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吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2010年1月26日〈エッセー〉016:〈津屋崎千軒〉のまちなみの特徴

2010-01-26 16:33:40 | エッセー
写真①:〈津屋崎千軒〉の家並みの路地から見える海
     =2010年1月26日、福津市天神町で撮影

・連載エッセー『一木一草』

第16回:2010.01.26 

路地から海が見えるまちなみ

 〈津屋崎千軒〉のまちなみの特徴について、「路地から海が見えるようになっていますね」と、津屋崎の外に住む人から教えられ、思わずうなずいたことがあります=写真①=。この特徴を指摘されたのは、福津市企画政策課が市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」の建設前に、センターの基本計画を検討したいと08年に開催したワークショップの折、アシスタント役をつとめた席で話された㈱醇建築まちづくり研究所(福岡市)所長の牧敦司さんです。

 〈津屋崎千軒〉で江戸後期から戦前までに建てられた125軒の家(九州大学大学院芸術工学研究院・田上研究室発行『津屋崎千軒のマチとイエ』)の造りで目立つ特徴は、敷地の奥行きの長さのほか、隣の家とのすき間・「スアイ」=写真②=や、中庭=写真③=、土間の設置などが挙げられます。これらの特徴は、博多の町家と似か寄った点もありますが、「スアイ」の「路地から海が見えるようになっている」点が大きく異なります。まさに「海に拓けた港町」・〈津屋崎千軒〉を象徴する特徴と言えるでしょう。

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写真②:隣の家とのすき間・「スアイ」。家の壁は隣家との延焼を防ぐため、トタン張りが多い。
     =福津市古小路で、2007年6月7日撮影


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写真③:床の間の奥側にある町家の坪庭
     =福津市天神町の「上田製菓」で、2009年4月21日撮影

 〈津屋崎千軒〉のまちなみは、江戸後期から明治初期にかけて完成したとみられています。「津屋崎漁港」東側の北の一区・北の二区は漁師町として、その東の新町区は漁師町から後に商人町として、天神町は職人町、その北の岡の二区と岡の三区は農民の町として発達。昭和42年に県道「渡(わたり)・津屋崎線」(海岸通り)が建設されて、海岸沿いに住宅が建ち、平成13年の「しおさい通り」建設でまちなみは二分されました。

 また、〈津屋崎千軒〉の建物の高さでは、1階建て、2階建ての低層住宅がほとんどで、海岸沿いに3階建て以上の建物があります。建物の建設年代別では、明治から昭和初期に建てられた古い住宅が「しおさい通り」より西側の〈千軒通り〉沿いに多く見られます。

 さて、“A Quaint Town”という〈古風な趣のある町〉を印象づけているのは、何でしょう? それは、「しおさい通り」より西側の〈千軒通り〉沿いに残る町家の古風な魅力に加え、「海が見える路地」があるまちなみの造りが、住んでいる人、訪れる人にも開放感を与えてくれているからではないでしょうか。

 “A Quaint Town Tsuyazaki-Senngen”(古風な趣のある町 〈津屋崎千軒〉)
という〈まちなみ散策地図『津屋崎千軒そうつこう』英語・日本語併記版〉表面に載せたキャッチコピーが、歴史的なまちなみの良さをアピールできる名フレーズに思えてきました。
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2010年1月25日〈エッセー〉015:“A Quaint Town ”の仕様

2010-01-25 04:29:02 | エッセー
写真①:福津市沖町にある「麻生久彦邸」の卯建


連載エッセー『一木一草』

第15回:2010.01.25 

“A Quaint Town ”の仕様

 前回の本欄で、〈津屋崎千軒〉のまちなみの魅力を津屋崎の外に住む人たちから、“A Quaint Town ”(古風な趣のある町)というフレーズで教えられ、はっとなったことを紹介しました。きょうは、その“A Quaint Town ”の仕様を取り上げてみます。

〈津屋崎千軒〉
 江戸時代から廻船業と海上交易で栄えた港町で、商家が千軒も並ぶほどだとして〈津屋崎千軒〉と称されました。関ヶ原の戦い(1600年)の恩賞により、1602年に黒田長政公が筑前の領主となって博多に入り、津屋崎の港を交易港とします。以来、裕福な商人が生まれ、1743年に大規模な塩田で塩作りが始まり、港から船で塩を博多へ運び、帰り荷で衣類、金物などが津屋崎に陸揚げされ、大変賑いました――〈津屋崎千軒〉のまちなみは、こんな歴史に裏打ちされています。

