吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2013年3月15日/〈福岡・町歩き〉011・西鉄太宰府駅

2013-03-15 04:42:02 | 福岡・町歩き

写真①:「太宰府天満宮」を模した外観の「西鉄太宰府駅」

     =太宰府市宰府二丁目で、2013年3月2日午前11時15分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 6

 :西鉄太宰府駅

  太宰府市宰府二丁目にある「西鉄太宰府駅」=写真①=は、「太宰府天満宮」参拝の入り口駅にふさわしく、天満宮を模した外観です。

  「太宰府天満宮」参道両脇の商店街には、組み木を入り口に突き出した変わったデザインのコーヒ店=写真②=もありました。

  

写真②:組み木を入り口に突き出した変わったデザインのコーヒ店

  「大町参道」沿いにある格子の町家を活かした和風喫茶店「風見鶏」=写真③=は、古都・大宰府らしい風情です。

 

 写真③:格子の町家を活かした和風喫茶店「風見鶏」

   「風見鶏」の斜め向かいにある「梅園」=写真④=は、和菓子処。幸せを運んでくれる天神様の守り鳥とされる「鷽(うそ)」にちなんでつくられた「うそ餅」は一口サイズで、口に入れると紫蘇の優しい香りと味が広がると、お土産や贈り物に人気のお菓子です。

 

写真④:和菓子専門店の「梅園」

  「太宰府天満宮」境内にある西高辻信貞先代宮司らの歌碑が建つ庭園・「邂逅(かいこう)の苑」の紅梅が、あでやかな花を咲かせていました=写真⑤=。天満宮界隈の散策は、桜も開花したこれからが絶好の季節です。

 

写真⑤:「邂逅の苑」のあでやかな紅梅の花

                     (「太宰府天満宮」参道探訪シリーズ・終わり)

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2013年3月14日/〈福岡・町歩き〉010・和歌・俳句灯篭

2013-03-14 02:38:54 | 福岡・町歩き

 

写真①:和歌と俳句を4つの側面に刻んだ石灯篭

      =太宰府市宰府二丁目の「西鉄太宰府駅」前広場で、2013年3月2日午前11時15分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 5

 :和歌・俳句灯篭

  太宰府市宰府二丁目の「西鉄太宰府駅」前広場で、和歌と俳句を4つの側面に刻んだ石灯篭を見つけました=写真①=。

  側面に刻まれた和歌の一つ、〈東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ〉は、もちろん太宰府天満宮の祭神・菅原道真公の作です。現代語訳は「永かった冬の終わりを知らせる風が東の方から吹きはじめたら、咲き香って、その甘い香りを遠い土地に住むことになった私にも届けておくれ梅の花よ、たとえこの私が居なくなっても春を忘れないで花開いておくれ」。

  二つ目の和歌=写真②=は、万葉歌人の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が詠んだ〈今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ われなけれども〉(今頃は、大城の山でホトトギスがさかんに鳴いているであろう。もう私はそこ(大宰府)にいないけれども)。

  

写真②:石灯篭に刻まれた大伴坂上郎女の和歌

  郎女は、大宰帥(だざいのそち)、つまり大宰府の長官に任ぜられた大伴旅人(おおとものたびと)の異母妹。旅人が九州に下って最愛の妻を病気で亡くしたため、郎女は旅人の片腕として大宰府の長官の家を切り盛りしました。この歌は、旅人より早く帰京した後、大城山(大野山)を懐かしんで詠んだ一首です。大野山には、古代山城である大野城があります。

  郎女の万葉歌碑は、福津市勝浦の「あんずの里運動公園」にも建てられています。郎女が、大宰府から通じる古代の官道を通り、福津市津屋崎勝浦にある〈名児山(なちごやま=『万葉集』では〝なごやま〟と読ませている)〉を越えて宗像市方面へ向かう途中で詠んだ〈大汝(おおなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神こそは 名づけ始(そ)めけめ 名のみを 名児山(なごやま)と負ひて わが恋の千重の一重も 慰めなくに〉という長歌です。現代語訳すると、〈大汝の神と少彦名の神が名付けたに違いない名児山は、〝心が和む山〟という意味を持ちながら、私の悩む恋心の千分の一さえ慰めてはくれない〉となります。大汝(大国主)と少彦名は、国造の神。

