吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年5月24日/〈津屋崎まちなみ散策〉020・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉31

2008-05-24 07:38:17 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:〝偲ケ丘〟に建てられた「お夏大明神」の小さな祠
     =福津市在自で、2008年5月22日午前10時23分撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 31 

:お夏大明神

 津屋崎には、〝義の人〟が多いようです。義とは、行いが道徳・倫理にかなっているのにとどまらず、私欲を捨てて公共のためにすること、の意味です。福津市在自(あらじ)にある「お夏大明神」=写真①=に祀られている「お夏」は、津屋崎の〝義の人〟の女性の代表格でしょう。

 「お夏」は、江戸時代中期に打ち続いた凶作で、百姓たちが飢えに苦しんだ「天明の大飢饉」の時、命をかけて村人を救った娘。荒地(あらじ=在自)の郷(さと)では、上納米減額の願いを黒田藩に出し、藩が検見(けみ)をすることになり、天明3年(1783年)秋、下の原の貴船山の広場に検見場を設け、刈り取られた稲を持ち込ませました。

 器用な娘で、お針、機織りなど女の道はもちろん、農耕の仕事まで男も及ばぬほど達者だったお夏は、扱(こ)ぎ落とされた籾(もみ)を手箕(てみい=穀類をあおってふるい、殻・ごみを除く農具)で穀類と屑とを選別する「箕簸捌(みひさ)べ」の大役を自ら願い出ました。村人を救う一心で、箕を振り上げて籾の中にある実まで飛ぶような手加減をし、不作を立証しようとしましたが、役人に見つかり、処刑されました。しかし、お夏の義侠は、藩主黒田公の心を動かし、上納米を免ぜられました。

 村人たちは、一身を犠牲にして村を救おうとしたお夏を慕って、現場に小さな祠を建て、「お夏大明神」として崇め、花や線香を供え続けたという。

 5月22日、「お夏大明神」を訪れると、周囲の草が刈られ、祠の前は掃き清められていました。今も、村人の尊崇の念が篤いようです。祠の前の広場には、〈義民「お夏」の由来〉の掲示板=写真②=が立てられていました。

 掲示板には、〈幾千代に希望(のぞみ)ある身の幸(さい)捨てゝ
          むらびとすくう なつの箕簸(みひ)とり〉の和歌が紹介され、

 〈堂宇の、お夏の石祠には、「寛政四年建立」と刻まれている。うら若い身を犠牲にして、農民の難儀を救ったお夏の御霊(みたま)は、貴船山の丘から昭和三十年三月此処に遷(うつ)され、村の護(まも)りと鎮って此の郷の永久(とわ)の繁栄(さかえ)を見守っているが、村人たちは此の地を「偲ケ丘」と名付けて、其の義烈を偲んでいる〉と書かれています。


写真②:〈義民「お夏」の由来〉の掲示板
     =福津市在自偲ケ丘で、5月22日午前10時23分撮影

 〈義民「お夏」の由来〉の掲示板の北側には「お夏箕捌きの古画」=写真③=が、掲げられています。検見役の黒田藩士らの前で、着物姿のお夏が箕を捌く様子が描かれています。


写真③:お夏が箕を捌く様子を描いた「お夏箕捌きの古画」
     =福津市在自偲ケ丘で、5月22日午前10時22分撮影

お夏大明神
       「お夏大明神」位置図
       (ピンが立っている所)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2008年5月23日/〈日... | トップ | 2008年5月25日/〈津... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

津屋崎まちなみ散策」カテゴリの最新記事