〈卯建と鏝絵の残る路地〉
 〈津屋崎千軒〉のまちなみは、海岸に並行する町筋を軸に港から東西に市街が広がっています。江戸後期から明治に建てられた町家の妻壁には、裕福な家でないと建てられなかったという卯建(うだつ)が建つ元質屋「麻生久彦邸」=写真①=や、漆喰彫刻の芸術品とも言われる鏝絵(こてえ)の装飾=写真②=が施された「豊村酒造」(明治7年創業)などがあり、往時の繁栄や庶民の気風がうかがえます。

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写真②:福津市横町にある「豊村酒造」白壁の龍の鏝絵

〈塩木〉
 防虫、防腐のため、海水に数年間浸けた塩木(しおぎ)の材木で百年以上もつようにと建てられた「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」(明治34年建築の紺屋・旧上妻家住宅=国登録有形文化財)=写真③=や「豊村酒造」の建物は、〈津屋崎千軒〉を代表する町家です。

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写真③:福津市横町にある「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」

 このように“A Quaint Town Tsuyazaki-Senngen”(古風な趣のある町 〈津屋崎千軒〉)〈卯建と鏝絵の残る路地〉〈塩木〉という海に面した町らしい資材で建てた町家の古い造りなどが、独特の〈古風な魅力〉を醸し出す仕様となっていると思えるのです。

 都会の喧騒の中で暮らす方たちにお勧めします。「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が発行した〈まちなみ散策地図『津屋崎千軒そうつこう』英語・日本語併記版〉を手に、この“A Quaint Town”をそうついて(津屋崎弁で「散策して」の意味)みませんか。

 〈古風な趣のある町〉の仕様を一つずつ確かめて歩くうち、懐かしくもホッとした気持にさせられる癒しのプチ旅になるかもしれません。
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2010年1月24日〈エッセー〉014:〈津屋崎千軒〉のまちなみの魅力

2010-01-24 05:35:45 | エッセー
写真①:“A Quaint Town Tsuyazaki-Senngen”のキャッチコピーを載せた〈まちなみ散策地図『津屋崎千軒そうつこう』英語・日本語併記版〉の表紙


連載エッセー『一木一草』

第14回:2010.01.24
 
“A Quaint Town ”(古風な趣のある町)


 〈津屋崎千軒〉のまちなみの良さを津屋崎の外に住む人たちから教えられて、はっと気付かされることがあります。最近、目を見張らせられたのが、“A Quaint Town ”というフレーズです。

 (古風な趣のある町)の意味で、私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が09年12月に2万部発行した〈まちなみ散策地図『津屋崎千軒そうつこう』英語・日本語併記版〉(A2判、表裏カラー、八つ折り)の表面にキャッチコピーとして載せました=写真①=。

 英訳をお願いした通訳案内士の女性お二人(福岡県福津市、宗像市在住)からいただいたアイディアです。〈津屋崎千軒〉の〈古風な魅力の秘密〉は、江戸後期から戦前までに建てられた125軒の家(九州大学大学院芸術工学研究院・田上研究室発行『津屋崎千軒のマチとイエ』)の造りの古さや、たくさんある小さな路地、都会とは違う青い空の色、潮の香匂う空気などが、人が住みたくなる佇まいを与えていることにあるようです。

 二つ目の〝気付き〟は、08年7月に津屋崎のカメリアホールで「海とまちなみの会」が開催した町興し講演会で体験しました。講師の西村幸夫・東京大学大学院教授(都市計画)が「『本町通り』は微妙に曲がっており、一本の道が閉じられて見えます。見える範囲が自分の町の広さに近く、人間の感覚では、ホッとします。道幅も町家との距離もヒューマンスケールで、人に優しく、落ち着きます」と話されたのを聴き、ウーンとうならされました。

 確かに、明治時代創業の荒物屋・旧「乙藤商店」前に立って東西を見ると、『本町通り』は微妙に曲がって見通せません=写真②=。

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写真②:福津市津屋崎北本町の旧「乙藤商店」前の『本町通り』(向こうが「津屋崎漁港」方面)

 「このような微妙な曲がり方を都市計画の学生に設計しろ、と言ってもこんな道はできないですよ、今の技術では」と、西村教授は指摘されました。車がある程度のスピードで走るのに便利な道路にするためなら、直線で設計するのが当世の常識でしょう。『本町通り』は、人間優先の感覚でできているわけです。

 人が歩く感覚でできた町、つまり〈身体感覚でできている町〉が、身近な所に残っている幸せ。健康のためにも、「歩いて暮らせる町づくり」が大事になってきた今、歴史的なまちなみの良さ、“A Quaint Town ” (古風な趣のある町)〈津屋崎千軒〉の魅力を誇りにし、後世に伝えたいと思いたくなります。
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2008年10月05日〈エッセー〉013:町家が消えていく