 石灯篭に刻まれた3つ目の和歌は、日本最初の禅寺で知られる臨済宗寺院・「聖福寺」(福岡市博多区で江戸時代に住職を務めた仙義梵(せんがい・ぎぼん)の作。〈烟たつ かまどの山の 緋桜は 香飯の国の 贈る春風〉。烟=けむり=が立ち上るように匂うかまどの山=竈門山(宝満山)=の緋桜は香飯の国=天上の世界=から贈られてくる春風のように陶然となる、の意味でしょうか。禅画や俳句にも造詣が深い趣味人としても知られた仙和尚らしく、洒脱な調べです。

 石灯篭の側面に刻まれた4つ目は、夏目漱石の俳句で〈反橋の 小さく見ゆる 芙蓉かな〉。明治29年9月、九州旅行で太宰府天満宮に参拝した漱石が、芙蓉の花越しに心字池に架かる太鼓橋(反橋=そりばし)=写真③=が遠望される情景を詠んだ一句のようです。

 

写真③:「太宰府天満宮」の心字池に架かる太鼓橋

  古代の万葉女流歌人から菅公、〝西の一休さん〟・仙和尚、明治の文豪・漱石まで4首(句)を飾る石灯篭は、大宰府の歴史・文化の奥深さを感じさせてくれます。

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2013年3月12日/〈福岡・町歩き〉009・伝衣塔と梅壺侍従蘇生の碑

2013-03-12 07:59:57 | 福岡・町歩き

写真①:渡宋天神伝説にちなむ「伝衣塔」(解説板の右側)

      =太宰府市・「国博通り」沿いで、2013年3月2日午前11時30分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 4

伝衣塔と梅壺侍従蘇生の碑

  「光明禅寺(こうみょうぜんじ)」の近くの国博通り沿いに、同寺を創建した菅家(菅原道真家)の生まれとされる鉄牛円心(てつぎゅうえんしん)和尚にまつわる渡宋天神(とそうてんじん)伝説の「伝衣塔(でんえとう)」=写真①=がありました。鉄牛円心和尚は、博多の「承天寺」や、京都の「東福寺」を開山した「聖一国師(しょういちこくし)」の弟子で、国師の伝記・『聖一国師年譜』を執筆したことでも知られています。

 「伝衣塔」そばに太宰府市が建てた解説板には「鎌倉時代のこと、大宰府横岳の崇福寺(そうふくじ)にいた聖一国師の夢枕に菅神(かんしん=菅原道真公)が現われ禅の教えを問うた。そこで国師が宋(中国)の仏鑑(ぶっかん)禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋に渡り、忽ちに悟りを開いて戻って来られたという。渡宋天神の話であるが悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子の鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝えられる」と書かれています。

  この「菅神は一夜のうちに宋に渡り、戻って来られた」伝説にあやかりたいと、昭和の出征兵士に贈る千人針に「伝衣塔」の苔を取って縫い込んだため、苔が無くなったという悲しい戦時の逸話も伝えられています。

  「伝衣塔」の近くの藍染川には、「梅壺侍従蘇生の碑」という伝説の石碑=写真②=もありました。太宰府天満宮の神官中務頼澄(なかつかさよりずみ)を慕い、筑紫に下った京女梅壺が頼澄に会えないのを嘆いて「光明禅寺」の前を流れる藍染川に身を投げたため、頼澄が天神様に祈ったら蘇生したという。

  

写真②:蘇生伝説ゆかりの「梅壺侍従蘇生の碑」

     =2日午前11時30分撮影

 藍染川という雅な名前には、なにやら謂れがありそうだな、と思って調べてみましたら、古くは「愛染川」とも書かれ、古来、和歌や謡曲にも詠われたそうで、梅壺が身を投げる舞台にふさわしい川でした。「藍染川」の案内石注=写真③=が「光明禅寺」の山門前に建っています。表通りの太宰府天満宮参道を外れ、九州国立博物館へ通じる裏通りの「国博通り」で、こうした「伝衣塔」や「梅壺侍従蘇生の碑」のミステリアスでロマンあふれる伝説に巡りあえるのが、町歩きの楽しみです。

