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吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年9月13日〈津屋崎学〉003:地名「天神町」の由来

2006-09-13 14:04:04 | 郷土史


●写真上:波折神社の境内社として祀られている天満宮(〈海士守天満宮〉)=福津市津屋崎古小路の波折神社で、06年9月9日午後2時40分撮影

●写真下:福津市梅津の海岸近くにある梅津天満宮。由緒の表示板が一部破損している=06年9月10日午前10時40分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第3回:2006.09.13
  地名「天神町」の由来

清 「前から叔父さんに聞こうと思うとったっちゃが、僕の家のある津屋崎の〈天神町(てんじんまち)〉の由来は分かっとうと?」
琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で平成10年(1998年)に発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第四集』という本があるんだよ。この本の〈一 村落生活 (二)ムラの歴史伝承〉と題した301㌻に、〈天神町の起源〉として、菅原道真との関係について触れている」
清 「ヘー、あの太宰府天満宮に祀ってある菅公に由来があるとね」
琢二 「〈天神町の起源〉のくだりでは、〈言い伝えによると、菅原道真が左遷の折に、この沖でシケにあって一行が困り果てていたのを、津屋崎の漁師が助けて上陸、風の静まるのを待って博多の方に出港された。その時、お礼にとミノと笠を与えられたので、その徳を授かるため祀ったことから天神町となったといわれている。現在は波折神社に合祀され、その跡に昭和十年、町役場が建てられた〉とあるよ。天神とは、道真公の霊を祀った天満宮のことを言うから、天神町となったのだな」
清 「旧津屋崎町役場のところに天神様があったのか。壊された役場跡は、いま駐車場になっとうよね。天神様は、古小路(こしょうじ)の波折(なみおり)神社に今もあると?」
琢二 「津屋崎の氏神様、つまり土地の鎮守の神様である〈波折神社〉の拝殿裏境内に〈天満宮〉=写真上=が、ちゃんと祀られとる。いっぺん拝んでこい」
清 「分かりました。」

琢二 「もっとも、『津屋崎の民俗 第四集』351㌻にある〈六 信仰 (一)ムラで祀る神〉のくだりには、波折神社の合祀社に〈海士守天満宮〉と記載、〈現在、JA宗像津屋崎支所のある場所に、小高い丘(コロコロ山)があり、天神様が祭ってあったが、大正初期に波折神社に合祀された。天満宮の鳥居は、新泉岳寺の鳥居に使用されている〉とし、天満宮のあった場所に少しずれがある。また、同書377㌻の〈忌地・聖地・天神様〉では、〈海士守天神〉については、〈区画整理により現在、波折宮の境内社として祀られている。現在の農協の場所にあった〉と移転の理由を書いている。まあ、コロコロ山というのは町役場があったあたりから、今は閉鎖されている旧JA宗像津屋崎支所付近まで砂山が続いた小高い丘だったんだろうから、大きな違いとまでは言えないが……。海士守と書いて、あまもりと読む。海士は漁師のことで、海人とも書くな」
清 「〈コロコロ山〉というのは、面白い山の名やね」
琢二 「〈コロコロ山〉は、吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』の詩篇〈ころころやま〉にも詠ってあるな。天神町育ちの青春さんによると、青春さんの父で明治29年(1896年)生まれの友次郎さんが、昔は清の家の裏にコロコロ山という砂山があったと話していたそうだ」
清 「そうなんだ。で、天神様は〈海士守天満宮〉と呼ばれとったとやね」
琢二 「〈海士守天満宮〉の記載の続きに〈由緒〉が書いてあってな。それにとると、〈管公が大宰府に赴かれるとき、舟がこの海上を過ぎるころ、雨が頻りに降って船のかがり火が消えた。その折辺りに火を焚いて釣をしている海人があったので、公は舟を寄せて火を乞われた。海人はすぐ火を献じたので、管公はその懇情を賞して、傍らの蓑と笠とを海人に賜った。後世これを神体として社を建てたのが同地の天満神社で、海士守(あまもり)天満宮という〉とある」
清 「なるほど、それで〈海士守天満宮〉なんだ」

