日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「素直に学んでいく者が、一番早く上達する」。「日本の大学院を受験するには」。

2009-10-22 11:49:55 | 日本語の授業
 今朝も穏やかです。今朝の空は、透明感がありません。お天気はいいのですが、さて、水色の絵の具にどれほどの白を混ぜたら、この空の色になるのでしょうか。
 あちこちで小鳥達がさざめくように鳴き始めました。まるで水の輪が拡がっていくようです。

 最近は中国からも、大学は卒業したものの、適当な職はないし、とにかく留学して箔でもつけるかという大卒者がやってくるようになりました。以前もいたのですが、大学の数が少なかったので、国内でちゃんと分配できていたのです。それは、どこの国でも同じことですからいいのですが、さて、きたものの、困るのが、大学院で(具体的に)何をやるかが言えない人たちが多いということなのです。

 (自分たちは)大学を卒業しているから、どうにかなるだろうとでも、考えているとしか思えないのです。日本では、別に大卒者は珍しくも何ともないので、実際のところ、どうにもならないのですが、それが、いくら口を酸っぱくして言っても、なかなか判らないという、中国からの大卒者がかなりいるのです。(専門にもよるのでしょうが、相対的に知識量が違います。本当に少ないのです。つまり、専門分野に関する書籍をあまり読んでいないのです)

 高校までの中国の学校教育がどうであるのか、私も経験したことがありませんから、何とも言えない部分があるのですが、日本の「全人教育」を目指すというのとは、違うことだけは確かのようです。

 それ故、高卒者のばあい、中国の教育方法とは相容れず、能力を伸ばせなかった者が、来日後は、そんじょそこらの(中国の)大卒者が及びもつかないような好成績を残すことがあります。
 それで、私たちは、(中国の)大学を出ているから、能力が高いとも、(中国の)大学に進学できなかったから、能力が低いとも、一概には見てはいないのです。そうはいいましても、基礎学力ということもありますから、「高考」で、350点に及ばなければ、ちょっと逃げ腰になってしまいますけれども。勿論、技術を学びたいという学生は別です。そういう人たちとは、日本へ来る前によく話し合っておきます。ファッションやエステ関係、またデザインなどを勉強したいという場合、数学や物理などの成績はそれほど関係ありませんから。

 そういうわけで大学を目指しながら、「高考」で500点に至らず、来日した学生が何人も、この学校にもいます。最初に、「先生、日本の小学校や中学校では、学校で料理も教えるの!?」とびっくりしたおしゃまさんたちもそうです。
 現在、その中の一人は、普通の(中国の)大卒者が上げられないような(日本語の)成績を上げています。志望は理系であるにも拘わらずにです。彼女の場合、最初の授業(去年の7月に来た時には「ひらがな」も「カタカナ」も書けなかった)の時から、他の子とは違うなということは判りましたが、これほど伸びようとは思ってもいませんでした。

 「留学生試験」でも、「一級試験」でも、普通、「読解文」では、「(大卒者と高卒者の間の)4年間」の差はなかなか埋めることができずに、大卒者の方が点数の上では上なのですが、中国の有名大学を出て来日している人たちよりも(過去の学生達の成績をも含めて)、彼女の方がかなり上なのです。
希望する総合大学に入れたら、何でも勉強したいと好奇心旺盛な彼女たちのことです、自分の専門分野に拘わらず、様々なことを勉強していってくれることでしょう。できれば、サークル活動などを通して、人間関係も拡げていって欲しいものです。

 おかしな言い方かもしれませんが、こういう好奇心旺盛な高卒者たちには、色がついていないような気がするのです。中にはへっぴり腰の学生もいますが、素直に、私たちが学べと言うものを受け入れ、ドンドン世界を広めていこうとするのです。