 

写真③:「藍染川」の案内石注

     =「光明禅寺」の山門前で、2日午前11時35分撮影

 

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2013年3月10日/〈福岡・町歩き〉008・光明禅寺

2013-03-10 04:56:08 | 福岡・町歩き

写真①:「光明禅寺」の山門

      =太宰府市宰府2-16-1で、2013年3月2日午前11時30分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 3

 光明禅寺

 光明禅寺(こうみょうぜんじ)=写真①=は臨済宗寺院で、太宰府天満宮の参道を上り詰め、右曲して突き当りにあります。裏庭には、青苔で大陸と島を、白砂で水と大海を表現した「一滴海之庭(いってきかいのにわ)」という九州唯一の枯山水の庭園があり、〝苔寺〟の名で親しまれています。紅葉(黄葉)とシャクナゲの美しい寺でも有名です。
 

 山号は神護山(じんごさん)。菅家(菅原道真家)の生まれとされる鉄牛円心(てつぎゅうえんしん)和尚が、鎌倉時代の文永10年(1273年)に創建したという。本尊の薬師如来が鎮座する「本堂」=写真②=は、落ち着いた風情があります。あいにく拝観(拝観料2百円)できず、残念でした。

写真②:「光明禅寺」の本堂

     =3月2日午前11時30分撮影

  「本堂」前庭の石を配して「光」の字を書いた「仏光石庭(ふっこうせきてい)」が、渋くていいですね=写真③=。茶室から見る「一滴海之庭」の紅葉も素晴らしいそうで、ぜひ今秋には訪ねてみたいです。

写真③:本堂前庭の「仏光石庭」

     =「光明禅寺」で、2日午前11時10分撮影

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2013年3月8日/〈福岡・町歩き〉007・変圧器

2013-03-08 00:02:53 | 福岡・町歩き

写真①:石畳の参道両脇に設置されている白い大きな箱

      =太宰府市の「太宰府天満宮」門前町大町参道で、2013年3月2日午前11時10分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 2

:変圧器

  「太宰府天満宮」門前町の石畳の参道を歩いていると、白い大きな陶磁器製の箱が参道両脇に約60㍍間隔で設置されている=写真①=のに気付きました。しゃれた感じのゴミ箱かな、と思って見たら「変圧器」と小さい字で書かれており、電線の地中化に伴う設備だという。

  側面には「太宰府史跡めぐり ロマンの里太宰府」と大きな文字入りで、史跡名所の案内地図が描かれています=写真②=。

 

写真②:「太宰府史跡めぐり ロマンの里太宰府」と表示された側面

     =「太宰府天満宮」門前町大町参道で、3月2日午前11時10分撮影

  上面には「太宰府の史跡・文化財 観世音寺」などの見出しと写真付きで、解説文が書かれていました=写真③=。

写真③:上面にある「太宰府の史跡・文化財 観世音寺」の見出しと写真が付いた解説文

     =「太宰府天満宮」門前町大町参道で、2日午前11時10分撮影

  電線の地中化で門前町参道の景観はすっきりして好印象ですが、福津市・〈津屋崎千軒〉通りで電線の地中化をしようとした場合は、車がすれ違うのがやっとの道幅しかないため、どの家の前に設置するかが課題になりそうです。

 

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2013年3月7日/〈福岡・町歩き〉006・「太宰府天満宮」参道探訪

2013-03-07 08:44:33 | 福岡・町歩き

写真①:伊藤伝右衛門寄贈の石鳥居「二の鳥居」

      =太宰府市の「太宰府天満宮」門前町馬場参道で、2013年3月2日午前11時10分撮影

 3月2日に太宰府市の九州国立博物館で開かれた第7回福岡県景観大会「風景にきづく 景観をきずく~ともに」に参加、「太宰府天満宮」参道を散策したリポートを、〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪シリーズとしてきょう3月7日から掲載します。本来なら〈太宰府・町歩き〉のカテゴリーで掲載したいところですが、カテゴリーが限度数の30に達しているため、〈福岡・町歩き〉のカテゴリーに収容しました。