琢二 「面白いことに、もう一つ、津屋崎の梅津の海岸近くに天満宮があるんだよ。西鉄〈塩浜〉バス停から海側へ徒歩5分くらいの梅津公民館東側にある〈梅津天満宮〉=写真下=だ」
清 「えっ、それ、どういうこと」
琢二 「こちらは〈蓑笠天満宮〉という別称もあり、津屋崎観光協会発行の〈つやざき観光マップ〉にも載っている」
清 「ああ、蓑と笠がご神体だからか」
琢二 「9月10日に〈梅津天満宮〉を訪れたが、由緒を書いた表示板も字が消えた部分もあって、荒れた感じで残念やったな。『津屋崎の民俗 第三集』224㌻に記載された梅津の〈(一)ムラで祀る神〉の〈天満神社〉については、〈祭神 菅原神〉とし、〈由緒 古老曰(いわく)、菅原道真左遷ノ時、此地へ舟ヲ寄せ休マレシ其跡、社ヲ建祭ルト云。勧請年月不詳。昭和五十八年に天満宮から天満社になったという〉とある。〈海士守天満宮〉に比べると、あっさりとした記述だ」
清 「天神様は学問の神だから、お参りした人に由緒が分かるように、大切にしたいね」
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2006年9月10日〈津屋崎学〉002:庚申塔

2006-09-10 09:17:15 | 郷土史

●写真上:金刀比羅神社「御仮屋」の正面=福津市津屋崎天神町で、06年9月10日午前7時20分撮影

●写真下:「御仮屋」裏境内にある2基の庚申塔。右の塔には「庚申塔 天明五年」、左の塔には「庚申尊天 天明六年 天神町」の文字が彫られている=、06年9月9日午後2時50分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第2回:2006.09.10
  庚申塔

清 「叔父さん、おはよう。きのうの津屋崎放生会(ほうじょうや)は、雨に降られて大変やったね」
琢二 「そうだな。毎年9月9日の重陽の節句にある津屋崎放生会は、いい天気が多いとやがね。正確には、福津市在自の金刀比羅神社の秋季大祭というのやが、福岡県内では秋祭りのことを放生会と言い、津屋崎放生会は筑紫路で最初に行われるので有名やな」
清 「毎年、テレビのニュ-スや新聞の記事に出るけんね」
琢二 「福岡県民に秋の訪れを告げる風物詩、と言える祭りだからや。黒田藩主の大名行列を真似た氏子さんたちの〈お下り〉行列が、在自の金刀比羅さんから2㌔南の御仮屋=写真上=まで練り歩くのが見ものだが、途中の田んぼ道で黄金色に稔った稲穂が揺れる〝絵〟が撮れ、秋を感じさせる話題でいけるからな」
清 「例年だと、大名行列が津屋崎天神町の御仮屋に着くのは夕方やけど、今年は神社出発を午後2時に繰り上げ、行列は同3時には〈お上り〉になったから、夜店も並ばんやった。子供たちは、綿菓子買いや金魚すくいも楽しめんで、かわいそうやったばい」
琢二 「また一つ、昔の祭りの風情が消えたな。祭りの終わる時間が午後11時になるのを早めたいという〝合理化〟なんだが、神社に戻ったあとの祭り時間を短縮するとか、〈お下り〉時刻をもう少し例年並みに遅くできないかなど、氏子さんに検討してもらいたいな」
清 「それでも、御仮屋が久しぶりに賑わったね」

琢二 「そういえば、御仮屋境内にある〈庚申塔〉は、近頃は顧みられんようになったな」
清 「何ね、コウシントウって」
琢二 「昔、60日ごとに来る十干十二支の庚申(かのえさる)の日に集まり、庚申様の掛図や石塔の庚申塔をまつりながら徹夜で話し合う〈庚申待ち〉とか〈庚申講〉と呼ばれる風習が、全国各地にあってな。庚申様は、祟り易い神様として恐れられ、庚申の夜に妊娠した子供は盗人になると言われ、身を慎むよう戒められたそうだ。大盗賊の石川五右衛門を詠んだ川柳に〈五右衛門の親庚申の夜を忘れ〉という句があるほどだ。庚申塔は、室町時代から盛んに建てられ、申待の文字が刻まれたりしている。

  元津屋崎郷土史研究会長の田中香苗氏の著書『津屋崎風土記』(昭和60年刊)によると、津屋崎には庚申塔が38基残存していると記され、建立年代別調査表に「御仮屋内」として3基が載せてある。このうち御仮屋裏手境内に2基=写真下=があり、東側の石碑には「庚申塔 天明五年」、西側の塔には「庚申尊天 天明六年 天神町」の文字が彫られとる。天明五年は、各地に洪水が起き〈天明の大飢饉〉が全国に及んだ江戸時代後期で、西暦だと1785年だ。