2008-10-05 05:17:45 | エッセー
写真①:取り壊しが始まった〈津屋崎千軒〉の町家・「河崎邸」
     =福津市津屋崎で、2008年10月4日午前11時27分撮影

・連載エッセー『一木一草』

第13回:2008.10.05
 
町家が消えていく


 〈津屋崎千軒〉の町並みに寂しくも、悲しい秋風が吹いています。福津市津屋崎の「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」近くにある町家・「河崎邸」の取り壊しが、10月4日から始まりました=写真①=。この町並みの町家が解体されるのは、最近では、本町の「さくら動物病院」裏側にあった元荒物屋で築約百年の重厚な二階建て「高山邸」が、シロアリ被害と老朽化のため08年4月に取り壊されたのに次いで2軒目です。

 「河崎邸」は、元米屋で今は空き家ですが、江戸の風情を見せる土壁漆喰塗りの二階建てです=写真②=。老朽化とシロアリ被害のため取り壊し作業が始まった4日は、〈津屋崎千軒〉の街区や地割の変遷についてフィールド調査中の田上健一・九州大学大学院芸術工学研究院准教授と大学院生らが、建物内を調査しました。きょう5日正午ごろには、福津市外に住む所有者の方が取り壊し現場を訪れる予定です。


写真②:江戸の風情を見せる土壁漆喰塗りの「河崎邸」
     =福津市津屋崎で、07年1月27日午後4時45分撮影

 福津市で初めて〈国登録有形文化財〉となった明治の紺屋・『藍の家』(旧上妻家住宅)は、〈津屋崎千軒〉の町並みの代表的な町家ですが、周囲に点在する古い町家がこうも次々と姿を消してしまうと、町並みのラインがなくなり、気が付けば残されたのは『藍の家』だけだったということにもなりかねません。
 
 06年11月、福津市企画政策課が市民同士で活性化策を話し合うため開いた「津屋崎千軒考え隊」の第5回会議で、隊員に応募した市民から「市は『藍の家』のほかにも、登録有形文化財にする価値がある建物のリストも作るべきだ」との意見が出され、市が07年1月の第6回会議で示した〈津屋崎地区の現況マップ〉には同文化財候補にリストアップできそうな明治、大正、昭和時代の古い町家形式の商家、建物など約20軒が残されていることが分かりました。「河崎邸」も、貴重なその一軒でした。

 また、『藍の家』を国登録有形文化財とするよう市に提案、同文化財登録申請の建物所見を執筆した山田由香里・長崎総合科学大工学部准教授は、07年10月に『藍の家』で講演した際、津屋崎には『藍の家』以外にも登録文化財になりそうな建物は百軒くらいあると指摘、登録文化財化推進の町並みづくりを推奨されました。

 「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・「海とまちなみの会」)が08年9月、町づくり先進地として視察した福岡県八女市福島地区では、市職員ら16人で設立したNPO八女町家再生応援団が市内の空き町家の保存・活用を積極的に推進しています。売買や賃貸契約の資料作りを無報酬で行っていますが、福津市には町家再生応援団のような組織はありません。津屋崎千軒の歴史的文化的に貴重な町家のリスト作成や、老朽化調査、空き町家への入居者斡旋組織の設立などが、今や喫緊の課題となっています。
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2008年5月10日〈エッセー〉012:「モマ笛」の効用

2008-05-10 06:33:57 | エッセー
写真①:津屋崎人形原田半蔵店で制作された「モマ笛」
     =2008年3月30日撮影

・連載エッセー『一木一草』

第12回:2008.5.10
 
「モマ笛」の効用

 私の古里・福津市津屋崎の福岡県指定特産民芸品で知られる津屋崎人形の「モマ笛」=写真①=が、高齢化社会を迎えた今、脚光を浴びているようです。

 津屋崎人形は、江戸時代から続く古博多人形の流れを汲む素朴な土人形で、色褪せない鮮やかな色彩が魅力。「モマ笛」は、五月人形や雛人形、干支人形などと店頭に並ぶ人気商品の一つです。モマ(フクロウの津屋崎方言)をかたどった笛で、吹くと「ホー、ホー」とフクロウやアオバズクに似た鳴き声が出て、子供の玩具としても喜ばれます。

 この「モマ笛」は、お年寄りが毎朝吹き、喉の通りを良くして食事したと伝えられており、食べ物が喉につかえる事故を防ごうと、津屋崎人形師が生活の知恵であみ出した高齢者の命を守る玩具ともいえます。