 

〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 1

 :伊藤伝右衛門寄贈の石鳥居

 第7回福岡県景観大会は、県美しいまちづくり協議会と同県の主催。私が所属している「津屋崎千軒 海とまちなみの会」も同協議会に加盟しているため大会に参加し、いい風景を見つける「まちづくりワークショップ体験」で「太宰府天満宮」門前町参道を歩きました。

 一番の収穫は、〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤傳(伝)右衛門(1860-1947)が明治45年(1912年)に寄贈した「太宰府天満宮」門前町馬場参道の「二の鳥居」=写真①=を撮影できたことです。この石柱に「伊藤傳右衛門」の名と「筑前津屋崎町 石工花田市助」の名が刻まれています=写真②=。

写真②:石鳥居に刻まれた「伊藤傳右衛門」と「筑前津屋崎町 石工花田市助」の名

     =「太宰府天満宮」門前町馬場参道で、3月2日午前11時10分撮影

 反対側の石柱には、寄贈年月日の「明治四十五年六月吉日」=写真③=と刻まれていました。

写真③:石鳥居石柱に刻まれた「明治四十五年六月吉日」の寄贈年月日

     =「太宰府天満宮」門前町馬場参道で、2日午前11時10分撮影

 花田市助は福津市渡(わたり)の石工で、同市宮司元町にある商売繁盛の神様・「宮地嶽神社」門前町参道の石段上り口に建つ「伊藤傳右衛門」の明治三十九年(1906年)寄贈の石鳥居も彫刻しています。

 渡地区は字蛭子ノ元から京泊に至る海岸に採石できる「渡石」(水成岩)があったことから、明治以前から石屋があり、昭和元年から10年ごろには約20軒の石屋で親方や職人の石工を含め約50人が鳥居や石塔などを彫刻していました。渡の石工が彫刻した「伊藤傳右衛門」寄贈の石鳥居が、学問の神様・「太宰府天満宮」の門前町馬場参道と「宮地嶽神社」門前町参道の石段上り口に建てられていることは、津屋崎の石工、石屋さんにとって誇りです。

 

 

コメント (2)
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2012年12月31日/〈福岡・町歩き〉005・姪の浜歴史探訪観光

2012-12-31 04:57:09 | 福岡・町歩き

 

写真①:最後の九州探題渋川尭顕の菩提所・「万正寺」

     =福岡市西区姪の浜2丁目14-17で、2012年5月26日午前10時45分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・唐津街道「姪浜宿」5

 :姪の浜歴史探訪観光

 福岡市西区姪浜の唐津街道「姪浜宿」の町並みを歩き、由緒あるお寺や神社が少なくないのに驚きました。姪の浜2丁目にある浄土真宗本願寺派の「万正寺(まんしょうじ)」=写真①=は、最後の九州探題渋川尭顕(たかあき)の菩提所です。九州探題は、鎌倉時代に足利尊氏が九州統制のために置いた防衛拠点でした。渋川尭顕は1534年、戦いに敗れ、「万正寺」背後の「探題塚」に葬られました。

 姪の浜3丁目には、江戸時代の福岡藩儒学者で、志賀島から発掘された有名な「漢委奴國王」と陰刻された金印の鑑定を依頼され、『金印辨』を書いたほか、同藩西学問所・「甘棠館(かんとうかん)」の館長として多くの門弟を育てた亀井南冥(1743-1814)の生誕地=写真②=もありました。

 

写真②:標柱が立てられている「亀井南冥生誕之地」

     =福岡市西区姪の浜3丁目14-13で、5月26日午前10時55分撮影

  姪の浜6丁目にある一遍上人を開祖とする時宗・「光福寺」の参道の練塀=写真③=は、寺町らしい風情があります。練塀と隣の家との路地は、人がやっとすれ違えるほどです。

 

写真③:寺町の風情を留める「光福寺」の練塀

     =福岡市西区姪の浜6丁目15-1で、5月26日午前11時10分撮影

  「光福寺」南西の姪の浜6丁目(旧旦過町)にある鎌倉時代創建の「旦過だるま堂」=写真④=は、姪の浜5丁目にある臨済宗の「興徳寺」を訪れた旅の僧を宿泊させてもてなした旦過寮の跡で、中国の禅宗の開祖・達磨大師が祀られています。江戸時代初期の元禄年間に作られた大きな銅造りの厨子(仏像・舎利・経典などを納める仏具)や、室町時代に姪浜石(砂岩)で造立した五重石塔もあります。

