吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

〈催事〉0468:「相島積石塚群」探訪

2016-11-29 17:19:45 | 行楽催事

 

写真①:「相島積石塚群」の中で最大で、2段構成の「120号墳」

      =福岡県新宮町・長井浜の「相島積石塚群」で、2016年11月29日午前10時35分撮影

 岡県新宮町の「相島積石塚群」を見に行ってきました

  11月29日、福岡県新宮町の玄界灘に浮かぶ「相島」を久しぶりに訪ねました。10月30日、同町上府の「そぴあしんぐう」大ホールで開かれたシンポジウム「相島積石塚群 謎解きの旅」を聴き、福津市・「津屋崎古墳群」の石室に使われていることが分かった「相島」産の玄武岩で築かれた「相島積石塚群」を探訪したくなったからです。

  新宮町・新宮港から町営渡船に乗り、19分後に相島港に到着。ここから徒歩約25分の島北東の長井浜(長さ約5百㍍)に、岩だけで築かれた古墳群「相島積石塚群」は保存されていました。4世紀から6世紀に254基が築かれたとされる西日本最大の積石塚群です。平成13年8月、国史跡に指定。町教委が同18年から10か年にわたり保存と活用のための整備を行ってきました。このうち、全長20㍍の前方後方墳の「120号墳」=写真①=は遺跡の中で最大で、2段構成で立派でした。

 10月のシンポジウムでは、「だれが、積石塚群を造ったのか」の謎解きがテーマになり、パネリストで登壇した宗像族派の重藤輝行・佐賀大学芸術地域デザイン学部教授は「海に面した所に築かれているので、海と密着した人の墓と思う」と、西田大輔・新宮町教委社会教育課学芸員が「長井浜の積石塚は、島の人以外の人が築いたと思う。12号墳の向こうには、津屋崎の町が見える。眼鏡岩の向こうには古賀市、その左に福間の町が見える。自分が生活していた所が見える所に造ったのではないか。相島の志賀島の方にも積石塚を造れる場所はあるが、造っていない」と主張。

  安曇族派の西谷正九州大名誉教授(「海の道むなかた」館長)が「相島は筑前国糟屋郡に属している。『和名類聚抄』にある糟屋郡の9つの郷名のうち阿曇は、志賀島以外のこと。阿曇が海人族だとしたら、糟屋郡が考えられる。阿曇郷は、古賀市の花鶴川河口域が候補に上がるのではなかろうか。相島への渡船場の新宮湊付近も、候補に上がる。相島は、本土部の阿曇郷と、阿曇郷に近い相島は、志賀島とともに、阿曇郷とトライアングルを形成し、安曇族が根拠地としたのではないか」と、宮元香織・北九州市市民文化スポーツ局文化企画課学芸員も「福津市教委が2015年に相島のオパサイト玄武岩を分析したら、『津屋崎古墳群』のうちの『新原・奴山古墳群』の1号墳(5世紀前半の前方後円墳)や、『勝浦峯ノ畑古墳』(5世紀中ごろの前方後円墳)、『宮地嶽古墳』(7世紀前半~中ごろの円墳)の石室の石材と元素構成比がほぼ一致した。相島の石材が、これだけ使われている」と述べ、相島と宗像地域のかかわりを強調しました。

 コーディネーターの赤司善彦・福岡県教委文化財保護課長は「海人の墓と決めつけてよいのか」と疑問を提示。シンポジウムで「日本の積石塚」について基調講演した土生田純之(はぶたよしゆき)・専修大学文学部教授は、「積石塚を海岸に造ったのは、場所を意図した積石塚といえる」と指摘していました。

オパサイト玄武岩

:細長い粒状の不透明な鉱物結晶(オパサイト)を数多く含む玄武岩(地球上で最も多量にある火山岩で、カンラン石,輝石,磁鉄鉱などの有色鉱物の割合が多いので暗灰色のものが多い)。

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