吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年3月12日/〈津屋崎まちなみ散策〉008・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉19津屋崎塩田跡

2008-03-12 15:06:37 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:塩田跡に建つ「旭製塩」の煙突
     =福津市津屋崎末広西竪川で、2008年3月12日午前9時57分撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 17 

:津屋崎塩田跡

 古くは室町時代から製塩が行われていた津屋崎で、本格的な塩田が入海(いりうみ)に開発されたのは、寛保元年(1741年)です。讃岐から訪れ、黒田藩から塩庄屋に任命された大社元七(おおこそもとしち)氏が同3年(1743年)、初めて塩釜を立てて塩を焼きました。

 昔は、福津市勝浦西東まで奥深く切れ込んだ入海で、勝浦塩田が開かれたのは津屋崎塩田より早い寛文6年(1666年)のこと。開拓当初、勝浦は27町歩、津屋崎は30町歩の塩田が造られ、ともに黒田藩直営で製塩していました。

 寛政9年(1797年)の勝浦・津屋崎両浜の製塩量は50万俵(1俵1斗3升入りとして6万5千石)で、約85%の5万7百石が藩内で消費。明治36年には、福岡県内の製塩量の約36%を生産していました。津屋崎の塩田は、明治末期までに津屋崎浜43㌶、勝浦浜23㌶の計66㌶を抱える九州一の規模に発展、「津屋崎は塩で保(も)つ」と言われたほど、津屋崎の繁栄を支える基幹産業でした。

 津屋崎の塩は「津屋崎粗塩(あらしお)」と呼ばれ、味噌、醤油、漬物、塩魚用によく合うと各地で好評で、博多の味覚にも欠かせないものとされました。

 しかし、明治38年、政府が塩の製造、流通、販売までを管理する塩専売法が施行され、塩を作り、売買して栄えてきた津屋崎・勝浦の製塩業に大きな打撃を与えました。明治44年(1911年)、津屋崎塩田が廃止され、海運業を中心に栄えていた津屋崎の衰退を決定的にします。

 福津市津屋崎末広西竪川に、津屋崎塩田が戦後、昭和20年代に一時復興、塩造りをしていたという旧「旭製塩」の煙突=写真①=が、建っています。一帯は、広大な津屋崎塩田跡地の一角ですが、草がボウボウと生えた荒地で、塩造りで活気づいていた当時の面影を伝えるものは1本の煙突のほかには見当たりません。

旧「旭製塩」煙突
       旧「旭製塩」煙突の位置図
       (ピンが立っている所)
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