  

写真④:姪浜石で造立した五重石塔がある「旦過だるま堂」

     =福岡市西区姪の浜6丁目13番で、5月26日午後0時10分撮影

  江戸時代初期には、「唐津街道」が作られ、町家が軒を連ねる伝統的な町並みが形成された「姪浜宿」周辺地域は、中世、近世を中心とした歴史と文化を今に伝える佇まいがあります。都市化の進展とともに、伝統的な町家が取り壊されつつあり、福岡藩主の別荘として、また参勤交代時の唐津藩主や幕府の要人などの宿泊に当てられた唐津街道・「茶屋」跡地=写真⑤=にも住宅が建っています・姪浜地区の活性化に取り組んでいる「唐津街道姪浜まちづくり協議会」では、姪の浜歴史探訪観光のガイドにも力を入れており、〈津屋崎千軒〉の歴史探訪観光の取り組み方にも大いに参考になりました。

  

写真⑤:福岡藩の唐津街道・「茶屋」跡地

     =福岡市西区姪の浜6丁目2番で、5月26日午前11時20分撮影

                             (終わり)

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2012年12月30日/〈福岡・町歩き〉004・「興徳寺」とパワースポット

2012-12-30 10:31:54 | 福岡・町歩き

 

写真①:大応国師が開山した臨済宗の禅寺・「興徳寺」の山門

      =福岡市西区姪の浜5丁目23-1で、2012年5月26日午前11時40分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・唐津街道「姪浜宿」4

 :「興徳寺」とパワースポット

 福岡市西区姪の浜5丁目にある臨済宗の禅寺・「興徳寺」=写真①=は、鎌倉時代の文応元年(1260年)に鎮西探題北条時貞が建立。文永7年(1270年)に宋(中国)で修業を終えて帰国した禅僧・大応国師(南浦紹明=なんぽしょうみん=)が招かれ、開山しました。山門に北条氏の紋があり、枯れ山水の庭園も見所です。

 伝説によると、大応国師が宋から日本へ帰国するため港へ向かう途中、山の中で狼の群れに囲まれた兎を助けました。そばを離れない兎を連れて国師が船に乗り、玄界灘で暴風雨に遭って難破しかけた際、兎が嵐の海に飛びむと、たちまち波が静まり、兎は金色に輝きながら天に昇って龍(龍王)となり、国師は無事に姪浜の港に帰り着けたという。「興徳寺」の近くにある「龍王館」=写真②=には、この龍王が祀られています。龍の気を感じる雰囲気のパワースポットとして今、訪れる人が相次いでいます。

 

写真②:大応国師の龍王伝説を伝える「龍王館」

      =福岡市西区姪の浜で、5月26日午前11時30分撮影

  「興徳寺」の東側にある「真根子(まねこ)神社」=写真③=は、大和朝廷の大臣・武内宿彌(たけのうちのすくね)の身代わりになって自害したとされる壱岐真根子が祀られています。武内宿禰は、異母弟・甘美内(うましうち)宿彌から、謀反の心があると応神天皇に讒言されたため、天皇が博多へ差し向けた死客から殺されそうになりましたが、武内宿彌の無実を知る真根子は容貌がよく似ていたため、自害して身代わりになったという。福岡市西区下山門1丁目の生きの松原にある「壱岐神社」にも、真根子が祀られています。

  

写真③:壱岐真根子が祀られている「真根子神社」

     =福岡市西区姪の浜5丁目で、5月26日正午撮影

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2012年12月29日/〈福岡・町歩き〉003・町家と「姪浜・まちかど遺産」

2012-12-29 05:20:43 | 福岡・町歩き

 

 

写真①:白壁の2階建て町家・「石橋啓延家」

     =福岡市西区姪の浜3丁目で、2012年5月26日午前10時30分撮影

 

