日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「現在の在籍者数、60名」。「自国での習慣、『読む』がない」。

2009-10-05 07:58:06 | 日本語の授業
 空はどんよりと曇っています。今日は、学生達が来る頃から「雨になる」と聞きました。今週は、台風が二つ日本に近づいていることもあり、雨の一週間になりそうです。9月は記録的な少雨であったと言いますから、その分をこの週で取り返そうというのかもしれません。まあ、どちらにしても、傘を置いたり、捜したりと、今週は毎日、玄関口が賑やかになることでしょう。

 こう言いますと、「ああ面倒な」と思われるかもしれませんが、一見、煩雑を極めるかのように見える、こういうことを通してこそ、違うクラスの学生同士が声をかけ合い、親しくなれるチャンスでもあるのです。

 この学校は、「(今期の)10月生」を入れて、今現在の在籍者数、60名です。最初の1年は別として(いくら申請しても、入管で落とされたのです。これは、最初の1年はそうされることになっているとのことでしたので、学校側のミスではありません)、よくぞここまで続いたものです。初めの頃はよく判らずに、いろいろな学生を入れてしまいましたから、それが原因で、学校が「おかしく」なっても不思議ではなかったと思います。

 ただ、学校側の真摯な態度を理解してくれる「まじめな(日本語を勉強したいと思い、しかも、かなり能力の高い)学生」が入ってくるようになってから、彼らが自分の兄弟やら、親戚、知人などを連れて来てくれるようになりました。そうなりますと、教えることに集中出来ますから、私たちも随分楽になりました。

 前の学生達も、皆「いい人」ではあったのですが、「学ぶ」と言うことの意味がよく判っていない人が多かったのです。人には持って生まれた才能なり、能力なりがあります。それに加えて、異国から来た人たちには、それまでの自国での教育環境というものがあるわけです。「日本語学校」へ行くと言っても、彼らの脳裏にあったのは、必ずしも「定時に学校へ来て、教室で、本を開いて勉強する」ではなかったのです。

 日本で言うところの、いわゆる小学校低学年に対するような教育方法で、ずっと来た人に、「文章を読みながら、考えろ」と言っても無理なことなのです。また、とにかく、教室に座って、高校までの12年間を過ごしてきただけの人(彼らの学校では、簡単に隣の答案を見ることができるのです。日本に来ても、一人で試験などを受けさせるとだめなのですが、隣の答案を見るというテクニックには、全く目を見張るようなすごさ素早さがあります)に、「このクラスは無理だから、下のクラスに行け」と言っても、彼らにはその意味が判らないのです。なぜなら、これまで学校の授業が全く判っていなくとも、ストレートに高校を卒業できていたのですから。

 私は中国で、アフリカやラテンアメリカ、或いは中東、南アジアなどの国から来た「国費留学生」をたくさん見ました。優秀な人もいましたが、フラフラと中国に「滞在」しているだけという人や、何をしに来たのかわからずに(中国語も、日本語と同じです。文字を覚え、書いているものから知識を吸収していかなければなりません)、遊んでいるだけという人もいました。「国費」で来ているのに、です。

 私たちのクラスにいたアフリカ人の学生は二人でした。一人は、非常に優秀(つまり、中国人や日本人と同じくらいに漢字を書き、書き言葉で見事な討論を行える)でしたが、もう一人は、いい人なのですが、それだけという人でした。

 ですから、アフリカの人のすべてが、日本語を学ぶに適しないとは思っていません。勿論、中東やラテンアメリカ、南アジアから来ている人も同じです。ここで言っているのは、平均的な、一種の、ある意味では、教育力という国力かもしれませんし、ある意味では、歌って踊ってが楽しいという国民性かもしれませんが、傾向なのです。国費であっても、そうだったのですから、まして、日本語学校に属している彼らは自費で来ているのです。出来るだけ、漢字を覚えて、文章を読めるようになって欲しいと思うのですが、いかんせん、「読むことは、大切だ」が、なかなか彼らの心に入っていかないのです。

 日本人には、電車の中であっても、どこであっても、直ぐにほとんどの者が何かを読んでいるということからもわかるように、「読む」ということは、不思議でも何でもないことなのです。それで、つい、見逃してしまいがちなのですが、国によっては、それほど「書籍」が商売になっていなかったり(つまり、「本」がそれほど出回っていない)、またそれゆえに、子供の頃から「読む」という習慣が全くなかったり、ということも少なくないのです。

 クラスメートだったアフリカ人学生は、よく本を読んでいました。ですから、日本人もそうであるように、同じ国の人であっても、読書が習慣になっている人とそうではない人が確かにいるでしょうが、全体的な傾向として、「質問に答えるには、文章に戻らねばならぬ」という基本が出来ていないのです。

 一度読んだ後、質問します。すると、今聞いたばかりのうろ覚えの言葉で答えようとするのです。当然間違えます。読めないから、見ようとしないのか。それとも、読もうとしないから、ますます読めなくなるのか。おそらくはこの両方なのでしょう。

 担任の若いE先生は、いつもため息をついています。学生もきっとため息をついていることでしょう。最初に先生に言われた通りにしておけばよかったのに、自国で習慣づけられていた「適当さ、いい加減さ」で、毎日をそれなりに凌いでいるうちに、もはや、何が何だか判らなくなって戸惑っている…、こんなはずじゃなかったと焦っている…そんな風にも感じられます。そして、大学には英語で行くからいいと言います。そして、ある大学の名をあげます。そこは、英語で授業はしていないと言っても、彼らの耳には届かないのです。

 「中級」の教科書も満足に読めないのに、どうして大学へ行けるなどと考えられるのか判りませんし、大学ですべての授業を「英語でやる」というところが、そうそうざらにあるとも思えません。いくら「ない」と言っても、「いや、英語で行くから大丈夫」と言うのだそうです。

 困りましたね。
 日本は「独立国」で、しかも、「日本語」には、「カタカナ」や「漢字」を駆使すれば、表せない(世界中の)概念や知識はないと言えるほどの「力」があるのです。「グローバル化」を盛んに説き、その視点から、英語で授業を進めていくという大学もあることはあるのですが、それには「英国」や「米国」の高校生並みの英語力と知識が必要になります。彼らの持っている「英語力」や「知識」では無理だと思うのですが、どうしても、それが納得できないのです。試験をして、点数を見せてもだめのようなのです。

 頭が硬いと一言で言ってしまえば簡単ですが、彼らのこれまでの教育環境や習慣などを考えますと、「普通の人だったらそうなるだろうな」とも思え、こちらとしてもきつく言えないところがあるのです。

日々是好日
コメント
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