2007年3月、脳梗塞で福津市内の病院に入院し、嚥下力が弱まっている私の長姉にも今月7日、「モマ笛」を渡し、毎朝吹くようにリハビリの療法士さんに頼みました。言葉が話せなくなった長姉ですが、「モマ笛」を懐かしそうに見て笑いました。

 ところで、福津市宮司元町の宮地嶽神社では、「〝福を呼ぶ〟モマ笛」=写真②=を参拝者に1体初穂料500円で授与しています。神社の説明書きによると、〈昔、正直者の商人が宮地嶽の山中で道に迷ったとき、モマ(ふくろう)の鳴き声に導かれて金の玉を得、お祭りをしたところ、大変隆昌を極めたとの故事に則り当社ではモマ笛を授与致しております。ホーホーと鳴くモマ笛にてたくさんの福を呼び込んで下さい。この故事にちなんで正月に「玉替祭」を斎行致しております〉という。


写真②:宮地嶽神社で参拝者に授与されている「〝福を呼ぶ〟モマ笛」の説明書き
     =2007年5月3日撮影

 江戸時代から栄え、〝津屋崎千軒〟と呼ばれた古い町並みの観光案内・〈津屋崎千軒そうつこう〉(「そうつこう」は津屋崎の方言で「歩き回ろう」の意味)のボランティアガイドをしている私も、ガイドの小道具に「モマ笛」を鳴らしています。お年寄りに優しい玩具で、福を呼ぶいわれを話すと、津屋崎人形の歴史や特徴の説明も親しみをもって聞いていただけるようです。

 「モマ笛」は、福津市津屋崎天神町の「津屋崎人形原田半蔵店」と「津屋崎人形巧房」の2店で制作されています。最近は、ガイドやテレビ放送で紹介され、「モマ笛」を求める観光客も目立っており、ガイドとしてお勧めの「500円で購入できる絶好の津屋崎土産」なのでぜひ増産を、と私からも2店の当主にお願いしています。
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2008年4月16日〈エッセー〉011:「篤姫」の生家跡の町とは知らず

2008-04-16 10:31:16 | エッセー
写真①:今も残る石垣が往時をしのばせる「篤姫」の生家・「今和泉島津家本邸」跡

・連載エッセー『一木一草』


第11回:2008.4.16

 
「篤姫」の生家跡の町とは知らず

 NHKテレビで放映中の大河ドラマ「篤姫」で、先に「鹿児島県出水市が島津家発祥の地」と紹介され、宮崎県都城市の誤りではないか――と2月22日のエッセー〈一木一草〉010で疑念を呈していましたが、NHKは3月30日の放送で、島津家初代とされる惟宗忠久(これむねただひさ)が都城にあった荘園「島津荘」の地頭となって島津と改姓したとし、島津の名称は都城に由来することを伝え、一件落着しました。

 ドラマでは目下、薩摩から江戸屋敷入りした「篤姫」が、徳川第13代将軍・家定の御台所となる前の葛藤劇が展開中。国元・薩摩の様子も織り交ぜながら、江戸の緊迫した情勢が歴史ドラマの面白さを紡ぎ出しています。

 ところで、天保6年(1835年)に生まれたという「篤姫」の生家・「今和泉(いまいずみ)島津家本邸」跡=写真①=のある鹿児島市大竜町(だいりゅうちょう)のマンションに、私は平成4年(1992年)10月1日から2年9か月、住んでいました。読売新聞鹿児島支局長として赴任し、不動産屋に紹介された支局まで歩いて通勤できる住居を選んだのでした。

 挨拶回りで、「どこにお住まいですか」と聞かれ、「鹿児島市東部の大竜町=写真②=です」と答えると、「いいところにお住まいですね」と言われ、すぐにはその意味が分かりませんでした。マンション近くには、病院が多く、住宅地にしては環境がいいな、とは思っていましたが、あとで薩摩藩の上級武士の屋敷があったところと聞き、合点がゆきました。


写真②「篤姫」の生家・「今和泉島津家本邸」跡があった鹿児島市東部・大竜町の位置図

 平成7年(95年)7月1日、社会部山口総局長に転任。まさか「篤姫」の生家・「今和泉(いまいずみ)島津家本邸」跡の近くに住んでいたとは知らぬまま、薩摩を去っただけに、鹿児島旅行の機会があれば、ぜひ大竜町を再訪、生家跡を観てみたいと思います。

