写真①:馬内侍の歌碑や「蓑生ケ浦」の解説表示が建つ福間海岸
=福津市西福間4丁目の国道495号線西側で、2007年5月15日午後5時21分撮影
〈福間・町歩きスポット〉 7
:「蓑生ケ浦」と馬内侍の歌碑
福津市西福間4丁目の福間海岸を南北に走る国道495号線。その西側の「福間海水浴場」入り口の道路脇に、平安中期の女流歌人・馬内侍(うまのないし)の歌碑や「蓑生ケ浦(みのうがうら)」の解説表示が建っています=写真①=。
市が建てた「蓑生ケ浦」の解説表示=写真②=の前段には、次のように書かれていました。
〈昔から福間浦の海岸線一帯を蓑生ケ浦と呼んでいたことが、平安時代の古い書物に出ている。また、「身憂(みのう)き浜」とも呼ばれていたことが大和(やまと)物語や宗祇(そうぎ)法師の筑紫紀行にある。
(大和物語) よし思へ 蜑(あま)の拾はぬ うつせ貝
空しき名をも たつべしや君 馬内侍
(宗祇筑紫紀行) 今日(けふ)ぞしる この浦波の うつせ貝
身のうしとてや かくもなるらん〉
写真②:福津市が建てた「蓑生ケ浦」の解説表示
=福津市西福間4丁目で、07年5月15日午後2時04分撮影
解説表示の右側には、勅撰集の『後拾遺和歌集』にも収録された馬内侍の和歌「うかりける/蓑生の浦の/うつせ貝/空しき名のみ/立つは聞ききや」を刻んだ歌碑=写真③=が建てられています。歌碑の裏には、「後拾遺和歌集 巻第十八 昭和五十六年五月建立 福間町」と彫られていました。
馬内侍は叔父右馬権頭(うまごんのかみ)源時明の養女となり、一条天皇中宮定子に仕え、後宮の日常生活を司る内侍司(ないしし)の第三等管掌侍(ないしのじょう)を勤めたため、馬内侍と呼ばれています。関白藤原道隆・道兼・道長ら公家との多彩な交友関係で知られ、紫式部や和泉式部と並ぶ〝梨壺(後宮にある女官の詰め所で、庭前にナシが植えてあった「昭陽舎」の別称)の五歌仙〟の一人で、〝中古三十六歌仙〟の一人でもあります。
歌碑の和歌は「みのうの浦の身のない貝のように、憂くつらかった私のあだな噂だけが立ったのを、あなたは聞きましたか」と、自分を訪ねようとしない男に訴える女の空虚な気持ちを、中身が抜けてからになった貝殻(空貝・うつせ貝)に重ねて詠んだものです。
写真③:解説表示のそばに建てられている馬内侍の歌碑
=福津市西福間4丁目で、5月15日午後5時21分撮影
解説表示の後段には、さらに次のように書かれています。
〈その後、建武3(1336)年に小弐頼尚(しょうによりひさ)が、鎮西に孤忠を守る菊池武敏(きくちたけとし)の軍を迎えて、この地に陣を取っている。藩政時代に入って、筑前藩主黒田長政が慶長5(1600)年に、蓑生ケ浦の広地を見て、この砂丘3万坪(約10ヘクタール)に防風林として松を植えさせ、白砂青松の浜となった。
今では、ボードセーリングなどを楽しむ人たちのにぎわいの浜となっている〉
「蓑生ケ浦」(福津市西福間4丁目12番):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕JR鹿児島線福間駅下車、タクシーで約10分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約15分。駐車場は、国道495号線を挟んで向かいにある「ウエルサンピア福岡」の駐車場を利用。
「蓑生ケ浦」位置図
(ピンが立っている所)
=福津市西福間4丁目の国道495号線西側で、2007年5月15日午後5時21分撮影
〈福間・町歩きスポット〉 7
:「蓑生ケ浦」と馬内侍の歌碑
福津市西福間4丁目の福間海岸を南北に走る国道495号線。その西側の「福間海水浴場」入り口の道路脇に、平安中期の女流歌人・馬内侍(うまのないし)の歌碑や「蓑生ケ浦(みのうがうら)」の解説表示が建っています=写真①=。
市が建てた「蓑生ケ浦」の解説表示=写真②=の前段には、次のように書かれていました。
〈昔から福間浦の海岸線一帯を蓑生ケ浦と呼んでいたことが、平安時代の古い書物に出ている。また、「身憂(みのう)き浜」とも呼ばれていたことが大和(やまと)物語や宗祇(そうぎ)法師の筑紫紀行にある。
(大和物語) よし思へ 蜑(あま)の拾はぬ うつせ貝
空しき名をも たつべしや君 馬内侍
(宗祇筑紫紀行) 今日(けふ)ぞしる この浦波の うつせ貝
身のうしとてや かくもなるらん〉
写真②:福津市が建てた「蓑生ケ浦」の解説表示
=福津市西福間4丁目で、07年5月15日午後2時04分撮影
解説表示の右側には、勅撰集の『後拾遺和歌集』にも収録された馬内侍の和歌「うかりける/蓑生の浦の/うつせ貝/空しき名のみ/立つは聞ききや」を刻んだ歌碑=写真③=が建てられています。歌碑の裏には、「後拾遺和歌集 巻第十八 昭和五十六年五月建立 福間町」と彫られていました。
馬内侍は叔父右馬権頭(うまごんのかみ)源時明の養女となり、一条天皇中宮定子に仕え、後宮の日常生活を司る内侍司(ないしし)の第三等管掌侍(ないしのじょう)を勤めたため、馬内侍と呼ばれています。関白藤原道隆・道兼・道長ら公家との多彩な交友関係で知られ、紫式部や和泉式部と並ぶ〝梨壺(後宮にある女官の詰め所で、庭前にナシが植えてあった「昭陽舎」の別称)の五歌仙〟の一人で、〝中古三十六歌仙〟の一人でもあります。
歌碑の和歌は「みのうの浦の身のない貝のように、憂くつらかった私のあだな噂だけが立ったのを、あなたは聞きましたか」と、自分を訪ねようとしない男に訴える女の空虚な気持ちを、中身が抜けてからになった貝殻(空貝・うつせ貝)に重ねて詠んだものです。
写真③:解説表示のそばに建てられている馬内侍の歌碑
=福津市西福間4丁目で、5月15日午後5時21分撮影
解説表示の後段には、さらに次のように書かれています。
〈その後、建武3(1336)年に小弐頼尚(しょうによりひさ)が、鎮西に孤忠を守る菊池武敏(きくちたけとし)の軍を迎えて、この地に陣を取っている。藩政時代に入って、筑前藩主黒田長政が慶長5(1600)年に、蓑生ケ浦の広地を見て、この砂丘3万坪(約10ヘクタール)に防風林として松を植えさせ、白砂青松の浜となった。
今では、ボードセーリングなどを楽しむ人たちのにぎわいの浜となっている〉
「蓑生ケ浦」(福津市西福間4丁目12番):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕JR鹿児島線福間駅下車、タクシーで約10分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約15分。駐車場は、国道495号線を挟んで向かいにある「ウエルサンピア福岡」の駐車場を利用。
「蓑生ケ浦」位置図
(ピンが立っている所)