところ、私たちだったのです。

 それでも、今年の卒業生の特徴は、「素直になる」のが速かったということでしょうか。「子供のようになる」のが速かったのです。一度、そういう幼子にもどると、あとは言われるままに素直に覚え、素直に学び、解いていくという作業がスルスルと出来るようになります。これが心の垣根が太く強く高いとそうはいかないのです。

 勿論、ここでは一言で、「素直になる」とか、「幼子のようになる」とか言ってしまいますが、同じようにそう言いましても、それで、直ぐに「先生」と言いながら、寄ってこられる学生と、他の人が傍に行っているからと遠慮してしまう学生がいるのも事実です。

 遠慮することを知っている学生は、何かあっても一人の時以外は耐えてしまいます。私たちにしても(大丈夫だろうからと)、ついつい叱ったり注意したりという作業を疎かにしてしまいがちになるのです。けれども、考えて見ますれば、他の学生達と同じように18才か19才で来日し、頑張っているわけで、しっかりして見える分、一人で耐える分量も多いということになります。それに、またこれまでも(母国にいても)多かったのでしょう。そういうことまでも感じさせられた「卒業式」でした。

 学院長が、一人ひとりの入学時からの思い出を先に述べてくれたので、次の私としては、「時計と格闘」です。もう計画では「パーティ」の始まる時間…というわけで、あっという間に私は、祝辞を終えてしまいました。戻ってくる途中、在校生の間から「…ハヤイ…あり得ない…もう終わった…」という呟きが。多分、授業中の私と絡めて、「…」だったのでしょうが、授業とは違います。

 卒業生に対してもそうです。毎日の授業ですべて出し切っています。言いたいことはすべて、教室で授業の時に言っています。「今更何をか言わんや」なのです。彼らと(授業という形では)それほど多く触れる機会のなかった他の教員とは、自ずから違ってきます。特に、今年の卒業生は、卒業後も(なぜか)授業がまだ続くわけですから。

 で、主に聞き役に徹します。とはいえ、参加学生の数が多く、パーティでは用意した教室に入りきれなかったので、(外から)声を聞きつつ想像するといったくらいのものでしたが。

 というわけで、「卒業式」は無事終了しましたが、来週の金・土曜、つまり3月19日と20日の「修学旅行」が終わるまでは、「世界史」の続きと、そして直前の三日間は「奈良・京都の歴史」を勉強しますので、実質的な卒業は、この「修学旅行」が終了してからということになります。

 そういえば、若い先生から「はい、教科書が残っていたよ」とか「このプリント、あなたのでしょう」と手渡された「オシャマサン」達。「おかしい、不条理だ」と喚いていましたっけ。「私たちはまだ卒業していません。ああやって、持って帰りなさいって言われると、もうここの学生じゃないみたいです。悲しいです」。けれども、卒業式の二三日前に「はい、忘れ物です」と卒業を控えた学生に手渡すのは、毎度のこと。このように、抵抗されるのは初めてでした。この分で行くと、何かをわざと置いておくという悪さまでしかねません。

 「これまでのことは忘れて、新しい生活のことだけ考えるようにしなさい。これからは全部自分一人でしなければならないのだから」と言うと、「大丈夫。直ぐに聞きに来ますから」と言う。全く「いたちごっこ」です。けれども、これは本当のことです。特に若いうちは、「今」だけを見た方がいいのです。「終わったことにいつまでも未練を抱いている」というのは、言葉を換えて言えば、「今」がうまくいっていないからなのです。私たちにしてみれば、そちらの方が、ずっと心配なのです。

 ここを忘れてくれる方がいいのです。ここを忘れるほど、大学生活や大学院生活が楽しい方がいいのです。そうすれば、私たちも「ここで叱り、嫌な思いをさせ、泣かした」ことが無駄にならないと思えます。いつまでも「居座ろう」などと思わず、新たなる道へ。
 
 昨日はその「門出」の一日でした。

日々是好日