 鹿児島では、西郷隆盛は薩摩の偉人として〝せごどん〟の愛称でも親しまれていますが、維新の元勲・大久保利通は朝鮮出兵を巡る征韓論論争で西郷と対立し、明治10年(1877年)には西郷を盟主として士族が起こした西南戦争で政府軍を指揮したことから、冷徹なイメージが強い政治家として受け止められているようでした。大河ドラマで、西郷と大久保の人物像がどう描かれるのかも楽しみです。

コメント (2)
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2008年2月22日〈エッセー〉010:「島津家発祥の地」は都城

2008-02-22 17:22:43 | エッセー
・連載エッセー『一木一草』

第10回:2008.2.22
 
「島津家発祥の地」は都城

 NHKテレビで放映中の大河ドラマ「篤姫」を毎週日曜の夜、楽しみに観ています。幕末から明治維新に向けて活躍した人物群像に、心躍る想いがあるからです。そのうえ、このドラマの1月20日放映分の終盤、「篤姫」ゆかりの地を紹介する「篤姫紀行」のコーナーで、「鹿児島県出水市が島津家発祥の地」と紹介され、「島津家発祥の地」論争が宮崎県側との間で巻き起こったこともあって、より一層、番組に親近感を覚えています。

 「出水市が島津家発祥の地」と紹介された放送を見て、「えっ?」と私も思いました。26歳だった昭和46年(1971年)6月、読売新聞都城通信部に駆け出し記者として赴任以来、市役所や郷土史家の皆さんから宮崎県都城市が「島津家発祥の地」と聞かされていたからです。

 なんでも、島津家初代とされる惟宗忠久(これむねただひさ)が都城にあった荘園「島津荘」の地頭となって島津と改姓したといい、この史実こそが、都城の歴史を語る市民の誇りのようでした。しかし、平成4年(92年)10月、私が鹿児島支局長になって赴任した鹿児島市では、「出水市が島津家発祥の地」との史実は寡聞にして記憶にありません。

 このため、都城出身の「そのまんま東」知事、いや東国原英夫・宮崎県知事が、都城市長らとともに、「島津家発祥の地」に対する事実誤認をどげんかせんといかん――と、NHKに「島津家発祥の地は都城」と異議を唱えたのを知った時には、「じゃっど(その通り)」と、拍手したい気持ちになったものです。

 NHKは21日、都城市に3月30日の番組冒頭で「篤姫」が養女になった近衛家と島津家の関係を紹介する際、島津の名称は都城に由来することを強調すると伝えたそうです。都城市民は、都城(みやこのじょう)を「ミヤコンジョ」と発音します。当日の番組ではどのような説明となるのか、さらに放送を見た鹿児島(地元の人は「カゴンマ」と発音)県民と、ミヤコンジョ市民がどのように受け取めるのか、今から興味津々ではあります。
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2008年2月11日〈エッセー〉009:「まちおこしセンター」を考える

2008-02-11 20:53:01 | エッセー

写真①:福津市「(仮称)まちおこしセンター」が建設されるJAむなかた津屋崎支店跡の市有地
     =福津市津屋崎天神町で、2007年5月31日午後5時11分撮影

・連載エッセー『一木一草』

第9回:2008.2.11
 
「まちおこしセンター」を考える


 「津屋崎千軒って、どこにあるんですか」。2月10日午後、携帯電話が鳴ったので応対すると、福岡県春日市の年配女性からでした。2007年11月、西日本新聞に掲載された「福津市『津屋崎千軒』の名所案内 住民ガイド始動」の記事に載った「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の連絡先になっている私の電話番号を見て、「あした津屋崎に行ってみようと思ったから、電話しました」という。

 福津市が建設するという「(仮称)まちおこしセンター」が、津屋崎天神町の「JAむなかた津屋崎支店」跡の市有地=写真①=約2,800平方㍍にオープンしていれば、津屋崎千軒の場所案内はもっとしやすくなると思います。

JAむなかた津屋崎支店跡福津市「(仮称)まちおこしセンター」が建設される市有地
         (ピンが立っている所)

 2月6日、「(仮称)まちおこしセンター建設基本計画市民検討会議」の第一回会議を開いた福津市当局は、木造平屋400~500平方㍍の同センターを9月から21年3月までに建設すると説明しました。総工費は、屋外整備施設の駐車場、イベント広場も含めた設計、施工費など2億円で、うち施工費は約1億2千万円です。

 同市民検討会議は、区長会や津屋崎祇園山笠保存会、市商工会、市観光協会、津屋崎商店会、旅館組合、海水浴場組合の7団体代表委員13人と公募委員の市民6人の計19人に、企画政策課、産業観光課、福津ブランド推進室の市関係課幹部5人で構成。私も市民公募委員として出席しましたが、漁協と農協の代表委員の出席はありませんでした。津屋崎漁港そばの「お魚センター」や、勝浦の農産物直販所「あんずの里」との連携を考えると、出席してほしい団体です。