 しかしながら、(中国の)大学を卒業してから来日している学生の中には、すでに好奇心も勉学の意欲も枯渇しており、「勉強はもういい。勉強しても、得にならない」と考えているようにしか、見えない学生も少なくないのです。日本のように自由に何でも学べるところに、せっかく来たというのに。
 それでいて、大学院へ行きたいという。とはいえ、大学院で(具体的に言えなければなりません。大学へ入る時のような大ざっぱなものでは困ります。しかも、研究計画書も書かなければなりません)何を学びたいかが言えない。もう一つは、簡単に専門を変えたいと言う。しかも、プライドばかりが高いのです。能力も知識も大してないくせに、あると思い込んでいることからくる、おかしなプライドです。

 大学を出ているかどうかというよりも、自分の能力と限度をある程度知っているということの方が、日本では大切です。大学院に入りたいという場合、特にその能力が要求されます。子供ではないのですから、知らないのに知ったか振りをしても、それが通用する世界ではないのです。

 「日本語能力試験(一級)」に合格(専門分野の能力はあるとして)していようと、(国立大学の大学院を目指す場合)よほどのことがない限り、修士試験には受かりません。(日本人の受験生と比べて)読書量が全く足りないのです。受験の時に、重視される卒論にしても、中国のものは、半年くらいで書き上げて終わりというものですから、日本の大学の、半期ごとのレポート提出と同じくらいのレベルでしか見なされないのです。それが、四年間の大学生活のまとめということですから、継続して学問の道に入りたいと言っても、「はい、そうですか」というわけにはいきません。

 それで、普通は、研究生となって、大学本科の三年、四年の授業を受けながら、修士試験を目指すということになるようなのです。これも、私たちから見れば、大学側の温情です。勿論、大学院にもいろいろなレベルがありますし、教学方と事務方との連絡がうまくいっていないところもありますから(教学側は、余りにレベルの低い学生は入れてもらいたくない。一方、事務方は、日本人は誰も希望しないから、レベルが低くても外国人でも入れないことには、大学が存続できないと思っている)、どこでもいいと言う場合は、(つまり、どこでもいいのでしょうから)お金さえ、ある程度あれば、それから、運がよければ(その年に日本人の入学希望者が全然なかったとか)、入れるでしょう。

 ただ、これまで、この学校にも、優秀な大卒者が来ています。好奇心旺盛で、いろいろな事を学びたいと思って来日してきた人もいます。けれども、総じて、優秀な高卒者のほうが、日本に順応しやすいようなのです。年齢も関係しているでしょうが、大学四年間というのは、短いようでいて、とても長いのです。その間に、不必要なおかしなプライドとか、とんでもない理論とかを植え付けられていて、勉強の方のマイナスになる人も少なくないのです。

 日本の大学では、勉強がしたければ、それ以外のことには(勿論、生活がありますから、アルバイトは必要でしょうし、日本に来るまでの勉強の量というのがありますから、それが足りなければ、苦労はするでしょうが)、時間を割かなくてもいいのです。思ったことを書き、思ったことをいうことが出来るのです。くどくどしく、政治的なことを考慮したりする必要がないのです。

 日本の大学で、そういう学生生活を送った人と、普通の中国の大学(特別レベルの高い大学ではありません。聡明な人は、だいたいにおいて柔軟性があります。性格は頑固であろうと、学問の分野、つまり、知的な分野においては、必要な事はすっと理解できますから、私たちにしても、それほど困るということはないのです。どこでも学んでいけます)で、それなりに四年間を過ごした人と、差が出て来るのは当然でしょう。勿論、これは、向き不向きということもありますし、本人の資質ということも関係がありますが。

 今、学校では、「留学試験」を控え、特別授業が続いています。そういう授業が、すでに一週間くらい過ぎたわけですが、同じように授業を受けているにも拘わらず、この一週間だけでも、かなり差が出てきました。素直に注意されたことに気をつけて、勉強していく人が伸びるというのは、当たり前の事でしょうが、そういう人は、自然に集中力もついてきます。そのためにも、学生には「澱」があまりついていない方がいい。そう思うのは、私たち学校関係者だけではないでしょうが。

日々是好日
コメント
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