日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

良師との出会い

2008-06-22 12:55:06 | 学生から
 先日、11年ぶりに大学院時代を同じ共同宿舎で一緒に過ごしてきたある同級生に会いました。
 当時英米文学を専攻していた所謂美男子流エリートだった彼は卒業後、銀行、外資系企業を点々と経て、今金融コンサルティング会社を経営しています。
 ギャンブル、カラオケが好きなのは、今も変わっていないようですが、当時クラスメート及び同級生のみんなをうならせる侃々諤々とした話し振りは、今はうかがえません。わざと韜晦しているのでしょうか、それとも…
 まあ、好きなタイプではありませんので、詮索する必要はないと思いますが、その中で、周りの女性クラスメートのお世辞の下で、一度だけ、彼はふんと鼻を鳴らすと、半ば吹聴らしく自慢話をしたことがあります。
 「日本語って、実をいうと、俺は高校の時にもう少し知っていたよ。当時の俺の担任は、元は日本から帰国した華僑だった。文革の中、俺の高校に物理の先生として下放されたのさ。尤も、高校時代、俺の先生の中にはすごい人は結構居たよ。国語の先生は、朱自清(亡き中国の有名な学者)の弟子だったし…」
 そうか、国語の先生は、有名な学者の弟子だったのか、うふふ、クラスメート及び同級生の皆をうならせるほどの識見を持っていたわけがよく理解できたような気がしました。
 まあ、事実はともあれ、同級生の言ったことには、少なくとも一つだけ本当だと思われるものがあります。つまり、立派な先生との出会いが人の一生の恵みとなること。古い言葉で言い換えますと、「朱に交われば赤くなる」。そういうわけです。
 振り返ってみれば、自分のこれまでの人生は、実に平凡極まりないものです。けど、それに対して自分は大変満足もしています。時間・空間的に考える場合、人の存在は短く、世界も小さい。苦楽半々というのは、世の中の常です。それより、今の平凡を自由に送らせることができるようになったのは、正にかつて数々の立派な先生に出会ったお陰だと思います。
 
  天山来客  

間違えました

2008-06-22 09:03:41 | 日本語の授業
 昨日、ミスをしてしまいました。「いずれ、菖蒲か杜若」のところで、「菖蒲」にしようか「アヤメ」にしようかと、迷い始め、そんなことを迷っているうちに、そう言えば「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」なんてのがあったなとか、「歩く姿はドラム缶」てのもあったぞと、連想の輪は、水面の輪のように広がり続け、そのまま「アヤメと菖蒲」と続けてうってしまいました。

 もし、母語が日本語でない方、見ていらっしゃったら、ごめんなさい。母語が日本語の方が見ていらっしゃったら、勘弁して下さい。「あ~あ、この人もやってる。呆けだな」と。

 随分以前なのですが、中国語を習っているとき、勉強かたがた、月刊誌や、隔週の文芸誌などを買って読んでいたのですが、そこで覚えた熟語や慣用句などを、「よし。実地訓練」とばかりに、中国人の友人の前で、試みたことがあります。だいたいは成功したのですが、あるとき、変な顔をしたかと思うと、「うまい、うまい」とおなかを抱えて大笑いするのです。しかも、そこには4人か5人、いましたからね、みんな笑うのです。褒めてくれるのはいいけれど、どうも反応がおかしい。不審に思って問いただしてみると、「えっ。おまえが作ったのじゃないのか」と怪訝そうに言うのです。

 私が、慣用句を作れるようなレベルにないことは、とうにご存じだろうにと、ムカッとした顔をしていると、すぐに「正しい言葉」を教えてくれたのですが、赤面ものでした。なんといっても、外国人ですからね、これはおもしろいと思ったら使いたくなるのです。

 これは、外国語に限りません。

 私は、学生の頃、戦後すぐの頃からの、月刊誌を読みふけったことがあります。私たちの時代には、すでに普通の人達の口に上らなくなっていた人達の名もそこで覚えました。その中の一人に花田清輝という人がいるのですが、この人には騙されました。まだ「『書かれているもの』を疑うという心」を持っていなかったのです。この人の文章に出てくることをみんな「本当のもの、本当のこと」だと思っていました。

 読むたびに「へ~え。こんな歌を作っていたのか」とか、「へ~え。あの人(歴史上の著名人)にこんな逸話があったのか」と驚き、一人前の知識を得たような錯覚に陥っていました。それからずっと経って、この人が「創作者」として有名であったことが分かるまで、私はあの頃読んだ本の中の、いろいろなことを信じていたのです。

 「原本」に触れたことのある人なら、そんなことはなかったでしょうけれど。すぐに「怪しい」ということが分かったでしょうけれど。実に巧みに騙すのです。いえ、騙すというのはおかしい。信じさせるのです、自分から蜘蛛の巣に飛び込むように誘い入れるのです。

 それで、外国人相手には、気をつけています。気をつけていても、よくぽろぽろとこぼれ落ちてしまうのですが。

 「これは…」と聞かれるたびに、知っていることは答え、知らないことは「待ってね。調べるから」。そして、間違えていたら「ごめんね」の世界。

 日本語という言葉を使いながら、何十年もこの日本にいるのに、そして、日本語という言葉を使って思考しているというのに、なかなか自分の胃の腑に落ちてこない言葉も思考もあります。使い切れていないものは、やはり説明ができません。

 けれど、そうやってこの国で朽ち果てていくのかもしれません。昔の人は桜の樹の下に埋められることを思い、思うと同時に「満開の桜の花の、花びらの一枚」になった自分を夢見ることができたでしょうが、私たちの頃はどうでしょうね。尤も、想像することは自由です。
            日々是好日