 市側の説明では、「まちおこしセンター」の建設については、国交省のまちづくり交付金事業の適用を受け、事業費の4割が交付金の対象で、残り6割のうち95%が合併特例債の対象になります。交付要件としては、地域の活性化を進めるNPOや商工団体などによる地場産品等の開発・研究・展示と、需要拡大に向けた情報発信の拠点となる施設であることが求められています。

 このため、①地場産業や農林水産業等の地域資源を活かした新ブランドの企画・開発・販路開拓などに係る検討・意見交換を行うスペース(必須)②地域の中小製造業や商店街、観光協会等との連携・交流スペース、新ブランド等の展示スペース――の機能を持たねばなりません。

 第1回会議では、「まちおこしセンター」の計画目標について、〈津屋崎千軒〉活性化のため、観光拠点や地域イベント、たまり場としての役割を期待し、特産品売り場や観光案内、資料展示と来場者との交流スペース、駐車場などの整備が必要との意見が出ました。市では、3月19日まで計4回の会議で、基本計画案の策定と管理運営案を検討、4月から8月までに設計を完成させる予定です。

 しかし、木造平屋400~500平方㍍の同センターにどれだけの機能スペースが配置できるか、課題ですね。加えて、国交省の交付金は、施設整備費が対象で、施設運営の維持管理費については交付されません。事業費の6割のうち95%が合併特例債の対象になるといっても、市財政の借金の起債がすでに約250億円あるとされている現状に、新たな借金を積み重ねることに変わりはありません。

 必須要件の「意見交換を行うスペース」や、「連携・交流スペース」、「新ブランド等の展示スペース」を設けると、津屋崎千軒の歴史や文化の理解を図る展示スペースは十分に確保できるでしょうか。「〈津屋崎千軒〉そうつこう」ボランティアガイドをやっている立場から言わせてもらえば、センターに観光客を案内して、津屋崎千軒と呼ばれて栄えた往時をしのばせる展示物がないと、説明にパンチがありません。その点、北九州市八幡西区の市立「長崎街道木屋瀬(こやのせ)宿記念館」=写真②=には、江戸時代の木屋瀬を中心とした郷土の歴史展示室や、四季の祭りの映像ライブラリー、休憩と交流の場の「ふれあい宿」など分かりやすい展示、学習機器が配置されています。


写真②:常設展示室や映像ライブラリーがある北九州市立「長崎街道木屋瀬宿記念館」
     =北九州市八幡西区木屋瀬で、2008年2月10日午前10時44分撮影

 基本計画案の策定には、各団体代表から意見が相次ぎそうです。また、何より管理運営案については、どの団体、住民らが主体的な役割を果たすのか、まとめ役はどうするのか、ランニングコストはどう工面するのかなど大きな論議を呼ぶでしょう。「まちおこしセンター」だから町興し住民団体が中心になってやるという単純な思考で通る話でもないし、ボランティア活動だけで町興しが長続きするはずもあり得ません。

 将来的に、どのような管理、運営体制を目指して、どう使用していくのか、センターの設計段階から管理・運営を担当するスタッフも関与していないと、来春のセンター稼動はスムーズにいかないのではないでしょうか。魅力を感じて人が訪れ、移り住みたくなる津屋崎千軒の街に再生する拠点となる「まちおこしセンター」にするにはどうすべきか、市民検討会議での今後の話し合いを楽しみにしています。

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2007年6月16日〈エッセー〉008:「キャナルシティ博多」と津屋崎の町興し

2007-06-16 06:57:20 | エッセー
写真①:青く澄んだ津屋崎の海(向こうは福岡県新宮町方面)
     =福岡市津屋崎渡で、2007年5月20日午後3時46分撮影

・連載エッセー『一木一草』

第8回:2007.6.16
 
「キャナルシティ博多」と津屋崎の町興し


 「今までは働くところを決めてから住むところを決めていたが、これからの世代は住みたいところを決めて仕事を決める」。私が読売新聞西部本社社山口総局長だった11年前の平成8年(1996年)8月、下関市の山口県国際総合センターで西部本社が開いたイベント・「読売新聞下関移動支局」のシンポジュウムで、特別講演していただいた浜野安宏さん(浜野総合研究所社長)の言葉が最近、耳に響くようになってきました。