  ところが、同調査表の整理番号1に元禄14年の卯月吉祥日に建てられ、「庚申尊天安鎮」の碑文字があると記載されている庚申塔は、きょう10日朝調べたが、見つからなかった。卯月は陰暦で4月のことで、元禄14年と言えば赤穂浪士討ち入り1年前の江戸時代中期で、西暦なら1701年だから御仮屋内に建った庚申塔では一番古いのに残念だな」

清 「ヘー、知らんやった。うちん方(うちの家=我が家)の隣の御仮屋にある塔が、そんな古いもんやとは。子供のころ、よう塔によじ登って遊びよったっちゃが」
琢二 「困ったやつだな。もう一つ、庚申信仰には面白い話がある。庚申の夜、お籠りする風習は、道教の三尸(さんし)説から起きたんだよ。尸は、しかばねのことだ。体内に潜む三尸という虫が、庚申の夜に天に上って天帝にその人の罪を告げ口するから、早死にさせられるが、その夜に眠らず身を慎しむと、三尸は天に上れず、長生きできる――というのだ。奈良時代に中国からの帰化人や僧侶が、日本に伝えたのが、庶民にも広がったようだな」
清 「でも、今じゃ忘れられた風習だね」
琢二 「ところが、この三尸のグッズが2005年に開館したばかりの九州国立博物館で、大人気なんだぞ」
清 「エー、それ、どういうこと」
琢二 「三尸の虫のデザインを入れた携帯電話のストラップや、Tシャツなんかが入館者の記念品やお土産によく売れているんだよ。もっとも、私は9月1日にうちの上さんと九国に行ったが、三尸の虫が回虫みたいに見えたんで、買わなかったけどな」
清 「叔父さん、古いなー。長生きできるお呪(まじな)いグッズで、今の若者向きかもよ。よし、今度、彼女と買いに行ってみよう」
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2006年8月24日〈津屋崎学〉001:地名「津屋崎」の謂われ

2006-08-24 18:46:58 | 郷土史
●写真は一説に地名「津屋崎」の由来となった〈河原崎〉の地とされる国道495号線宮ノ元交差点付近=06年8月22日午後1時35分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
 
 この連載は、津屋崎に生まれ育った郷土史家・津崎琢二(つざき・たくじ)と、甥の大学生清(きよし)の対話で書き進めます。

第1回:2006.08.24
 地名「津屋崎」の謂われ

清  「こんにちは。叔父さん、元気?」
琢二 「おお、元気たい。夏休みで帰って来たか。東京での1年目の大学生暮らしはどうや」
清  「東京は空気が汚れていて、息苦しいよ。春は花粉症も出て、大変やった」
琢二 「そりゃ、気の毒だったな。友達はできたか」
清  「中尊寺で有名な岩手県平泉町から入学した安倍義彦という男と親しくなったよ」
琢二 「ほう、平安時代末期に、あの奥州藤原氏で栄えた平泉町の出身か」
清  「それで、安倍にお前の生まれた福岡県の津屋崎とはどんな町か、と聞かれて弱ったよ。津屋崎の謂われも知らんし……」
琢二 「なんや、情けないな。江戸時代の福岡藩の国学者・青柳種信(あおやぎ・たねのぶ)が編集責任者となった『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』には、〈この村を津屋崎というは、昔、産土神の鎮座時、村の西方河原崎という所に堂を建て、村民たち多く集いて通夜せしより、此所を通夜崎という、遂に村名になるといえり〉とある。津屋崎村が町制を施行したのは明治30年、つまり1897年のことや」
清  「へー、そうなんだ」
琢二 「産土神というのは、津屋崎古小路にある波折神社のことで、河原崎は今の津屋崎郵便局前の国道495号線と福津市役所津屋崎庁舎前の〈つばき通り〉が交差する宮ノ元交差点付近のことだな。もっとも、津屋崎の由来については、『波折神社縁起』によれば神功(じんぐう)皇后が河原崎で杖をさされた辺りを〝杖さし〟と言い、それが〝津恵崎〟、後世に〝津屋崎〟と称するようになったとする伝説などが語源とも伝えられる。このほか、平成13年に東京堂出版が再版した『市町村名語源辞典』改訂版では〈ツエ(崩壊地形)・サキ(崎)の転で『断崖の岬』のことか〉と見る説もあるよ」
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