とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

奈良県の二上山を歩く

2009-04-14 22:29:14 | 山登り
雄岳(517m)と雌岳(474m)の二峰に分かれた二上山は奈良盆地を挟んで三輪山の西に正対するので、大和国から見ると雄岳と雌岳の間に太陽が没する。ゆえに死者の魂が赴く山として古代には特別な思いが寄せられた山である。

こんな紹介記事を読んで、ロマンがある山として興味を抱き登ってみることにした。高い山ではないので歩行時間も短く、お花見がてらハイキングを楽しむつもりで計画した。土曜日にマラニックをした後であったが、一眠りしてその日のうちに、奈良県に向かった。二上山の麓にある道の駅「ふたかみパーク當麻」に着くと、日の出まで仮眠をした。

目が覚めると、駐車場の周りが、なんだか賑やかである。駐車場は満車状態となっていて登山者らしき人やランナーらしき人が一杯集まっていた。何かのイベントが開催されているようだった。聞いてみると「大阪府チャレンジ登山大会」というイベントがあり、参加者がスタートのために集まってきていたようだ。この大会は、体力・脚力・技術に応じて、歴史とロマンの二上山,葛城山,金剛山を踏破する、大阪府制定「ダイヤモンドトレール」コース36kmの登山大会であった。歩いてもいいし、走ってもいいということで、我々もその間に混じってしばらく登山をすることになった。



二上山は歴史的な史跡や古墳が多い場所である。まず最初に出会ったのが、鳥谷口古墳だ。鳥谷口古墳は、高さ2.1m、一辺約7.6mの方墳。古墳時代の終末期、7世紀後半頃に築造。この古墳は、後で出てくるが大津皇子の墓ではないかとも言われているがその真偽は定かでない。

その後、登山者やランナーと一緒に山を登り2番目の史跡がある岩屋岩窟に着く。

岩屋岩窟は、雌岳中腹にある石窟寺院跡。西向きに開口する大小2基の石窟があり、「岩屋」と呼ばれる。大石窟(間口7m、奥行き5m、高さ6m)内部には、中央に3層からなる凝灰岩製多層塔(高さ3m)があり、その台座下部には涌水を溜める小坑が残っている。寺名や縁起は失われているが、出土した須恵器などから奈良時代の築造といわれる。国指定史跡。中将姫が當麻曼荼羅をここで織ったという伝説もある。


チャレンジ登山の人たちは、このまま下っていくのだが、我々は雌岳山頂を目指して登っていった。

ここから静かな山歩きとなった。ほどなく雌岳山頂に着くと山頂は桜が満開で気持ちよい広場となっていた。山頂には大きな日時計やベンチが置かれ、公園のように整備されている。ほぼ360度の展望が開けており、大和平野や大阪平野、金剛連山が見える。


雌岳を下り馬の背と呼ばれる尾根を登ると、雄岳の山頂である。雄岳の山頂は私有地ということで入山料(200円)を取られた。山頂には、葛木二上神社があり「権現さん」として地元の人々から親しまれている。創祀時期は明らかではない。祭神は豊布都御霊神(とよふつみたまのかみ)(建御雷神(たけみかずちのかみ)ともいう)と大国御魂神(おおくにみたまのかみ)。御雷の名は雨を降らせる雷神であり、雷は神鳴りともいわれる。この神社の奥の広場で、早い昼食を取ることにした。今回の昼食は、スパゲッティを茹でて食べることにした。ミートソースも出来合いを買ってきたので温めるだけである。ガスの火力があるので茹で上がるのも早く、簡単に出来上がった。


食事が終わると、葛木二上神社を抜けすぐ下にある大津皇子の墓に寄った。ここが今回同行したS氏が最も寄ってみたかった場所である。二上山雄岳山頂近くにある経十数mの円墳だ。大津皇子は第40代天武天皇の第三皇子で文武両道に優れ、『懐風藻』や『万葉集』に歌がおさめられている。草壁皇子とともに天武天皇の継承者と目されていたが、686年9月天武天皇の死後、謀反の罪で捕えられ、磐余の地で処刑された。弱冠24歳であった。この謀反は持統天皇側の陰謀であり、無実であったとする説もある。皇子の死を嘆き悲しんだ姉の大伯皇女(おほくのひめみこ)の「現身(うつせみ)の人なる吾や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と吾がみむ」という『万葉集』の歌は有名で、この場所は宮内庁が管理している。



大津皇子の墓からは、整備された登山道を1時間ほどで下山した。今回は飛鳥時代の史跡や古墳をめぐる歴史散策登山であった。雄岳の稜線から雌岳の斜面一杯に咲き乱れる山桜もきれいであった。

特に飛鳥の歴史に詳しいS氏が来てくれたおかげで、いろいろな薀蓄話を聞けたのが良かった。登山自体は3時間半程度で歩き足らない感があり、時間も早いので、聖徳太子の墓がある太子町叡福寺に寄ることにした。続きはまた明日。