 津屋崎の町興しを考えているこのごろ、新住民の方から「津屋崎の海や自然が素敵だから、ここで子供を育てたいと、福岡市から移住して来た」とか、「夕陽が美しい所なのでマイホームを建てたが、干潟や田んぼでクロツラヘラサギをはじめ野鳥もいっぱい見られるから良かった」などの声を聞くからです。

 浜野さんは、世界を舞台に活躍しているライフスタイル・プロデューサー。「東急ハンズ」の企画開発コンサルティングや、「横浜みなとみらい21」都市のプロデュース、福岡市で成功した複合商業施設・〈キャナルシティ博多〉のコンセプトプランでも知られます。

 浜野さんは「事業を起こすにしても、新しい街づくりをするにしても一番重要なのは、いかにリアルなビジョンを生み出せるかです。それには、豊富な自然体験が大切。その街が持っている自然の流れがどうなっているかを読みきれないと、構想も出てこない。街づくり、地域づくりはできない」とも講演。「運河のある街」という意味で名付けられた〈キャナルシティ博多〉の建設構想では、那珂川に面しているという自然の流れを見つけ、川に拓(ひら)く街づくりのコンセプトを得たという。

 その街が地球上でどうなれと求められているのか、ビジョンを作ったら長い時間をかけてもやり遂げる熱意が要る。それを見続ける数人の感性豊かな人が必要です。魅力を感じて、人が住みたくなる街にすることです。これからは、工場の誘致を第一に考えるのではなく、人の誘致の時代になる――と言い切っていた浜野さん。

 浜野さんの助言に従い、津屋崎の街が持っている自然の流れを読むと、「海に開けた港町」として発展してきたと言えます。玄界灘という「海の道」を利用した海上交易と、内海(うちうみ)に面して九州一の塩田を開発したことで、江戸時代から明治にかけて〈津屋崎千軒〉と呼ばれ、栄えた町並みが形成されました。この海や白砂青松の海岸、山と田園の美しい自然を守り、歴史と文化を伝える古い町並みこそが、私たちの住む津屋崎に癒しの空間を与えてくれているといえるでしょう。

 津屋崎の恵まれた自然環境と歴史・文化遺産を活かして、「住んで良い街が、訪れても良い街、移り住みたくなる街」にしたいものです。それには、明治維新の原動力になった薩摩隼人の〝ぼっけもん(向こう見ずな奴)〟や、「おもしろきこともなき世をおもしろく」の辞世の句を残した長州藩士の高杉晋作のように、津屋崎弁で言う〝のぼせもん(熱中しやすい人間)〟が必要です。

 薩長連合を斡旋した土佐藩士・坂本龍馬は、私の尊敬する人物の一人です。龍馬も、維新回天に奔走した偉大な熱中者でした。津屋崎にも、町興しに走り回る〝のぼせもん〟が一人ぐらいいて、「おもしろきこともなき世をおもしろく」してもいいちゃないと、と思います。
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2007年6月7日〈エッセー〉007:湯布院の〝町興し三羽烏〟と津屋崎

2007-06-07 06:36:36 | エッセー
写真①:中谷健太郎氏の著書『たすきがけの湯布院』と『由布院に吹く風』
     =福津市津屋崎で、2007年6月3日午前9時19分撮影

・連載エッセー『一木一草』

第7回:2007.6.7
 
由布院の〝町興し三羽烏〟と津屋崎


 町興しには、中心となるキーパーソンが必要です。大分県湯布院町(2005年に行政合併し現由布市湯布院町)では、〝町興し三羽烏〟ともいうべき人たちがいました。

 高級旅館「亀の井別荘」主人の中谷(なかや)健太郎(1934年、大分県北由布村生まれ)、旅館「湯布院玉の湯」代表取締役溝口薫平(1993年、同県九重町生まれ)、旅館「山のホテル 夢想園」社長志手康二(若くして他界)の3氏。

 中谷氏は、明治大学卒業後、東宝に入社して撮影所で助監督を務め、62年に父親の他界により帰郷、湯布院の名所・「金鱗湖」そばにある「亀の井別荘」の経営を継がれました。以後、「ゆふいん音楽祭」、「牛喰(く)い絶叫大会」、「湯布院映画祭」、「ゆふいん文化・記録映画祭」などのイベントを企画、郷土料理開発など湯布院の地域づくりに貢献されました。湯布院町商工会長や由布院温泉観光協会会長を歴任、湯布院を人気観光地に育てた名プロデューサーともいえます。

 中谷氏の活動の軌跡は、著書『たすきがけの湯布院』(ふきのとう書房)や、『由布院に吹く風』(岩波書店)=写真①=などに綴られています。町興しの企画を次々と打ち出し、溝口さんや志手さんら同志と成功させていきます。