〈福岡・町歩き〉・唐津街道「姪浜宿」3

 :町家と「姪浜・まちかど遺産」

 福岡市西区姪浜の唐津街道「姪浜宿」の町並みには、白壁の2階建て町家・「石橋啓延家」=写真①=など趣のある古い町家が点在しています。

  姪の浜3丁目の通りには、〈津屋崎千軒〉の代表的町家・「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」と同じような袖卯建(うだつ)のある二階建て町家=写真②=もありました。

  

写真②:袖卯建のある二階建て町家

  〈津屋崎千軒〉の漁師町にある藁葺き屋根をトタンで覆った家と同じく、姪浜の港町にも三角形のトタン屋根の住宅=写真③=も見られます。

  

写真③:三角形のトタン屋根の住宅

 旧網屋町の交差点の角には、珍しい六角形の町家=写真④=が建っていました。

 

写真④:交差点の角に建つ珍しい六角形の町家

 姪浜の活性化に取り組んでいる「唐津街道姪浜まちづくり協議会」では、通りの片隅や町並みの思いもよらぬ所にある貴重な歴史的遺産と、産業遺産、生活の痕跡などを「姪浜・まちかど遺産」と名付け、町歩きの見どころに加えています。漁師町ならではの地域遺産として、町家の軒下に置かれた「アワビの殻をはめこんだ水槽」=写真⑤=は、その一例です。水槽の縁がアワビでデザインされ、海の近くの町であることを感じさせる庶民の工芸デザインとしています。

 

写真⑤:軒下に置かれた「アワビの殻をはめこんだ水槽」

  漁や航海の安全を祈願するため、玄関に一年を通して掛けられている注連縄=写真⑥=も、漁業や廻船などを生業とした姪浜浦の伝統を受け継いでいる地域遺産という。そういえば、〈津屋崎千軒〉の漁師町でも注連縄を一年中掛けています。筑前の港町に共通する風習でしょうか。

  

写真⑥:漁や航海の安全を祈願するため玄関に一年中掛けられている注連縄

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2012年12月28日/〈福岡・町歩き〉002・「マイヅル味噌」

2012-12-28 10:25:01 | 福岡・町歩き

 

写真①:江戸時代の町家の面影を残す「マイヅル味噌」・味噌蔵(左)と原料蔵(右)

      =福岡市西区姪の浜3丁目3-27で、2012年5月26日午前10時15分撮影

 〈福岡・町歩き〉・唐津街道「姪浜宿」2

 :「マイヅル味噌」

 唐津街道「姪浜宿」は、同街道十三宿の一つでした。福岡市西区姪の浜3丁目の「姪浜住吉神社」前の旧唐津街道から、百㍍東側の旧宮前の町並みに「マイヅル味噌」=写真①=があります。江戸時代の町家の面影を残す築180年の白壁の町家(木造平屋建、切妻造桟瓦葺)で、国登録有形文化財です。

 姪浜地区には、江戸時代から昭和初期にかけて建てられた約百軒の商家が残っており、「マイヅル味噌」の味噌蔵・原料蔵は町並みのシンボル的存在。同店玄関わきの一角に、姪浜の活性化に取り組んでいる「唐津街道姪浜まちづくり協議会」(川岡保会長)の事務所兼案内所=写真②=が入居しています。平成22年2月、旧冷蔵室(約20平方㍍)を会員らで改装して開設され、歴史散策マップを配布したり、イベント情報提供の場になっています。

 

写真②:「唐津街道姪浜まちづくり協議会」の事務所兼案内所

     =「マイヅル味噌」で、5月26日撮影

  味噌蔵には、〈津屋崎千軒〉の町家と同じく、「塩木」の梁=写真③=が使われていました。

  

写真③:「塩木」の梁に支えて建てられている味噌蔵

      =「マイヅル味噌」で、5月26日撮影

 味噌蔵では、「唐津街道姪浜まちづくり協議会」主催の「ディスカバー姪浜展」が開かれており、姪浜に残る町家の写真や絵画のパネルが展示されていました=写真④=。

 

写真④:姪浜に残る町家の写真パネルが並ぶ「ディスカバー姪浜展」

     =「マイヅル味噌」で、5月26日撮影

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