 私は1999年11月9日、〝町興し三羽烏〟の一人の溝口さんが経営する旅館「湯布院玉の湯」=写真②=に宿泊しました。読売新聞社主催の「ノーベル賞受賞者を囲む『フォーラム 21世紀への創造』」大分セッション開催(翌10日、大分市)の前夜会食会が同旅館1階広間で開かれるため、出席する保科昭彦・読売新聞西部本社(北九州市=当時)代表に同本社代表室長として随行の出張でした。

 「亀の井別荘」西側の大分川沿いの田んぼに木を植えて、小さな林に囲まれた宿を造り上げたという「湯布院玉の湯」は、中庭も広く、ゆったりとした和風旅館の印象。和紙作りの宿泊者記帳簿をめくると、著名人の名前が連ねてありました。


写真②:木立に囲まれた旅館「湯布院玉の湯」の玄関(手前は大分川)
     =由布市湯布院町湯の坪で、07年5月31日午前9時59分撮影

 湯布院南部の山の手にある「山のホテル 夢想園」=写真③=には07年5月30日、私ども夫婦と来福した細君の母親の3人で湯布院へドライブし、1泊してきました。やはり、木立に囲まれた道から玄関に入る和風旅館です。


写真③:木立の間の道から玄関へ通じる「山のホテル 夢想園」
     =由布市湯布院町川南で、07年5月31日午前9時28分撮影

 約6百年前、難病に苦しむ僧侶の夢枕に弘法大師が立って湧出する温泉場を告げられ、湯に浸って病が全快し「「御夢想温泉」と名付けられたという温泉がゆかりの宿。男性用露店風呂「御夢想の湯」=写真④=からは、借景にされた豊後富士・由布岳(標高1,584㍍)が眺められ、気持ちの和らぐ温泉でした。


写真④:脱衣場は藁葺き屋根の男性用露店風呂「御夢想の湯」
     =「山のホテル 夢想園」で、07年5月31日午前6時28分撮影

 女性客や家族連れを客層にしているそうで、男性用露店風呂より広い女性用露店風呂「空海の湯」に入れなかったのは残念。夕食や朝食の席では、しゃれたデザインや色合いの食器=写真⑤=と郷土料理の味にセンスの良さを感じました。インターネットで宿泊予約したため低料金で宿泊できたのもラッキーで、また泊まりに来たい気になりました。


写真⑤:しゃれたデザインや色合いの食器に入れられた料理(夕食献立の一部)
     =「山のホテル 夢想園」で、07年5月30日午後5時59分撮影

 「亀の井別荘」にはまだ泊まったことはありませんが、やはり木立に囲まれた和風旅館。「人のぬくもりのある町、癒しの里・湯布院」へと導いたリーダーの宿らしく、もてなしの手立てを尽くすサービスがありそうです。

 我が福津市津屋崎を顧みて、平成の〝町興し三羽烏〟は産声を上げているでしょうか。「津屋崎千軒 海とまちなみの会」という町興しの巣に、すでに43人の有志の仲間が集まっています。湯布院は1975年、大分中部大地震により温泉旅館が壊滅したとの風評被害を一掃しようと、「ゆふいん音楽祭」、「牛喰い絶叫大会」など一連のイベントを次々とスタートさせ、全国的に有名な温泉保養・観光地に発展しました。

 津屋崎では07年3月限りで西鉄宮地岳線の津屋崎―新宮駅間が廃線になり、01年12月から休園中の「玄海彫刻の岬 恋の浦」(敷地面積約100㌶)は、「城山観光」(鹿児島市)から東京・お台場で江戸時代の街並みを再現した大規模な温泉テーマパークを経営している「大江戸温泉物語」(東京都)に売却されました。同社は、掘削ずみの温泉を利用した施設や、日本家屋風の宿泊用コテージ100棟程度を新築し、野外展示されている彫刻54体やレストランなど既存施設も活用、湯布院とともに全国的に人気のある黒川温泉(熊本県南小国町)のような風情を醸したい、との意向で改装計画の構想を進めているそうです。

 地震の風評被害ならぬ「西鉄宮地岳線の廃線」を逆手に取り、「大江戸温泉物語」の温泉を利用した新しいレジャー施設の誕生を横にらみしながら、江戸時代から「海に開けた港町」として海上交易と九州一の塩田開発で賑わった〝〈津屋崎千軒〉文化〟の歴史と町並み、豊かな自然を活かせば、津屋崎の誇りある町づくりは可能ではないでしょうか。今こそ、津屋崎のピンチをチャンスに変える天の時ですよ、津屋崎の〝町興し三羽烏〟の皆さん!
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